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イマーシブシアターの体験価値を考える

今年の1月に『2024年、イマーシブ元年がやってくる』というnoteを公開したのですが、各方面から想像以上のご反響をいただきました。

「そもそもイマーシブ体験ってなに?」というお話からはじまり、

・インターネットの登場で私たちは傍観者になる機会が増え、今度は当事者となる機会を求めている
・一方でデジタルネイティブ世代にとっては提供者と消費者の隔たりがないこと自体が当たり前であり、リアル・デジタル関わらずコンテンツがイマーシブ的であることが普通になっていく
・イマーシブという概念は非常に広義なものであり、まさにto C領域のパラダイムシフトとなり得る

などなど、これまで5年間の私の実務経験(イマーシブエンターテイメント「泊まれる演劇」)を通して考えて参りました仮説に対し、マーケティング的観点も交えつつ、大きく7つのポイントに分けて言語化をしていました。

考えを言語化する難しさを実感しつつも、文字にすることで初めて考えが整理されることもあります。先日2023年から続いていたプロジェクトがひと段落したこと、またイマーシブ・フォート東京の開業を境にジャンルの注目度が高まりつつあることを背景に、改めて『イマーシブ』について考えを巡らせ、ここ数ヶ月間の気づきを振り返りたいと思います。

※今回のnoteでは「イマーシブ体験」から「イマーシブシアター」へとより焦点を絞って、『イマーシブシアターの体験価値考える』をテーマに言語化していきたいと思います。




イマーシブシアターについて

そもそもイマーシブシアターとは、イマーシブ(没入)という言葉が指す通り、観客がただ作品を鑑賞するのではなく、ゲスト自らが会話をしたり・空間を自由に歩いたり・役割を担ったりしながら、自らが当事者として演目に参加する新しいエンターテイメントの形です。

プロデュースしている泊まれる演劇では、およそ3ヶ月間ホテルの通常営業をストップし、ホテル一棟全域に舞台美術や照明・音響設備などを仕込むことで圧倒的な非日常空間を作り出します。
まるで映画のセットのような美しい劇空間のなかを、ゲストは自由に歩き、物に触れ、言葉を紡ぎ、時には嗅覚や味覚も駆使しながら、1泊2日に渡る濃密なイマーシブ体験をお楽しみいただけます。チェックインからチェックアウトまで物語が続く比類ない時間の長さと、非常に濃密なイマーシブ体験によって、どこまでが実際の出来事でどこまでがフィクションなのか判らなくなるほど、これまでの人生で味わったことのない強い没入感をお楽しみいただけます。

泊まれる演劇の劇空間

実際に体験いただいたゲストの方々の満足度も非常に高く、作品によっては体験された4人に3人の方が次回公演にも足をお運びいただくなど、非常に高いリピート率を誇ります。強い没入感ゆえ、チェックアウト時に物語の登場人物宛の置き手紙をお部屋に置いてくださる方もいらっしゃるほどです。

また同一の作品を通して複数回足をお運びいただく方も多くいらっしゃいます。3つのフロア、10以上の客室で同時多発的にストーリーが進むので、一度として同じ体験はなく、参加するたびに新しい発見が得られるのです。(ただ泊まれる演劇の場合は、遠方からお越しくださる方も多かったり、宿泊料金も安価ではないので、一度の参加でメインストーリーをしっかり把握することができ、初見のお客様にも120%満足いただけるエンターテイメントを目指して制作しています。)


イマーシブシアターの体験価値を考える

泊まれる演劇を例にイマーシブシアターの魅力をお伝えいたしましたが、もちろんイマーシブシアターにもさまざまな種類がございます。

コンテンツの傾向やジャンル、ゲストの行動や会話の制限範囲、体験時間やキャパシティなどの規模感、一日の上演回数(テーマパークアトラクションのような機械ではなく人力なので、心身の安全性やクオリティ管理の観点でもとても重要だと考えています)など。これらは映画やアニメなど他のエンターテイメントと比較しても振れ幅が大きく、またマーケット黎明期ゆえの共通言語の少なさもあり、何をもってイマーシブシアターと定義するのかも曖昧な部分が多いように感じます。

ただ本noteで定義付けをしたいわけではないので、一旦イマーシブシアターの説明で頻繁に言及される「当事者となって物語を体験する」「画一的でない個の体験を楽しむことができる」という二点を前提に話を進めて参ります。

少し話が逸れますが、前回の記事で私は「イマーシブ体験の面白さは、他者との関係性の中にこそ生まれる」と書きました。もしかすると「え、イマーシブシアターは個別の体験こそ価値じゃないの!?」と、矛盾を感じられた方もいらっしゃるのではないでしょうか?

