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目の前のものからリターンを取り立てようとすること

昨日、こんなXの投稿をしました。


今日の電波
目の前のモノコト人からリターン(結果)を得ようとするのはもうやめよう
いつかどこからか別の形で返ってくるから
今即座に目の前からリターンを得ようとするのは取り立て行為だ
このフィールドはそんなに浅ましくないはずだ、もっと豊かなはずだ
そう決めつけるだけでいい

目の前のモノコト人から取り立てるよりも、まず自分の器を満たそう 溢れた分しか分けられない

サクッと書いてみて他のニュアンスは入れなかったのですが、実はこの電波?というかメッセージを自分の中に感じた瞬間から、どうにも泣けてきて仕方なかった。

そこらへんの機微をnoteに書いていこうと思います。

目の前から取り立てるということ


事の発端は小さなできごとですが、ある日、夫婦間のことで一人イライラしているうちに感情が行き詰まり、もうこういう関わり方はいいや、と思った時にこのメッセージが自分の中に落ちてきました。

目の前のこと(ものこと人)から今すぐにリターン(結果)を得ようとするのをやめよう
それはまるで取り立てで、浅ましい行為だ
私はもう自分を浅ましくしたくない
目の前から返ってこなくてもいつかどこからか返ってくるから

このエネルギーフィールドはそんなに浅ましくない
もっと豊かだ
確信できなくてもそう決めつけるだけでいい
決めつければそうとなる


このエネルギーフィールドはそんなに浅ましくない


このメッセージが一番刺さりました。
つまり私はずっと目の前のものこと人からすぐに結果を求め、あるいはリターンを求め、

足りない
賃借が合わない
出せ

という態度を取っていたのだなと。
そのことに衝撃を受け、ああ、もうそういう自分ではいたくないと深いところでハッキリ感じました。

それを忘れないために急いでXにポストしたくらいです。


目の前に働きかけるのをやめたように


そしてとても泣けてきました。
感情とは違うところで泣けてきました。

目の前のものこと人、特に人に何かを過剰に求めないということは、私の精神構造では"相手に働きかけるのをやめる"ということに直結しました。

普段からそう考えていたわけではなくて瞬時に感覚的に"あ、今までみたいに働きかけるのをやめるのね"と感じたわけです。

それがとても寂しいような、悲しいような。
目の前の人に愛着と感情を持って働きかけることは、私にとってはある意味"人間らしさ"でもあったようです。

子どもの頃から、ともすると"早めにお空に帰りたいっす"と思って一歩引いた目で現実を捉えがちだったので、身近な大切な(あるいは自分で"この人は大切枠"と分類した)目の前の人に感情のやり取りをコミットすることは、私にとってあえて泥くさく、人間くさくのやり方で、地上にいるためのアンカーのようでもありました。

それを手放す、それは慣れ親しんだ、でもちょっと古くなったやり方を手放すことと同義だったようです。
そして、躍起になって求めていた人間らしさを手放しすことにも感じたようです。


実父を見送ったときのような


感覚的には、割とスピーディーにこの世を去った実父を見送った時のような取り返しのつかなさと、絶対事項になってしまった"さよなら"を感じて、泣けて泣けて仕方なかったです。

別に目の前の人as旦那と別れたわけではないし、離婚を決意したわけでもないけれど、これまでの自分のコアとしていた姿勢をもってこの人に関わるのこと、をやめた、のが、関係性のある段階の終了を感じたのでしょうねえ。

俺ってセンシティブっっw

だから少し神様に近くなってしまった気がして、淋しかったのかもしれません。


とはいえいつまでもグダグダと三千世界の泥臭さを舐め回す気もなく、ステージは上げたいしレイヤーも上に行きたいし、今回生きているうちに成りたい在り方はあるので、将棋の「と金」みたいに、パッと変わる時なのかもしれません。

将棋の駒で言ったら「歩」だった自分に、感謝と愛情を。
大丈夫、全部内包してずっと一緒にいるから。
この世で一番愛しています。

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