語らない、ということを語る。


先週末にフリスタを観て、今日グッズや作品集が届いた。

またしても自宅作業という自由時間中(違いますよ。自宅でお仕事しなさいということですよ。締め切りもあるでしょ)に手にとってしまったので。これはもう逃げられない。

あの「天下とったぜ!六本木ヒルズ展望台!うわははは」って私でさえ間違って勘違いしてしまうあそこで見た作品群を、また紙面で全部見直して思い出して、それからテキストを一気読み。
5×20を見るのに覚悟がまだなくて見てない私…やればできるじゃん。なんだよ。
この勢いで、5×20も観なさいよ(いや、仕事しなさいよ)。


作品集が出た(個展が始まった日)にすぐについった上でインタビューの内容と感想が拡散されまくり。その上それらがとても情動的で感情を揺さぶられるエモーショナルなセンテンスで、その感情の波が偉い勢いで伝染していたのを思い出すけれど。

それが自分にとってネタバレであったとしてもまだ見たくなかったとしても、一度その元になる出版物である作品集が世に公開されてしまったらもう止めることはできないし、止めることでもないと思っていて。

話が少し違うけれど、小説でも映画でもドラマでも、公開された後はSNS等で何を語っても目や耳に入ってもある程度はしょうがないと思ってるし。見てない人のために語るな、という意見にはちょっぴり賛同できたり…できなかったりなのです(公開前はアカンよ)。

いや、自分が見た側なら、喋りたいけど多少は気は遣います。普通に。だからミステリーものの映画を公開日の朝イチで見て、

「〇〇さんが犯人だったとは!いやはや!」

とその日のランチ時のタイミングでは流石にSNSで言ったりしない。一対一で「私にはネタバレしないでね」と言ってくる友人にも当然言いません。

でも見てない方側だとしたら、見てないのは自分の都合だから人のせいにしてその責任を押し付けるのは余り好きじゃないといいますか。

情報が流れても仕方ないし、感情を流したいのはわかるし。
ともかくSNSは、そういうところだと多少は理解して使うべきだと自分は思ってて。


話戻せ。
そんなわけで、いろいろ目に入ってしまうのは諦めていたけど。

今回実際に自分で見て一つ言えるのは。
絶対に自分の目で見て、観て、読んで、感じたことが一番大切だし大事なんだな、って思ったということです。


今回、個展を見て作品集を読んだ結果私がどう思ったかは正直余り書くつもりがなく(え?)。
それならついったの140文字以内で「見たよ。皆も見てね読んでね。えへ」で済ませればいいじゃんとも思うけど。


本当は個展見て作品集読んだら10000文字ぐらいでnoteに感想の嵐をあげてやるぜ!Baby!ぐらいに目論んでいたのだけど。


実際自分の目で見たら、それをやる気がなくなってしまった。
自分の感じた感想は余り色々言いたくない(ひでぇ)。言うの難しい、あるいは言う技術を持ち合わせていないだけじゃん、と言われればそれまでだが。

それより、人の感情や感想に余り振り回されず、自分で実際に見て感じたことを受け止めた方がいいよ、ってことが言いたいのよ…。


個人的には、もちろんインタビューも読み進めていくうちにいろんなことを瞬間瞬間感じたり思ったりするわけですよ。
彼はなんでそう思ったのか、なんでそう言ったのか、なんでそういう行動をとったのか。メンバーはなんでそう言葉にしたのか。なんで。なんで。

それでいえば一番思ったのは。
なんで彼はそのメンバーの言葉をインタビューで口に出して、最終的にこの作品集にそれを載せようと思って、我々に読ませようと思ったのか。



でも「こう思った!聴いて聴いて!」って人に言うより、「なんで自分は今そこが気になったんだろう」とか、どんどん深く入りこんでいって最終的に他人のというより自分の感情と向き合うのが、ただ好きなタチなんですな。

人の感情を揺らすより、自分の感情を整理する方が好きだというか。それが一番大事というか。
で、最後に今の自分に戻ってきて、すっきりするという。

…いや。オススメはしませんですよ。めんどくさいから。


なので、それをやっていくと。なんか人に自分の感情や気持ちは言わなくても別にいいや、って思えてしまって。同時に人の感想や感情、ましてやマイナスやネガティブなそれらと関わったり惑わされたりすることに意味や必要性なんかあるわけない、と思うのですよ。


