見出し画像

中華鍋を知らない日

 空気中の花粉が光を屈折させて、街が、人が、そこにいるようでいないように、いる、いた、ある、の中で過ごした1ヶ月の普通の頃の話。俺は今より痩せていた。


///


 2駅隣りのショッピングモールでビリヤニを食べた帰り、チャリのギアが外れて、このまま走ってると多分このチャリの寿命めっちゃ縮めちゃうな、とか思うけど戻れないから、頑張ってもらって帰った。マンションの駐輪場で問題の箇所を問診すると、結構大ごとになっていた。ヤバ、高かったのにぃ、と思って、ふと耳を触るとAirPodsが片耳無くなっている。おいおいおいおいおい。だし、数十分屋外にいたせいで、花粉症、鼻水どばどば。あー終わった!終わった!終わりー!って感じで家に入ると、キッチンに中華鍋があった。

「憧れとったじゃろ?大人やし買ってみたんよ」

同棲している彼女が俺の気を察してか、察さずしてか、説明してくれる。俺はチャリだったりAirPodsだったり花粉症だったりで気もそぞろどころか気もどばどば、目もどばどば、涙ぽろりって感じで、軽く会話を流しちゃう。

 夜の7時。世間が思ってるほど面白くも何ともないし、俺にとっては2時限目の国語みたいな時間なんだけど、俺はまだ中華鍋を知らない。

 ざっくりとした見積もりはこうだ。チャリの修理に25000円(パーツの取り寄せが必須)、AirPodsの買い替えにさらに25000円(メルカリとかで片っぽだけ買うのとか鬱陶しい)、アレジオンとナザールスプレーに2800円。計52800円。

 フリーランスになって12年。最初の数年は仕事がない上に借金もあるし、やる気の捌け口が無いとぼやく癖にやる気を出せるところで出せないクソだったけど、何とか安定してきて、欲を出さず細々生きるには充分な金を稼げるようになった。だけど、もしくは、つまり、ゆえに、PS5よりちょっと安くて、熱海2泊3日よりちょっと高い52800円っていうのが、どういう金額なのか俺にはよく分かってる。すげー高いんだ、ほんとに。久しぶりの丸一日の休日、ちょっと呑気な事したくなっただけなのに。ビリヤニなんてそんなに食べたかったわけじゃないのに。これが何かの代償ならば、この宇宙のエントロピーは人類が思っている数倍増大している。

 これも休日の気まぐれで買ってみただけのメビウスの8mmを換気扇の下で吸いながら、あー、とか、つー、とか言ってると、彼女が近づいて来て、

「これからトマトと卵炒めたやつ作るけぇ。楽しみにしときんさい」

って言う。俺は

「あー、トマトと卵炒めたやつねー」

って返す。

 新品の中華鍋はまず、火入れをしなくちゃいけないらしい。ゆっくりじっくりコンロの火で、中華鍋全体が青く光るまで炙るのだ。そうする事で、なんか錆止め塗料?みたいなやつが消える?マジで?ってことらしいんだけど、むっちゃ時間がかかる。軽く30分は炙り続ける彼女。

「何じゃこの作業。変わってーや」

「ん」

って感じで変わってあげる。中華鍋って持ってみるとマジ重い。重いっていうか、こんなに重心が遠い物って日常で持つ事ないよな、っていうビビり。いや鉄ってすげーとか思って、思い出す。鉄に興味があった頃を。


///


 俺は確か当時住んでた亀戸のシェアハウスのリビングで同居人とビールを飲みながらテレビ点けて金の話をしてた。シェアハウスのみんなで車で恐山に行くための金勘定だ。極限まで切り詰めて切り詰めて試算した結果、1人あたり9000円で行ける、ってなって、マジかよヤベー!とか言ってたと思う。そん時に点けてたテレビでやってたのが関西国際空港のドキュメンタリーだ。

 関空が建てられた場所は埋め立ての人工島で、その土木工事は世界に類を見ないほど超大規模なものだったらしい。生活排水と工業廃水で淀みきった大阪湾に、大量の土と石とセメントを流し込んで、マイクラやシムシティだったら秒で終わるような作業をすごい長い時間をかけてやって、地元の漁師や漁業組合への補償や、都市部の湾での工事のための騒音対策等々で、当初の想定を遥かに上回るお金をどばどは使って、人工島と関西国際空港は作られた。1991年まで行われてた第1期島造成工事にかかったお金は1兆5000億円。そこからさらに2007年まで行われた2期工事を経て、今の関西国際空港はできる。

 この途轍もないスケールに超やられる。マジ土木・移動・物流って凄い。人が手で物を持つところから、ここまで手に持てないとこまでいけたのが、超ロマンチック。俺たち人は、時間と人と資源をじゃぶじゃぶ使って、移動したり物を運ぶのだ。そしてそれから、嬉しくなったり、悲しくなったりしてるのだ。アメイジング!

 ビールが数本空いた頃、ドキュメンタリーは興味深い展開になっていた。関空の構造を支えるために撃たれた鉄柱の話だ。途轍もない質量を持った構造体は、並大抵の強度では自立させることが出来ない。ましてや人工島だ。砂遊びをしている子供でも分かる物理だ。当然この地球上で選べる強硬度かつ大量生産できるマテリアルは鉄しかないわけで、鉄柱を大量に人工島に突き刺すわけだが、これも想定を超える苦難の作業だったらしい。地盤沈下は避けることが出来ないため、予め沈下量を想定して埋め立て量を調整しなければいけない。それに合わせて鉄柱を刺す位置、深さをいちいち決めていかなければいけない。厳密には今現在も年間10cmほど沈んでいっている関空が未だその想定内なのかは不明だが、とにかくその鉄柱と人工島と作業員の巨大な苦労によって、関空は今も維持されている。

 関空ができて数年が経った頃、大阪湾に不思議な現象が起きていることにみんなが気づき始める。あんなに澱んでいた海水が、海底が見えるほど透き通っているのだ。すぐさま大学の研究機関が水質調査を始めるが、肝心の原因が分からない。何故だ、、、ここ数年で大阪湾で変わったこと、、、関空、、、埋め立て、、、

 ユリイカ!!!!!