まず大前提としまして「画一的でない個の体験を楽しむことができる」という点は、多くのイマーシブシアターで得られる大きな体験価値の一つだと考えています。実際に泊まれる演劇でも、参加ゲストがホテル内を自由に回遊しながらイマーシブ体験を楽しんでいただくパートにおいて、お連れ様がいらっしゃる場合でも別行動を推奨しておりますし、全体客室数の少なくない割合をシングルルームとして販売しています。
ですので当然、おひとりでいらっしゃるシングルルームの方がお楽しみいただけないような構造にはしておりませんし、また既成のコミュニティによるクローズドな雰囲気が生まれ過ぎないよう、チケット販売の段階から同時購入数の制限などもおこなっています。

その前提の上で、オープンで気持ちの良い他者との関係が生まれるような空間作りも、泊まれる演劇では5年間に渡って強化してきました。一見矛盾するようでいても、個の体験も、集団での体験も、我々にとってはどちらも欠かすことのできない重要要素だからです。このバランスの調整はストーリーや全体構成だけでなく、空間やホスピタリティ、タイムテーブル、コミュニケーションツールなど様々な指標で変容するため一朝一夕には叶いませんが、試行錯誤とノウハウの蓄積により進化できていると自負しています。(なお2024年の泊まれる演劇でも、個の体験・集団の体験それぞれを拡張する新しいアイデアをいくつか導入してみました。次の京都公演でもいくつか導入予定なのでお楽しみに!)

個の体験と集団での体験についての我々の考えを、もう少し別の観点で、日常生活を例にお話させてください。
普段の生活でも、家族や友人と共に過ごす時間は愛おしいものですが、同時に一人で過ごす時間もとても大切だったりします。そのバランスは人それぞれですが、少なくとも私は「365日24時間、ずっと誰かと一緒にいたい」という方にも「生まれてから死ぬまで誰とも話さず、一人で生きていきたい」という方にも、あまり出会ったことがありません。(SNSなどにそうポストされる方は稀にいらっしゃるかもしれませんが、あくまでご本人が心の底からそう願っているか、という話です。)
一人の時間があるからこそ誰かと過ごす時間が恋しくなりますし、同時に誰かと一緒にいるからこそ自分を顧みたくなるものだと思います。相反する概念ではなく、互いに補完し高め合う関係です。

「イマーシブの面白さは、他者との関係性の中にこそ生まれる」「その価値は個人所有できない」についても、少しニュアンスが難しいのですが、個人所有できない=ひとり参加では楽しくない、ということではありません。よく「一人参加だとイマーシブシアターは楽しめないの?」というご質問も頂戴しますが、そのようなことは決してなく、作り手としても個の体験も集団での体験もどちらも同じくらい大切だと考えています。


非常にユニークな「個の体験」と「集団での体験」。イマーシブシアターの参加者はそれらを自由にカスタマイズすることができる。

イマーシブシアターにおいてゲストが得ることのできる「個の体験」「集団での体験」はどちらとも非常にユニークなものです。そして何よりユニークなのは、それらをゲストが自分の好みに合わせてカスタマイズできるという点です。

イマーシブシアターにおける個の体験

イマーシブシアターではシナリオやタイミング次第ではございますが、俳優演じるキャラクターと1対1で対峙したり、自分だけが物語の特別なシーンに遭遇したり、重要なミッションを与えられたりします。その他細かい部分ですと、ゲストのお名前をしっかりと覚えてお呼びしたり、前にそのゲストとお話しした内容でキャラクターのセリフが変わったりする場合もございます。
(余談ですが泊まれる演劇では、脚本や演出で定められているセリフを正しい内容・タイミングで発してもらうよりも、「そのキャラクターとして劇空間を生き抜くこと、そこから溢れ出る役としてのリアリティさ」を何よりも大切にしています。つまり俳優個人が演出家のような役割でもあるため、出演キャストに求めるスキルやセンスはかなりハイレベルなものとなります。そんな高いハードルを、ロングラン通して維持し・高め続けるプロフェッショナルさにはいつも感動してしまいます。)

キャラクターの言動もその日限りのものであることに加え、全ゲストの誰一人としてまったく同じルートで空間を巡り、同じシーンに遭遇する人はいません。やはりその物語は、あなただけが体験した物語です。体験した物語が異なれば、当然得られる感情も異なってきます。究極的には、ある人にとってはその登場人物が善に見えたとしても、別の人にとっては悪に見えたりするわけです。これは他のエンターテイメントにはない、非常にユニークな点と言えるでしょう。

イマーシブシアターにおける集団での体験

個の体験についてはイマーシブシアターの説明がなされる際に頻繁に言及されるのですが、私は「集団での体験価値」も負けず劣らず非常にユニークだと考えています。イマーシブ体験中も他者と団結して物語を進めたり、情報をシェアしながら解像度を高めていくこともありますし、登場人物やスタッフがコミュニケーションの媒介者として立ち回る場合もございます。また、イマーシブ体験が終わったあとのカフェやバータイムでの盛り上がりは、他のエンターテイメントと比較しても一線を画します。(泊まれる演劇は宿泊型という構造上、ここでとても大きな価値が発揮されます。)

加えて「集団」や「他者」が指す範囲は、リアルな場での友人や恋人・家族だけでなく、例えばソーシャル上での繋がりにも広がります。
以前泊まれる演劇のとある公演に学生時代の友人が遊びに来てくれたのですが、翌朝挨拶をした時に「朝までTwitterで過去に体験した人の感想やブログを読み漁ってたから、今めっちゃ眠いわ!笑」と言われたことがあります。他にもソーシャルメディアのトークルーム機能で3時間以上の感想大会が開かれているものを拝見しましたし、こちらのnoteを読まれている方の中にもオンライン/オフライン関わらず、同じような経験をされた方も多いのではないでしょうか?

