自分とは

海外で暮らす私が思う、自分らしいってなんだろう

妊娠出産や、家族同然に思っていた友人に拒絶されたり、今回大きな存在だった父が亡くなったことで、「自分らしくいる」ということについて深く考える機会が最近増えた。

自分らしいとはどういうことか。

個人的には、Dr. Brene Brownが言っているWholehearted Livingのことだと思っている。簡単に言うと、「本当の自分を隠さない」ということだ。本当の自分とは、かっこつけない、ダメなところも、醜いところもある自分。

現在、私は、80%くらい、自分らしく生きている。

自分を出せないという悩みを持つ人が多い世の中で私はなんと幸運だろうと思っている。そして、私が自分らしく生きられるようになった理由を色々と考えてみた。

Harvard Business Reviewのこの記事をみつけた。「How Living Abroad Helps You Develop a Clearer Sense of Self」

”海外に住むことは自分が何者かであるかをクリアにする事を助けてくれる”という意味の題である。(英語です)

色々なリサーチで、海外に住むと、自分がどんな人間で、どんな風にありたいかがクリアになるという内容である。

ガッチガチの日本で生まれ育った私

私は日本で生まれ育ち、大学を卒業するまでどっぷり日本社会の、自分をひた隠しにしなければならないカルチャーに染まっていた。家庭環境や、幼い頃から始めたスポーツで昭和のスポ根世界に揉まれ、自分を出すなどとんでもないと感じるようになっていた。性格からか、両親と激しく衝突したり、部活の先生に悪態をついたり、隠し通せない部分は多々あったと思うが、批判され、おかしいと言われ、自分の中では十分に窮屈で、周囲の人が自分をどう思っているか(現在)、どう思うか(未来)、どう思うかもしれないか(仮定)、過去に私をどう思ったか(過去)までを気にして、息を殺して生きているような気持ちだった。

ずっと部活部活で自分のやりたいことをできなかったと感じていた私は、大学を卒業して、中学生の頃からしたかった英語を勉強するためにカナダに旅立った。通った語学学校には色々な国からきた学生たちが集い、現地のカナダ人とも交流を持っていった。

自分のコンプレックスが取るに足らないことだった

カナダに行って一番びっくりしたのは、自分がそれまでコンプレックスに感じていたことのほとんどすべてがとるに足らないことだったということ。

・韓国系日本人であること
・体育会系できてしまい、三流大出であること
(=自分は頭が悪いのだと勝手に決めていた)
・体が大きいこと
・両親が不仲で、幸せな家庭出身じゃないこと

などが、私の中で大きな大きなコンプレックスであった。(今思ってみると、なんとおめでたい、若いプリンセスのくだらない悩みであろうか)

カナダは移民の国である。多くの日本のメディアですりこまれるような、カナダと聞いて想像するような「青い目でパツキン」の人は、私が行った街にはあまりいなかった(笑)アジア系の移民で溢れていた。「移民」であることが普通であった。韓国人であることは、「あっそう、んで?」ということであった。

それから海外で勉強した経験がある人は見たことがあると思うが、海外で日本人に会うと「日本でうまくやってけなかった」人がいっぱいいる。家庭の事情や、学力、その他色々な理由があってだろうが、高卒の人も沢山いた。南米から英語を勉強しに来ている人たちは高校さえも出たんだろうか?と思うような人も多かった。

世界がもし100人の村だったらという話をご存知だろうか。世界の情勢をもしも100人の村だったらと例えた絵本だったと思う。世界がもし100人の村だったら、大学にいっているのは1人である。まさに、私が自分を「日本の中の1人」ではなく、「世界の中の1人」、そしていかに自分が恵まれているかを認識したのである。

体が大きいことと両親(家族)が不仲だったことは、22歳の子供にはカナダでは消化できなかったが、年月が経つごとに向き合えてきた。

「Other」になることで自分をみつけた

そして、このHarvard Business Reviewの記事を読んで考えたのが、私は、大学卒業後に渡ったカナダや、28歳で渡ってきたアメリカで暮らしている中で、「Other」となったことで、「こうあるべき」「こうでなければならない」という呪縛から開放されたのではないかと思った。

「Other」とは、「他の」とか、「部外者の」とかいう意味である。前アメリカ大統領バラク・オバマの妻ミシェル・オバマは著書Becomingの中で、アメリカで初の黒人大統領の妻として、そして、貧しい奴隷の子孫として生まれてアイビーリーグに進み、有名弁護士事務所で敏腕弁護士という華々しい成功をおさめ、様々なドアを蹴破って生きてきて彼女は、名前の前に常に「初の」とつく自分はどこにいても常に「Other」だったと語り、特にホワイトハウスに入ってからの孤独と苦悩を綴っていた。(彼女の本めちゃオススメです)

ミシェル・オバマの経歴はとんでもないサクセスストーリーだが、私は彼女の言うことがものすごくわかった。私はアメリカでOtherとして暮らしている。どんなにアメリカで学校に行き、キャリアを積んで、家族を持ち馴染んでいるとしても、自分は「外国人」であるという気持ちは片時も忘れない。私が日本で感じるような、ここは私の国だという安心感はない。「負け犬」のような気持ちになることも沢山ある。一筋縄でいかない自分の人生を自分がOtherであることが原因だと思ったことも沢山ある。(そりゃ強くなるわけだ)

孤独と自由は隣り合わせ

ミシェル・オバマが言うようにOtherであることは孤独である。嫌な思いも沢山する。が、しかし、Otherであることで、人々からのExpectation(こうであるだろうという期待)や「常識」から自由になれていることも大いに感じる。得体が知れないからこそ、「どんな人なのだろう?」というゼロ地点から自分を見てもらえる、知ってもらえる。これがどれだけ自由か。孤独と自由は隣り合わせと言うが、本当にそうだ。

時々、海外に出ていく意味、意義を問う人がいる。私も、22歳でカナダにいく時、28歳でアメリカに出ていく時、ものすごく聞かれた。何しに行くの?行ってどうなるの?私自身も迷っていた。本当にいいのか。この決断が間違っているのではないか。

あの時の私に伝えたい。ありのままの私を見て、知って、わかってくれる人たちと出会いたい。生きていきたい。それでいいのだと思う。自由と孤独を味わい、自分とはなにかを知るためである。自分らしさは、自分を知ることから始まるのである。

これを、若い時に知ることができたら、どんなに楽だっただろうと思った。海外に出ることに大義名分なんていらない。金さえあれば、飛び出すべき。私はそう考えている。

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