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砂澤ビッキを巡る旅になった1

仕事が入ってない期間になり、いただいたデザインの仕事をしながらティアキンをする日々を過ごしていたけど、どうにも元気がなかったので旅に出ることにしました。コロナが蔓延してた時期は北海道に帰省するのは止めていたので久しぶりに実家に帰るかと思い、いざ北海道へ!

綺麗になったフェリー船内

2023年5月28日(日)
太平洋フェリーにも今回を逃したら乗る機会はないと思い乗りました。
まあ時間はかかりますよね。本を読んだり絵を描いたりコンサートを見たり映画を見たりして過ごしていました。意外とスマホの電波が届くことが多かった、昔は港に接近しないと電波がなかった。

説明文と映画の内容が違ってて「ぜんぜん科学者が出てこないな」と途中まで思って観てた。

東日本大震災の映画だった、言いたいことは分かるけど殺傷事件と絡めて安易なというか不謹慎というか、時間が経つとこうやってエンタメとして消費されていくのかと思った。おもしろかったけどモヤモヤが残った。

31の自販機があってビックリ!
太平洋のどこか

5月30日(火)
11時に苫小牧に到着。その後は北広島まで列車で向かった。新しく球場ができて駅前も盛り上がってるかと思いきや、そんなに変わってなかった。


ウイマムストアの店内

実家に戻って、開いている日ではなかったけど店主さんが整理作業してたから開いていたウイマムストアへ。
自分が21歳の頃までは母親が商店として経営してたのよね、18年ぶりに中に入ったのかな、懐かしい。
店主さんとお話して、興味深かったのは小学生が工作でつくったものも売っているところ、これはここでしか手に入らない代物ですよね。
いろいろと欲しいものが多かったけど、またの機会に買いに行きたいですね。

うちゅうじん?

5月31日(水)
早朝から音威子府へ。

音威子府の線路

音威子府は小学校2年生の時に住んでいた村。じつに30年ぶりの来訪でしたが、大きくは変わっていないような気もするような。
駅に到着してから、列車が8分遅れだったからダッシュして巡回バスに乗り込んでアトリエ3モアへ。

記念館内部


ビッキの作品


ビッキの彫刻道具


絵画作品


木彫作品


枝を差し込んでいい作品


暗がりの中の作品

展示室1のあとは外にある展示室2へ。




工作場もあって、そこにおじいさんがいたので挨拶して話してると砂澤ビッキさんの友達だということで色々とお話を聞かせていただく。
癌で亡くなるまでの事、駅前に置いてあったトーテンポールを設置するためにアトリエから駅までみんなで神輿のように運んだこと等。
機械で出すコーヒーは不味いからということでコーヒーは売ってくれなかった。
手で淹れた方が美味しい!と言ってたから(手で淹れてくれるのかな?)と思ったけど、そんなことはなく・・・・・・飲んだ方が思い出に残るかなと思っただけなんで気にせず。
もっと話していたかったけど、時間が来たのでバスに乗り込んで村内へ。

音威子府駅

写真を撮り忘れたけど、昼食でゲストハウスのイケレへ訪ねるとなんとか昼食を食べれることに、ありがたや。トンカツ入り炒飯を食べました。
東北から来られたライダーさん二人とオーナーさんが震災について話していたけど、ライダーさんの一人が未だに震災当時の写真を見ると鳥肌が立つと言ってたのがなんとなく印象に残る。身体が覚えているのかな。

高橋昭五郎彫刻の館

その後は中学校だったところが美術館になっている場所へ。
ビッキとは似てる部分も感じつつ、人が違えば作品は違うなと思う。



鳥がたくさん止まってるオブジェ

北大の中川研究所には砂澤ビッキの作品が置いてあるという事で向かう。
ビッキは自然のまま朽ちていくのも作品の一部として考えている。
これは自分も同じ考えで、知らず知らずの内に影響を受けていたのかなと思ってしまった。
まあそんな事は言いつつも、大事に保管されているから現代まで見れている作品があるのでありがたいし、貴重な文化財だからという名目じゃなくても「後々の人たちに見てほしい」というくらいの気持ちで残されていくのもありではなかろうか。
どんなものであろうといつかは朽ちる。

中川研究所内の作品

その後、すぐ近くにある中島公園へ行ったが

壊れた橋

橋が壊れて渡れない・・・。
自分が小学生の時はここを渡って公園内に入ってましたが、この壊れ方は川が大暴れしたのかな。
時間がないから周って中に入るのは諦める。

住居があった所らへん

自分が住んでいたところの近くへ。
まだ家が残っていた!向かいの同級生の家もあった(元気にしてるだろうか?)
さすがに人が住んでるようだったので写真は諦めた。
うろうろしてたら近所の人?が、なんだアイツは?という目線で見てくる。
たしかにこんな場所で一眼レフを持って散策してると不審ですよね。

スキー場

冬になると行ってたスキー場も健在。意外と近くてビックリした。もっと遠かった気がしたけど。いま見ると小さなスキー場である、もっと広大な気がしたけど、不思議な気分。

これも昔からあった

いま思い返すと、ここで子ども時代をずっと過ごしていたら・・・と考えてしまう。もともと住んでた町に戻ってからは・・・学校でイジメ&家が嵐で大変だったし、なんか性格もひねくれていって、自己反省しつつも育っていく環境は大事ですよねと思う。
それと音威子府小の同級生に特別支援の子がいたけど、みんなその子に対して優しかったのは覚えてる。
すぐに抱き着いてくる男の子だったけど、最初はビックリしたけど段々と慣れてきて気にならなかった。
音威子府に越した直後は一人称が「俺」だったけど、「俺だって!不良みたいだよ!」とみんなに言われて「僕」に変えたような。小学校3年になったら「俺」にいつの間にか戻ったけど。
なんか大らかというか優しい子どもが多かった記憶。
そのままいたら音威子府美術工芸高校→美大となってたかな?
(そんなに変わらないか?)

と楽しい思い出と辛かった記憶が混ざり合いながら
15時過ぎの列車で帰る。

お洒落なラウンジ席
途中に見えた大雪山

さらば、音威子府!!
冬は大変だし、いろいろと不便だけど
ここでアトリエを構えたら最高だろうな~。

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