他者とのつながり方やその熱量は人様々ですし、中には「私は誰とも感想を共有せずに、自分だけの体験として胸に留めておきたい」という方もいらっしゃるかと思います(とっても素敵な体験のされ方だと思います)。
そのような楽しみ方も成立しながら、同時に色んな人たちと情報をシェアしたい!語り合いたい!という方には沢山の機会が存在する、その受け皿の広さこそがイマーシブシアターの魅力ではないかと私は考えています。

「個の体験」と「集団での体験」を自由にカスタマイズできる。

人生には波があります。あるタイミングでは誰かと一緒に過ごして「わーーっ!!」っと盛り上がりたい瞬間がありますし、あるタイミングでは独りになって自分を見つめて直したい瞬間があります。

イマーシブシアターが提供する「個の体験」「集団での体験」はどちらも非常にユニークで強力なパワーを持ちながらも、ゲストはその時々の心情に合わせて、自分だけの楽しみ方を自由にカスタマイズすることができます。
そのカスタマイズも思い立ったその場で調整することができ、例えば最初は皆んなで盛り上がろうと思って来たけれど、体験中に「いや、これは一人でじっくり没入したいな?」と思ったら、残りの時間ずーっと一人で劇空間を彷徨い歩くことも可能です。友人とテーマパークに遊びに行った際や、家族旅行などではなかなかそうはいかないはずです。とにかく楽しみ方が非常に多様なのです。

泊まれる演劇の非常に重要な体験価値の一つとして「究極の自己承認」があると考えています。例えばキャラクターと言葉を交わし彼らの人生に自己投影するなかで、いつの間にか心の底から生きる活力が湧いてきて、体験後に「よし、明日からも頑張っていこう!」と自分のことが少し好きになる。または、いつも職場や学校では自分の好きなことを打ち明けられないけど、ここに来たらありのままの自分を曝け出せて、夜遅くまで夢中で誰かとおしゃべりできる。

「個の体験」と「集団での体験」、どちらを求めていらっしゃったとしてもそれらの価値を届けられるよう、「胸の奥に秘めておきたい自分だけの思い出(=個の体験価値)」「リアルな場で友人や恋人、他者と過ごす幸せな時間(=集団での体験価値)」の大きく2つの価値を創作の出発点に置いて、そこから具体的なストーリー構成や導線設計、世界観やキャラクター造形、ホスピタリティ方針などを決定しています。ですので具体的なアイデアやクリエイティブなどは、だいたい企画の後半以降で決まります。


これからのエンターテイメントに求められることは?

最後の章では、一度イマーシブシアターの領域から離れて、少し広い視点で「これからのエンターテイメントに求められること」について私なりの考えをお話ししたいと思います。

まずこの先5年は、インターネットによる利を享受しながら、同時にインターネットが生んだ不を解消していく時代だと考えています。そしてインターネットが生んだ一番の利は、私は多様性だと思っています。

ここでは多様性に溢れる社会の話はいたしません。それはきっと素晴らしく優しい世界です。
その一方で、多様な生き方が認められた世界では、誰かが道標を用意してくれるわけではないので、同時に底知れぬ不安と迷いが襲ってきます。時に自分の人生を誰かに任せたくなるし、そうすると自分がわからなくなって自信を失ってしまうことも少なくありません。

そういう世界では、日常から一歩距離を置いて、自分自身を再確認・再発見できる瞬間が必要です。それは誰かにとっては旅であり、読書であり、また他の誰かにとってはエンターテイメントなんだと思います。
デジタルネイティブ世代で多くの人が経験している推し活のような華やかなカルチャーも、一方で新宿歌舞伎町に集まる少年少女のニュースも、この「多様な生き方が認められた世界」と「(何万色のパレットの中から)自らの個性を定義せねばならないという社会からのプレッシャー」から生まれたものに感じます。私たちが生きる世界は、光と闇が常に渦巻いています。

そのような時代の流れを考えると、エンターテイメント領域において、より濃密で強い体験価値を持つイマーシブエンターテイメントの需要が増していくのはどこか納得できるような気がします。イマーシブ体験を通して、新しい自分を発見できたり、自分の居場所を再発見することができるかもしれません。それらは今の時代を生きる私たちにとって、救いのようなひと時です。

従来のエンターテイメントでは救われない不安や迷いを抱いている人が、実は過去と比べても急増しており、それはインターネットの発展と隣り合わせの世界では不可逆的なものです。前回のnoteの表題にもしていた『2024年、イマーシブ元年がやってくる』は、やはりあながち間違いでもなく、2024年以降ものこの流れはロングスパンで継続していくのではないでしょうか。
エンターテイメントが社会に必要とされる理由は、明日を少しでも前向きに生きていくための、処方箋のような存在でもあるからです。

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