めがね旦那『その指導は、しない』へのコメント。凡人としての教師。

教員は普通の仕事だ。天才と情熱家だけがこの仕事をやっているわけではない。無いリソースを使って今日も学校はまわっている。勿論生徒も頭が良くて指導に従いつつも自主性のある子たちばかりではない。そんな生徒はいない。凡人と凡人が出会う場所が学校である。凡人はどう生きるべきか。凡人は才覚ある人間になれるのか。凡人を聖人にさせようとするのが筆者の立場で、凡人を凡人のままでなんとか運営しようと考えるのが私の立場だ。

『その指導は、しない』へのコメント

以下の太字は、めがねの旦那さんの本の小タイトルと本文でされた主張である。またそれに続く部分は習志野民間のコメントである。


宿題以外はすべて置き勉してもいい。持って帰られた教科書はほとんど開かれない。(めがねの旦那)

理屈は正しい。置き勉禁止に学力向上の効果はまず無い。学力が高い生徒は必要に応じて教科書を持ち帰り、それ以外はテキトーにするだけだろう。むしろ置き勉禁止はクラス内の統治目的(学級経営と業界では呼ぶ)にこそある。
置き勉を認めると教室内がモノで散乱する可能性が高い。毎日全ての机を空にさせることで強制的に教室のモノの数を減らせる。無理矢理にでもドリルや連絡帳や提出物を持って帰らせて「学校はきっちり持って帰らせているのに、宿題も提出物も出さないのは家庭のせいでは?」という論理にも持っていける。「必要に応じて持って帰れや」という指示は高レベルの生徒には正しい指導である。でも御校に高レベルな生徒がどれだけいるんか?そもそも高レベルな生徒に教育する必要はあるんか。「具体的には今日は〇〇と××と△△をもって帰ってね」と指示を出すのは面倒である。これ以上面倒が増えると教員は過労死する。もちろん具体的な指示を出してもついていけない生徒には厳しい。指示を視覚的に出す(持って帰るものを画を示す)のもいいが、これも手間である。だれが教材を創るんか。なので強制的に置き勉禁止。例外は認めない。というスタンスはある程度正しい。(以上習志野のコメント)


宿題の量は自分で決める。
素晴らしい指導。自分のことを自分で決められるように持っていく指導は大切である。長期的には。同時にその自由課題をどのように採点するのか。どのように成績に反映させるのかは工夫がいる。あと「強制的にでもさせるべきこと」については意見がわかれるところ。「九九ができない子。しかもネグレクトされている。勿論放置していると勉強はしない」という子をみなさんはどうするか。永遠の課題である。

授業中に水分補給をしていい。
「授業中に水分補給をしてはいけない」と指導するのは、現代のコンプラ重視教育は絶対にやってはいけないことだろう。ただし限度の線決めをどの程度に引くかが常に問題。腹が減って倒れそうと訴える子に食べるのを認めるべきかどうか。多動な子がしょっちゅう水筒の水を飲み都度こぼして「拭け」といっても拭かず、隣の子の教科書に水がかかり職員室で被害者の保護者に「すみませんでした」と電話を掛けるのはあなたです。

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