少年A

中2の時、私は、3学期間ずっと学級委員長をしていた。クラスに学年一の不良のA君がいたからだ。通常、教育的配慮から、学期ごとに委員長は代わるのだが、A君対策で、3学期とも私が学級委員長をした。

A君は、「オレにはバックがいるからな」と言いふらしていたが、それはホントだった。1学年上に桁違いに喧嘩の強いBさんがいて、その人がA君を特別かわいがっていることを皆が知っていた。それで、A君は、まるで「虎の威を借る狐」で、やりたい放題だった。Bさんにこそバックがいたのだが、Bさんがバックの名を出す必要はなかった。Bさんが傍にいると、子分以外は、皆下を向いていた。

私が中1の時、中3に兄がいて、中2の不良に喧嘩を売られたことがあった。女がらみだった。小さい時からガキ大将だった兄は、喧嘩好きだったので、受けて立った。兄は、近畿大会で優勝した野球部のレギュラーだった。身体能力は高く、やり過ぎたようだ。

翌朝、兄は、Bさんに呼び出され、20人ほどの不良に取り囲まれた。兄がコテンパーにやっつけた相手は、Bさんの子分だったのだ。どういうやり取りがあったのかは知らないが、兄は、Bさんの右パンチ1発で、階段の踊り場に転がり、横たわった。しばらく立ち上がれなかったという。子分たちは、兄に手出ししなかった。野球部には、Bさんと互角に闘った武闘派がいた。

体の大きかったBさんは、小学生のころから、高校生相手にカツアゲをしていた。私は、Bさんが小学生のころから知っていて、伝書鳩つながりで、親しかった。Bさんに「ちょっと待て!」と言われて、2人の高校生が脱兎のごとく逃げ出すのを見たことがある。

これは、A君に聞いた話だが、尼崎から西宮にカツアゲに出張してきた不良5人が、こともあろうに、Bさんを取り囲んだことがあった。文教地区の不良より工業帯地の不良の方が強いのが相場だが、Bさんは別格だった。県大会の水泳・自由形で優勝していた。たぶん、筋肉の鎧を着ていたのだろう。……。尼崎の不良5人を同時に相手にしても、Bさんは楽勝だったという。

私は、中・高と器械体操部に入っており、中2の時すでに筋肉質の体格をしていた。(中3の時は、近畿大会で鉄棒・優勝)細身のA君に負ける気はしなかったが、一抹の不安は、バックがどう出るか、ということだった。

私は、1学期のある日、職員室の担任のところに行った。「A君がボクの言うことを聞きません。他の人もボクの言うことを聞かなくなりつつあります。A君が怖れるに足りないということを、皆に見せる必要があります。このままでは、A君にとってもよくありません。手をこまねいていたら、学年全体が、A君に引きずられ、不良の巣になってしまいます。ボクがA君と喧嘩して勝てば、皆はA君の言いなりにならなくなると思います」暴力教師で知られたその担任は、遠い目をして言った。「オレは、オマエの味方だ」

機会はすぐにやって来た。ホームルームで私が司会をしている時、A君は、足を通路に投げ出して、イスからずり落ちそうになりながら、マンガ本を読んでいた。「A、マンガをしまえ!」と注意したが、予想通り無視された。私は、(今だ)と思った。私は、つかつかと歩み寄り、マンガ本を荒々しく取り上げて、右手でA君の左頬を思いっきり張りとばした。

喧嘩慣れしていたA君はすぐ体勢を立て直し、反撃してきた。意外に強かった。女子生徒たちの黄色い声が聞こえていた。予想通り、趣旨をわきまえぬ数人の男子生徒たちが間に入ってきて、喧嘩の邪魔をした。しかし、引き離されたA君の左頬は真っ赤に腫れ上がっており、先手を取った私は無傷だった。「オマエの真似するアホがおるんじゃ」と、私は叫んでいた。

私が、Bさんに呼び出されることはなかった。たぶん、A君は、Bさんに訴えなかったのだと思う。それは負けを認めることになる。それに、たぶん、訴えられてもBさんは動かなかったと思う。実は、小学生のころ、Bさんがかわいがっていたのは、私だったのだ。

喧嘩の決着はついておらず、その後、空き地で決闘したわけでもないが、A君は、私の言うことを聞くようになった。2学期3学期は、満場一致で私の学級委員長が決まった。3年になって、組替えになり、私は、やっとA君から解放された。

高1になり、街を歩いていると、私の前で牛乳屋の軽トラが止まった。車から出て来たのは、中卒で社会に出たA君だった。

「成川君、久しぶりやな、送って行ったろか」

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