 大阪湾を震源にして世界中が鉄の持つ神秘のエネルギーにヤラれた瞬間である。鉄および鉄イオンが持つ途轍もない浄化作用(?)によって大阪湾は極めてエントロピーの低い海水へと回帰(?)したのだ。人間が数百年かけて、コツコツ太らせて薬漬けにした海水をほんの数年で。マジヤバい。まるで、なんかああいうやつみたいだ。時々人里に降りてきて人の穢れや厄を持って帰っていく、そういう神話的スケールの何か達。鉄は現人神ならぬ現鉄神となって大阪湾に降りてきてくださった、と、そう言って過言では無い。関空という人の穢れの1つの臨界点において、しかも、それが利便的追求の過程で起きた加護である事。その感動に足るビールの本数は4本!しかも500ml缶だ。

 そこから暫く俺の鉄ブームが起きる。美術作品にもした。鉄球が天井から降りてきて、地面に設置されたトランポリンの上にひかれた鉄板にぶつかって、また天井に戻っていくという作品。鉄球が鉄板に触れる瞬間にアーク放電させる事で、この感動を何とか表現しようとしてみたりした。失敗だった。鉄星という仮想の天体の存在も発見する。陽子崩壊が起きない宇宙で生まれる鉄の塊の話だ。宇宙がこのペースで膨張していくと、いずれ安定化を求めて鉄56に収斂するという仮説。

 "この世界はいつか全て鉄になる"

いや、

 "我々は鉄のために用意された死である"

だろうか。凄まじい悲劇だ!俺はこの神秘に触れてしまった事に後悔すら感じてしまう。やはり俺たちの知っているこの宇宙と時空間は、俺たちと別の存在によって、極めて不可抗力的に制御されているのだ。俺たちは当面空に向かって祈ることを辞めなくてはいけない。地面に向かって跪くべきなのだ。

 それから鉄のことを考えるのをやめた。普通に鉄分たっぷりのヨーグルト飲料とか飲んだり、レバニラ炒めとかも食べた。心にどこかにひっかけてある鉄のことは、日常という卑小で狡猾な病気によって忘れ去られつつある。


///


 中華鍋が真っ青だ。パッと見た感じ冷たそうだ。心なしかアーク溶接の時の匂いがする。俺たちのだらしない3口コンロに置かれっぱなしになっているテフロン加工されたT-falのフライパンを見ながら、これとこれが同じ用途の道具だなんて納得いかんな、と思う。こいつでこれから卵とトマトを炒める!俺は!

 中華鍋で炒めると微量の鉄分が混入して身体に良い、とか、遠赤外線がウンチャラカンチャラ、とか言うやつはアホ。何かプラスの理由が無いと動けないし考えられない奴はスマホを割って、とにかく中華鍋を振るべき。今この世界でちょうど足りてないのは、この重さ。とにかく重さ!そして、火力!(熱伝導力?)卵が一瞬で焦げる。トマトが秒で沸騰する。1分もしないうちに、俺は、使い古したファーストミットのようで、そのくせすげー熱いやつを作り上げた。彼女は言う。

「もっとこいつと仲良くしてやりゃにゃあかんね」

もっともだ。

 あれから毎日中華鍋を振り続けて、徐々に熱と重さが身体に染みついてきた。これは多分筋肉とか練習とかの話では無いのだ。多分、身体の一部がこの重さに置き換わりつつあるのだ。俺の身体の小さいけど大きな変化を感じる。そして、俺はようやく本当の鉄のことを知り始めている。何度も何度もトマトと卵を炒めながら、着実に俺は鉄へと進んでいる。

///

 ざっくりとした見積もりはこうだ。チャリの修理に25000円(パーツの取り寄せが必須)、AirPodsの買い替えにさらに25000円(メルカリとかで片っぽだけ買うのとか鬱陶しい)、アレジオンとナザールスプレーに2800円はもう必要なくて、代わりに鉄おたまの高級なやつ4980円。計54980円。この54980円はもうほとんど鉄おたまに払っているような感覚だ。資本制社会のすごい根っこに触れてしまったような気もしなくもないが、迷いは無い。彼女と2人で合羽橋に向かう。目当ての店に入って目当ての鉄おたまを買うと、今まで見えていた景色も微妙に変わってくる。子供の頃に感じた、棒状の物を持つと自分が強くなったような気持ちになるあの感じを東京で初めて感じる。

 毎日一緒に過ごしているものの、よく考えたら久しぶりのデートにもなっていて、どうしよっかみたいになる夜6時。ここら辺でご飯食べるかー、映画でも見るかー、とかもちょっとあったけど、やっぱ2人とも早く炒めたくなってる。とりま、まー、帰って、飯作って、食いながら溜まってる録画見るべ、って感じで地下鉄に向かう。

 衣替えも難しくて、マスクも要らないけど、花粉症にまだ予断を許さない、東京で1番不思議な季節、3月。色んなことが棚上げにされる、3月。何か小さい事を大きい事と取り違えてうじうじしちゃう、3月。俺は味覇を入れるタイミングを卵の後にするか、トマトの後にするかで悩んでいる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?