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(連載4)ポストコロナ時代の大学選び

4.大学設置基準等の変遷

 4.1大学設置基準 
 かつての大学の設置は今のように簡単ではありませんでした。大学設置基準という文部省(現在は文部科学省)が1925年(昭和31年)に省令として制定した規則にしばられていました。この規則は大学としての教育・研究水準を保つことを目的に、収容学生数に応じた専任教員数、校地および校舎面積、図書館の蔵書数などを細かく決めており、事前に認可申請を出して、これらの基準をクリアしなければ大学の新設はもちろんのこと学部の増設さえも認められていませんでした。しかし、その後、政府の規制緩和の流れのなかでたびたびの改訂を経て現在に至っています。なかでも、国立大学法人化以後には、大学改革に関する中教審の答申を受けた改定が中心になっています。これら次々に出される大学改革案に応えるため対応がかえって大学の教育・研究現場を混乱、疲弊させているということが最近出版された「大学改革の迷走」(著者 佐藤郁哉氏 ちくま新書)で詳しく論究されています。ここでは、この問題にあまり触れずに大学設置基準のいくつかの改定がいかに新設大学を容易にし、高等教育を市場化(ビジネス化)したのかその変遷をみてみたいと思います。
 まず、教育改革を政治議題に最初に乗せたのは中曽根康弘内閣であります。この内閣では1984年(昭和59年)に臨時教育審議会(以下 臨教審)を設置して教育に関するさまざまな議論を行いましたが、その基本は教育に対して規制緩和をどう導入できるかでありました。この規制緩和の流れは歴代の政権に受け継がれ、1996年(昭和61年)に橋本龍太郎政権は六大改革(行政改革・財政改革・社会保障改革・金融システム改革・経済構造改革・教育改革)の方針を発表しました。さらに橋本政権の構造改革は2001年(平成13年)に小泉政権によって引き継がれ、聖域なき構造改革としてさらに強化され、民主党政権のときは別にして現在の安部第二次政権に至るまでこの流れは継続しております。

4.2大学設置基準の大綱化
 規制緩和の流れを汲んで大学が大きく変わるのは1991年(平成3年)6月に改定された大学設置基準の大綱化によるものであります。この大綱化は旧文部省の大学審議会が同年2月に提出した答申案に基づく改定でありましたが、この改定により三つの点で大学設置基準は大きく変わりました。一つ目は、文部省が大学・学部あるいは学科の設置を認可する際に、従来の大学設置基準ではその名称を旧制大学にあった名称に倣うものとしていたが、規模が適正であれば情報・環境・国際・地域・総合政策等のキーワードを組み合わせた名称でもよいとしたことであります。このために、時代の要請に反映した形で、しかも受験生に対して新鮮さを売り出すような学部や大学の新設が容易になりました。当時は100種類程度しかなかった学部や大学名称は現在500種類以上になっています。二つ目は、大学卒業の要件として、一般教育科目36単位、外国語科目8単位、保健体育科目4単位、専門科目76単位の合計124単位を最低の修得単位としていたものを最低修得単位は変えないが、科目区分を廃止して履修内容を各大学の自由にするということにしました。この改定は特に国立大学に対して大きな影響を与えることになりましたが、この教科区分廃止は保健体育や語学では非常勤講師を多用していた私立大学においても科目の縮小、廃止などが自由になり大学の運営が楽になったはずであります。三つ目は、カリキュラム編成の各大学における自由の保障とともに、これを担保する形で大学自身による自己点検・評価の努力義務が課されたことであります。これは後になり第3者による評価義務に発展していくことになります。}

