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虫溜まり(#2000字のホラー)

ぷつり、と雨粒が弾けた。

早々に梅雨明け宣言をしたお天気キャスターをよそに、そびえ立つ山々に足をとられた雨雲たちが、逃げ場をなくしてここら一帯でとぐろを巻いている。

暗闇を埋め尽くすほどに鳴きしきる蛙の声に、祥子は地面が歪むような感覚をおぼえた。沈むように踏み締めた靴の底で、また、ぷつり、と何かが弾ける。

湿った土の香りに混じって、ほのかに生臭い匂いがした。

夫と暮らしはじめた2LDKのマンションは、いわゆる訳あり物件というやつだった。駅から徒歩5分のおしゃれにリノベーションされた一室で、しかし破格の値段で売りに出されていた。祥子たちが移り住む前は、長いこと空き部屋だったらしい。

聞けば、子どもが転落死する事故があったという。理由は分からない。マンションのすぐ下を通る電車に手を振っていたのかも知れないし、きっと親が目を離したすきに、意図せずして起こったのだろう。一家はその後しばらく同じ部屋に住み続けたが、数年して別の町へと越して行ったそうだ。

いずれにせよ、祥子たち夫婦に子どもはなかったので、大して気にすることではなかった。

山間部に佇むマンションは、住みはじめると存外快適で、怖がりな夫が心霊的な謎めいた現象を目撃することはなかったし、隣人とは会えば挨拶をするくらいのほど良い距離感を保てている。

ファミリー向けのマンションなので、夕暮れ時になると廊下を駆け回る子どもたちの声で少しにぎやかになるけれど、鉄筋コンクリートの分厚い壁は適度にそれらの存在を遮ってくれた。

「おわ!あちゃー、俺が連れて来ちゃったかな」

近所で暮らす義理の両親に、お歳暮のビールを届けた帰りのことだ。もしかすると、祥子が連れ帰って来たのかもしれなかった。

十畳ほどのリビングのど真ん中、夫が屈んで覗き込んだ目線の先には、床板の木目に沿うようにして身を堅める、細長い虫がいた。

はじめ糸屑のように思われたそれは、擬態しているつもりだろうか、ふーっと息を吹きかけてみても、微動だにしない。暖色系の室内ライトを浴びた鱗が、怪しげに赤黒く光っていた。

祥子はこの虫が格別に嫌いだった。

立派なツノがあるわけでも、綺麗な羽が生えるわけでもない。ただ、ただ、地中で朽ちた葉を食らい、醜い体躯が窮屈になれば脱皮をし、さらに大きな身体になる。決められた時期に数百の卵を産みつけ、雨が苦手なそれらは、梅雨になれば孵化していっせいに地上へと湧き出す。

そして上へ上へと、這い上がるのだ。

気づいたときには、マンションの六階、この町では六階建てのマンションが最も高い建物なのだが、地上からこんなに離れたベランダの片隅にも、解けかけの毛糸玉のような、黒光りする有象無象の塊ができあがっていた。

祥子は、この塊のことを「虫溜まり(むしだまり)」と呼んでいた。虫が一箇所に身を寄せる現象を、正式に何と言うのかは知らない。

当初夫はあの塊のことを「虫団子(むしだんご)」と形容していたが、対処法を調べようと、祥子がうっかりそのキーワードでネット検索をかけて、それからしばらく、夫婦ともども好物の団子が食べられなくなった。

梅雨が終われば自然といなくなりますよ、という放任的な文言は度々見かけたが、この町の長雨は、盆が明けるまで続くのだ。

結局これといった対応策も分からなかったし、近所のホームセンターで買った専用の薬剤を撒いてみても、赤黒い背中の光沢が増すばかりで致命傷にはならず。一時的に虫溜まりを散らすことはできたが、方々に散ったそれらがベランダの天井を這い回っているのを発見した時には、ひゅっ、と吐くはずの息を丸ごと飲み込んでしまった。

死んでいるのか、死んだふりなのかは、分からない。

天井で静かにとぐろを巻くそれらの渦が、ベランダからこっそり内へと上がり込んでは、床や天井を縦横無尽に徘徊し、いつの日か自分の頭上に落ちてくるのではないかと、気が気ではなかった。



「あんた、まだ仕事してるんだって?仕事なんてさ、子どもつくって、とっとと辞めちまいなさいよ」

タバコ片手に腕組みをしたおばさんが言った。まだ会って二回目だから、どうにも名前が思い出せない。

ぷつり、と近くで、雨粒が弾けた気がした。

生えはじめた白髪を茶色く染めて、乾いて濁った爪に透明のマニュキュアを塗りたくった、金を稼ぎに出たことも、ましてやこの田舎町から出たこともない、子どもを産んだことだけを誇りに生きているような、親戚のおばさん。骨張った身体に沿うようにして纏った黒のロングワンピースが、雨に打たれて光を帯びていく。

「ええ、ああ、まあ……はい」

祥子はあいまいに答えて、やり場に困った視線を地面に落とした。

泥で薄膜を張ったタイルには、何者かが這いずり回ったような跡が、波紋のように広がっている。

軒先に吊り下げた盆提灯が、影の中をうごめく小さな生き物の断片を、気まぐれに浮かべたり消したりしていた。

ぷつり。ぷつり。

顔にできた吹き出物を潰す時のような、身に詰まった汚物を弾けさせた感触がある。

この町は、と、祥子は思う。

飲み下すようにして吸い込んだ空気が、生臭い。じりじりと後ずさるようにして下げた祥子の足元には、半分だけ下敷きになった糸屑のような虫がいた。

ぬらぬらとした鱗を波打たせて、残り半分になってしまった胴体で、もがいて、もがいて。

そうして、祥子の影に溶け込むようにして、ピタリと動かなくなった。

この町は、虫溜まりだ。

 


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