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土忘(どぼう)

またたくさんの土を動かして体のあちこちを痛めている。たくさんと言っても1.5tとかそれくらいで、土の1.5tは意外と少なく見える。ちょうどいい大きさの例えが思い浮かばない、セミダブルベッド4個分くらいだろうか。セミダブルベッド4個と言われてもやっぱりあまりピンとこない気もするけど。一口に土と言っても色々あるわけで、関東ローム層の赤土が東京出身者からするとどこにでもある一番ありふれた土で手に入りやすいのでよく作品の素材にしている。気に入ってるけど粘土質だから水を多く含んでるし粒子が細かくてみっちり詰まっていて、スカスカの火成岩とかと比べるとだいぶ重たい。だからローム層の土の1.5tは意外と少なく見えるし、そう見えるけどちゃんと1.5tくらい重たい。
運び終えて3日ほど経つけど、腱鞘炎で手首は回らないし、背筋は軋みっぱなし、腰は予断を許さない状況が続いている。スコップの荷重を支えていた左人差し指の付け根あたりは触覚が鈍くなったままだし。土は重いし汚れるし処理にコストがかかるし、作品素材として扱うたびに自分の体が消耗したり壊れていく感覚をありありと感じる。人間何をするにしても寿命に向かって進んでいくので、常に消耗しているといえばそうなんだけど、重機も使わず体とスコップと土のう袋で体重の20倍超の重さの土を相手にするのは中でも終わりに向かってわざわざ急ぎ足で向かってる感じがする。体を有限な資源と捉えるなら体対効果、ボディーパフォーマンス、ボディパがよくない。高尾山登るみたいな心積もりでいつもこういうことを始めようとするので、大昔の炭鉱夫以下の装備で巨大なものに触れてしまう。そして、喉元過ぎればいつもそういう辛さを忘れて能天気な炭鉱夫に戻ってしまう。もう嫌だ、俺は肝に命じた、二度と対策なしにこんなことはしない、そうじゃないとこんなことは長く続けられない。


土は本当に重たい、重たすぎてウケる。ガイアでテラでアース過ぎ。人間が関われない、絶対的とも思えるほどの重たさ、大きさ、多さ。先史時代に土に神を見た人間も1.5tの土を運んだことだろう。土木やインフラや建築が如何に異常なことをやってるのかわかる。山一個削って新しく島作ったり、逆によそから運んだいらん土で山作ったり異常な欲望と労働だと思う。


上記がこの間製作所した作品の完成2日後くらいのテキストで、今は展覧会も終わって1週間くらい経っている。土は元あった業者へと返却した。設営と撤収の2つの事柄の間にはやはり特殊な磁場があり、等号、あるいは単なる逆再生ということにはならず、設営にあったはずの苦痛も愉悦も感慨もなく、どちらかといえば淡々と粛々と事態が収束していく。テキストを読み返していても、やはり設営のときは上気しているような感じがある。もちろん撤収も段取り、調整、実作業と、やるべき作業はひとしきりあるが、圧倒的に淡白で情動も小さく、個人的には気に入っているのはむしろこちらの方なのかもしれないと思うことがある。


こうして全て忘れて、また苦しい場所へと向かってしまう。どうせすぐにたくさんの土を運ぶことになるだろうし、取り返しのつかないなにかが起きるまでこの悲劇的な往復を繰り返してしまうのだろう。忘却することで何度でも地獄に自らの意志と自らの足で踏み入るのだ。自分はきっと前世で親を殺しているから、その報いなんだと思うことにしている。

さようなら。

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