いろんなことを人と共有したい気持ちは私にだってある!それはあります。あるからここに居たり、ついったで愛を叫んだりしてるわけなので。

でも。大切なことほど、重いことほど。他人との共有を求めて動き回るよりも、自分の中で一旦落ち着かせたり、確定ボタン押してしっかり納めたりする方がいいことってありませんかね…。

10000文字感想はそうだな。5年ぐらい経ったらできるかもしれない。
今回、大野智がやっとやっと言葉にできたように。


じゃ、個展と作品集を見て読んで「一言でいいから、今のお気持ちは」って訊かれたら。「答えないと明日から嵐に会わせないし見せないぞ」って言われたら。
そしたら泣きながら全力で答えますとも。ひくひく😢。一言でいいのね。一言いえば、嵐と櫻井翔をこれからも好きで、来年以降も追い続けて、一緒に走り続けて見守り続けていいのね。


全肯定の気持ちしかない。それだけです。

作品集のインタビューの一文字一言全てをストレートに全肯定の感情で実際受け止めたんじゃない?ワタシ、って読んだ後に思ったし。個人的には「さて!また明日から頑張るか!」って気分だし。ついでに言うと、今、私の未来は明るい…(壮大だな)。


オモシロイことに、ついったで飛び交っていた時に受けたネタバレのセンテンスを見たその時に受けた一瞬の感情と印象と。実際に今、作品集のテキストを読んだ自分の受け止めは、びっくりするほど違う。本当にびっくりするほど違うのですよ…。違うというか、クリアになったというか。

文章も言葉も前後って大事。全体像も行間も大事。一言だけ、単語一つだけで色々決めつけるともったいない。
だから。自分の目で実際見て読んで感じるのとっても大事アルネ。

大体。
全肯定もなにもないよね。全肯定、って失礼な言い方じゃん…我ながら。

だって例えばインタビューの彼の言葉は彼のものであり彼にとっての真実で、我々のものではないもん。
受け止める側は受け止めるだけだよね。否定も肯定もない。受け止めて、その上で色々自分の感情と向き合うのは当然だろうけど。それはあくまで自分の感情との折り合いであって。

内容そのものを受け止められないのであれば、もうその言葉を発する人への信頼や愛情がそもそもないってことなんだろうな、と気の毒に思うわけですよ。
でもそれも仕方ない。それはそれだし、そう感じた人のものだ。冷たい言い方だけど私には関係ない。


彼の作品については。
私は仕事にもしている音楽のことならともかく(それもジャンルが違うとちょっとわからんけど)。
こと美術系に関してはさっぱりさっぱりで、ついったで素敵な絵を描いている方たちにも、大野智の作品を見ても「すげぇな」と「羨ましいな」とため息して、うっとり見て、尊敬することぐらいしかできないのです。

でも明確に言葉にすることはできないけど、うっとりはする。

今回だって過去の作品と今の作品を見て感じるところはあったし。生の社長の絵には本当に心が揺さぶられた。会ったこともない人なのに。


なんなら今回、学生時に美術専攻で現在も陶芸で食ってる先輩(not嵐ファン、大野智の歌も踊りもドラマも興味はない)と一緒に個展観に行ったけど。
その先輩ですら、私には「(個展)良かったね」ぐらいしか感想を言わないからね!www
言ってもこいつにはわかんねぇだろう、なこともあるんだろうけど。きっと多分、先輩の感想と感動は先輩のもので彼の中で昇華させてるんだろうなぁ、と見ていて感じるし、大野智の感性に惹かれているのだと思う。だから今回「見に行きたい」って言ってきたんだよ。


個展を見た印象、作品集を読んだ印象を沢山語ることをもしかして期待されて、ここにたどり着いた方はごめんなさい。っていうか、途中で諦めて、ここまでたどり着いてないかもしれないか…

自分の思ったことが一番だし余り語りたくねぇんだもん、ということを長々と語らせていただきました。


最後に。
私は前回の2で買ったグッズで一番愛用しているのは、パグの陶器のマグカップです。
あの時から今でも可愛くてずっと使ってるし、割らないように気を付けてるし。これからも大事にする。


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