 4.3 教養部廃止の波紋
 この大綱化は特に国立大学に大きな影響をもたらした。当時の98校あった国立大学では,東京大学を除けば教養科目等は教養部という組織が担当していた。もともと教養部は戦後新制大学が発足するときに、旧制高等学校の教員を吸収してつくった組織であります。新制大学発足直後はともかくとして、年数が経過するにつれ旧制高校から移籍した教員も退職して新しい教員に変わってきていましたが、教養部は入学初年度のみの教育を担当するだけで専門学部ともあまり関係がなく、就職や進学準備の卒業予定者や大学院生もいない組織であるために、学内では専門学部からみると格下という意識がありました。教養部に所属する教員もこのことを意識していたものの、教養部は大学設置基準に裏づけられた一般教養科目を担当しているという自負もあり、専門教育の下請けではないとして学部との対話はほとんどありませんでした。入学試験についても学部が実施することが普通でありながら、初年度教育を扱うだけに学生定員を変更するときには教養部の了解を得る必要があるなど、大学内ではやや特殊な組織であっことは否めません。とくに理系の学部では専門教育の時間が足りないとして早く教養教育を切り上げることを強く求めていました。
 1960年 (昭和35年)に入学した筆者でも、大学に入学しながらいまさら保健体育の実技時間でサッカーボールを蹴らせられたり、キャッチボールをさせられるということは時間が無駄に過ぎているようで苦痛でありました。また、自然科学系、人文科学系、社会科学系と別れてそれぞれから12単位以上必修とされた教養科目は高校の授業の焼き直しのようなもので、せっかく大学に入学したからには大学の授業らしい講義を受けたいと不満を感じていたことを思い出します。科目区分がなくなり従来の一般教育の取入れは大学の自由になるということは、一般教養、語学、保健体育を担当している教養部を廃止せよということを意味しています。これはあくまでも従来の一般教育科目等と専門教育科目との区分を廃止することであって、大学卒業者としての必要な教養を否定するものではなかったはずですが、どのような教養科目や語学が必要かという全学や学部で詰めた議論はないままに、教養部を廃止することが各国立大学の目的となってしまいました。教養部を廃止する方法として,各学部に分属する,他の学部改組と合わせて新学部をつくる,教養部単独で新学部をつくるなどの方法で教養部の解消が全国の国立大学で行われました。
 当時の筆者は大学評議会委員としてこの教養部の廃止に立ち会うことになりました。旧制帝国大学のような大きな大学では教養部単独で新学部をつくることも可能でありますが,あまり大きな大学ではないところでは解体して学部に分属する選択しかありません。学内格差をもたらしていた教養部が廃止されるということは大学としては歓迎すべきことでありましたが、教養部の教員とて生身であり突然所属部署が廃止になり、専門に近い各学部への配置換えということは納得のいかないことだったと思います。特に分散キャンパスの場合には、単身あるいは通勤に大幅に時間がかかる部署への移動の場合もあります。また、受け入れる学部とて研究室を整備して迎えなければならないし、なによりもいろいろな意味で今まで対話のなかった教員の受け入れでありお互いに相当の軋轢のある改組となりました。大学が法人となって学長の権限が大幅に拡張された現在と違って、各学部の教授会の合議に基づいて執行だけまかされていた当時の学長にとっては大変な仕事であったと横眼にみておりましたが、その流れを引き継いで学長となった筆者の初の仕事は配置換えになったにもかかわらずいろいろな理由で研究室の移動をしないで残留を続けた数人の教員を説得することが初仕事になりました。 教養教育は大学の教育のなかでも大事なものだと今でも考えています。大学生としてどうしても必要な教養教育がなにであるのかを議論しないままに、教養部廃止が改革の目的になってしまったことについては大きな悔いが残っています。
 
