僕もあなたも見たいものを見たいように見る。

こんにちは、適性診断では「全くそう思う」か「全くそう思わない」の両極に振るのに、食べログとかは星3つにするだろうならさんです。料理はなぜか難しいよね、星5個とかにするの。

アマレビュ

ネット上の批評を見るのが好きです。
特に、映画と本。見たことのあるものの批評を読むことにも、見たことのないものの批評を読むことにも、それぞれの価値があると感じます。
良くできた批評かどうかもあんまり関係なく、なんか読んでて面白ければオーケー!(ポジティブ)。

まだ見ていない映画や本の批評を読んだら、大抵のその後見たり買ったりします。
すごく都合の良いことに、自分で見る頃には批評の内容をすっかり忘れて、フレッシュな気分で楽しめますし。

ただ時々、批評の文章が面白すぎて、内容が伝わり切っちゃった満足感にひたることがあります。
そうなっちゃうと、その後、実際に作品を見ることがなかったりするのですが、それはそれでオーケー!
基本ポジティブです。

そんな僕にとってのアマレビュ。アマゾンのレビュー。
これがまた味わい深くて面白い。
決して好き一辺倒ではありません。でも面白い。

良品と書かれていたのにページに書き込みがありました。星1つです。

アマゾンのレビューでも、オンライン上の批評のようにまだ見ていない作品のものと、もう見たもの、両方のレビューを読みます。
ただ、あそこは物欲を満たすための場所ですので、未読のもののレビューを読んで購入するかどうか決める、ってことの方が多いかな。

ただ、時々読む既読本の、しかも、自分が気に入った本のレビューを読む時にこそ、心にくるものがありますね

個人的な意見を言えば、お気に入りの本のアマレビュを読むのはやめた方がいいです
特に、沢山レビューがついてるやつ。
なかなか悲しい気持ちになります。僕の愛した本が、こんな風にケチョンケチョンに貶されているのか、と。

"著者は不勉強"
"抽象的な理論ばかり書いてあって実践的でない"
"歴史の知識が浅く、読む価値に乏しい"
"コストパフォーマンスを考えたら買わない、が正解"
"装丁に傷があった"

自分で購入した本によくもまあそれだけ文句が出てくるもんだ、と思いますし、「それだけ文句が出てくるくらい思考を刺激したんならコスパむしろ良くない?てか何?装丁に傷って?」、とか思います。
それ、内容というより業者の問題っていうのも…あ、そうですか中古購入ですか、では前の所有者の問題ですね。

こんな風に、言いたいことを言いたいように言うカルチャーが出来上がってるのがアマレビュだと僕は思っています。
時折いらっしゃるリテラシーの高い方の書き込みに心が安らぎつつも、あまりにもボロクソに、しかも変な角度からの援護射撃も含めて叩かれまくっている愛読書を見ると、「やめてもうHPゼロよ」的なネットで仕入れたフレーズで守ってあげたくなりますし、そんな中まど頑張って好意的なレビューをしている方の愛情にほろっときたりもします。

そうそう、星も上下に暴れますよねえ、そういう本のレビューって。

攻撃的なレビューに現れるもの

沢山のレビューがついた本、少し俯瞰してみると、話題の本だったり、ベストセラーに入っているものだったりします。

読んだ人が多いほど、レビューも増える、は理にかなっているな、とも思いますが、そんなベストセラーを読んでまで、敢えて「俺は面白いと思わなかった」「中に書き込みがあった」と書き込み、星0や星1をつけるのはなんででしょうか。
レビューなんですから、その本に興味のある人にその人からのメッセージを伝えるものなはず。
そこに、「買うなよ!絶対に買うな面白くねえ!」「書き込みに気をつけろ!買うな!」と声高にアピールする理由が、あるってことですよね。
よっぽど作者に怒りがあるのか、あるいは本の中で自分のこと恥ずかしい過去がバラされているのか、お金と時間を無駄にした強い後悔があって、後に続く人に二の轍を踏んで欲しくないのか。

あ、別に僕は、低評価をつけることやネガティブなレビューを書くことにイチャモンをつけるつもりはないです。
書き込みのあるなしにもこだわりませんし、いくらぶっ飛んだネガティブフィードバックがあろうと、星が暴れようとなんだろうと、レビューにいくつかピン、とくるプラスのフィードバックがあったら買っちゃいますし。

ただ、人っていうのは、本当に自分の見たいようにものを見るんだなあ、と思います。
アマレビュなんて、最初っからレビューでコキ下ろすつもりでその本を買ったの???とすら思えるような投稿もありますし。
書き込みがあるかどうか、内容に関係なくない?(こだわり)。

同じ月を見ている(同じとは限らない)

仮に、アマレビュが、半匿名の好き放題書いていい場所(ほんとは違うと思いますよ、実際は)だとして、見たいものを見たいように見てる人たちが言いたいことを言いたいように言っているのだとします。

これ、なんだかイヤー、なフィールドですよね。
本人のいないところでの井戸端会議裁判、みたいな。

でも見方を変えれば、それは、同じ本を読んでも、人によってこうも感想が違うんだなあ、というのを知る好材料だとも言えるのではないでしょうか。

言い換えると、何を基準にどう評価するかは、人によって、また対象によって、当然異なる、ということにあらためて気付くきっかけの場所なのかもしれません。

これは、日常生活でも全く同じだと思います。
僕がしたことを、どのように捉えるか、は相手次第。
しかも、相手の価値観や感情、置かれた今の状況は、僕には分からない部分が多く、変えられることも少ない。
ですから、相手がどう思うのかを自分の思い通りにすることなんてほとんどできないだろう、と思うのです。

もちろん、日常生活でアマレビュの星0みたいにこき下ろされることはそうそうないと思います、あったら環境考えたほうがいい

けれど、人はそれぞれ何かを思って生きています。
僕が行動すれば、そこに関わる人たちは、僕の「こんな風に感じて欲しい」の想定をはるかに超えた感情やら思考を働かせているでしょう。
いや、きっとしている。

それをいちいち確認することもないですし、気にすることもない、と思えれば、結構気楽に行動できるんじゃないかなあ、と思います。

Be My Selfでいきたいですよねえ(★☆☆☆☆)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?