4.3 国立大学の法人化
 1971年(昭和46年)、佐藤栄作第三次内閣における中教審の答申「今後における学校教育の総合的な拡充整備 のための基本的施策について」のなかで、国立大学について「現行の設置形態を改め、一定額の公費の援助を受けて自主的に運営し、それに伴う責任を直接負担する公的な性格をもつ新しい形態の法人とする」ことが提案されました。大学をその目的・性格から見て適切な新しい形態の公的な法人とし、公費による一定額の援助を受けること以外は、管理運営上の一切の責任を負って自主的に運営させることが、大学の発展を助長することになるとまで記されています。答申に示されたこの法人化構想は具体化されることなく終わりましたが、国立大学法人化の芽はこの時代からあったわけです。橋本内閣時代の1996年(平成8年)から始まった行政改革会議で国立大学の独立行政法人化の問題が取り上げられました。文部省は当初、「大学の自治」・「学問の自由」を守る立場から独立行政法人化には賛成をしていなかったこともあって、国大協においても真剣な議論はなされてきませんでした。橋本内閣に続く1998年(平成10年)の小渕内閣でもともと政治家ではない元東大学長の有馬朗人氏が文部大臣になったこともあり、国立大学の事情をよく知っていれば独立法人化の動きは進まないはずだという安心感もありました。しかし、2001年(平成13年)小泉政権時代になると中央省庁再編とともに特殊法人や政府系金融機関等の行政法人化かがはかられ、文科省は元文部次官であった遠山敦子氏を大臣にして方針転換をはかり「遠山プラン」なるものを国立大学に対して提案しました。
 筆者はこの当時学長であったので当事者として文科省の動きや当時の国大協の対応をよく知ることになりました。遠山プランの内容は、国立大学の法人への早期移行、国立大学の再編と統合、競争的環境の強化を内容とするものでありました。護送船団型の国立大学は金太郎あめのようにどこを切っても同じでまったく個性がないといわれていました。大学はそれぞれの学部教授会支配の運営であり、学長はこれら複数教授会の調整者であってリーダーシップを発揮することができないので、大学の思い切った構造改革ができないという批判もその通りでありました。したがって、法人になれば競争的環境下で強い理事長(学長)権限のなかで自由に改革ができるという説明もありました。しかし、「大学の自治」を尊重するといいながら、予算による誘導や文科省職員の派遣で大学事務局をコントロールしてきた文科省自体の体質はあまり変わらないのではないかという疑いもあったことも事実です。しかも、抜本的な制度改革で国立大学を変えるといいながら、大学教職員を公務員からはずすことによって行財改革の公約の目玉でもあった公務員削減目標が達成ができるという陰の目的が隠れているために急いでいるのではないかという疑いも抱いていました。
 確かにグローバル化、自由競争の時代に国立大学が旧態のままでいていいはずはないことは思っていましたが、遠山プランの段階では具体的な法人化の姿が提案されていないこともあって、学内では法人化に対して教授会などが反対の意見を表明するなどの強い抵抗もありました。反対の理由にはいくつかあります。まず、同じ専門のなかでの研究競争は当然ありますが、大学間の競争というのは的がはずれているのではないかという指摘であります。今の状態の財産や予算配分のもとで法人化されることは旧制帝国大学と地方の新制大学にあった大学間格差を固定するのではないか、国立大学の学長は学者のなかから選挙で選ばれただけで教育・研究に対する責任者として職責を果たしているので、法人経営者としての能力はないのではとないかなどなど意見が噴出してきた。しかし、結局は2004年(平成16年)から各大学はそれぞれが一法人となる国立大学法人に移行しました。この法人化以来、規制緩和による大学間競争を基本とする市場化(ビジネス化)の波に本格的に国立大学も呑み込まれ始めたことは間違ありません。

4.4 株式会社による大学開設
 私立大学の開設は従来学校法人による場合だけが認可されていました。小泉政権下の2003年(平成15年)になると、民間法人が自由に大学開設をしてもかまわないのではないかということになり、構造改革特区に限ってNPO法人あるいは株式会社による設置でもよいということになった。大学設置基準も学生一人当たりの校地面積を10平方メートルと規制していましたが、特区については例外を認める措置をとり新設を容易にしました。ビル内でも新しい大学を開設できるわけですし、営利目的での大学開設も可能になったわけです。現在、私立大学の4大学が株式会社経営となっています。

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