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想像できる未来を手放す


昨日から4月が始まった
そして今月で24歳になる

「4月」

新しい年度のはじまり、1つ歳を重ねる私のはじまり
私にとって、毎年訪れる節目の季節でありながら
今年の4月はなんだか、いつもとちょっと違う

例えるなら
幼稚園を卒園し
ずっと楽しみにしていたランドセルを背負って
これから出会うたくさんの「はじめて」に
ドキドキしている1年生みたいな感じなのかもしれないし
それまたちょっと違うような気もする

小さい背中に大きなランドセル
ズシっと重たく感じる背中

多分違うのはそこだ
24歳になろうとしている私が背負っている鞄は軽い


23歳を生きた私のおかげで
24歳の私は、軽やかに新しい1年のはじまりを迎えられる


ここ数年恒例になっていた
年末のSNSの振り返り投稿も
今年はなぜかやる気にならなかった


「年末年始を1年の節目にする」
今年のそれは、自分にとっての節目と重ならなかったからなのかもしれない。今、自分にとっての節目を感じているこのタイミングで
この1年とこれからについて記録しておきたいと思った。


23歳もたくさんの出会いがあった中で
紛れもなく、今の私にたどりついたのは
職場とシェアハウスの存在のおかげだと思う


振り返っていて
共通してそこにあったもの
そして、この1年で私が受け取っていたものは
「待つ」ということだったのだと思う

待つ

【想像を超えたその先へ】


子どもたちが喧嘩をしてる。
間に入ろうか、もう少し様子を見ていようか
子どもたちと過ごしているとそんな場面に出会う事が多い

ある時、年中のYちゃんとMちゃんが言い合いをしていた。
今にもどちらかが手を出しそうなまで喧嘩はヒートアップしていた。

まだ今の職場について間もなかったわたしは
「間に入らなきゃ!」と思いながら
内心この場をどうしたら良いか、どうなっていくだろうか、
ということにヒヤヒヤしていた。

”相手に手が出るような喧嘩や傷つけあうような喧嘩は止めても、
言葉の言い合い自体は止める必要はない”
”お互いが何を感じていて、何対して怒っているかを、ちゃんと翻訳してあげる立場になれればそれでいいよ”
そう代表に言われていたことを頭に持って2人のところに向かったわたし。


〇〇ちゃんは何が嫌だったのかな?
そっかー、〇〇が嫌だったんだね〜
〇〇ちゃんは何が嫌だったの?
そっかー、〇〇ちゃんは〇〇が嫌だったんだね〜
気持ちを聴いていく

少し落ち着いたかと思えば
また、言い合いし始める2人

私にはどう対処したら良いか分からず
ひたすら頭をフル回転させながら2人の言い分を聴いていた
”なんて声をかけるのが良いのか”
”私にどんな仲介ができるのか”
一歩も引かない2人
状況が一向に変わらないことに戸惑い
ただそこにいて相槌をうっているだけの私

どうしようかなぁと頭を悩ませていた時
年少Aくんが走ってきて
私の口にタンポポの茎を押し入れる

Aくん「なおちゃん!甘いでしょ!!?」
目の前で起きている喧嘩なんて気にもせず
突っ込んできたA君

すると口論してた
野草大好きYちゃんはパッとこっちを見て
「どれどれ〜食べたい!」と
口論を放り出して、タンポポの茎に興味を示す

Yちゃんがタンポポの茎をパクリ
「ほんとだ、甘い!」
「Mちゃんも食べる?」
ほんの数秒前まで言い合っていたMちゃんに
お裾分けしようとするYちゃん

「うん!」とMちゃん

そして数秒後には3人で
タンポポの茎を探しに走っていった

私は2人の言い合いに
頭を悩ませながらそこにいて
2人の話を聴いていることしかできないうちに
勝手に喧嘩が終わり
その場に残された
喧嘩の内容自体が
解決したわけでもない
それでも、2人は
とてもスッキリした表情で
何もなかったように
仲良く笑顔で遊んでいる

そんな場面がよくあった
私が頭では想定していなかったような
物事の終わりに出会うことがよくあった
その度に、なんだったんだろうあの時間は
と拍子抜けしそうになった

今思うとあの場面たちは
“待つ“の先に出会える景色なのだと思う
そして、それは待つことを意識しないで待てていた時なのだろうと思う
あの時の私は、なんて言葉を発すればいいか分からなかったから
ただただ、そうなのかぁと聴いていることしか選択肢がなかった
そのおかげで
きっと私は、彼女たちの言葉を、発したいものを
奪わずにいられたんだろうと思う
言葉にして気持ちを消化できた2人にとって
必要だったのはタンポポという
次に動くきっかけだけだった


意図を持ったり、予測したり、誘導したりするのでなく
ただ、その時間を味わい待ってみる
待った先で時が満ちた時、偶然が現れることがある
いつもできるわけではない
けれど、“待つ“そのことの可能性の大きさを
感じれるようになったことは
とても大きかった

本当にこのまま聴いて待っているだけで
いいのだろうか
良い方向に進む保証があるわけでも
目の前の出来事が収まるかも分からない中
での迷い

他の子供たちも周りにいる中で、
そこに割く時間の長さに焦ることもある

待つことは受け身のようで
言葉を挟みたくなったり
時間を気にしたり
早くその場を収めたくなったり
このままだと状況が変わらないのではないかという
不信感との葛藤が常にある
なかなかに難しい
でも、その先にある
私の力ではなし得ない
自然なものごとの終わりとはじまりに出会えた時
私はとても感動した


【山暮らし:待つということの間に感じれること】

1時間に1本の電車
逃してしまった時の悔しさと
後の1時間をどう使うかの工夫

寒さを凌ぐための焚き火
上手く火がついてくれず
凍えそうになったときの園内ダッシュ

園内で取れた梅で梅干し作り
畑でとれたお芋で干し芋作り
作っても、出来上がるまでは何日か待たなければならない
待ち遠しくて何度も様子を見にいく子どもたちと私


季節の移り変わり
春は、お花摘み、蝶々捕まえ、トカゲ探し、つくし、グミの実、野草探し
夏は、カエル探し、魚釣り、泥遊び、川遊び
秋は、栗拾い、柿とり、どんぐり集め
冬は、焚き火、焼き芋
どんなに、もっと続けたいことがあっても
季節は待ってくれない
また来年を待ち、今の季節を楽しむ子どもたち
暖かくなれば服を脱ぎ捨て、寒くなれば勝手に走る


意のままにならない自然
便利なものが増え
待たなくても、すぐ手に入る今の時代に
待つ間の楽しみを知れたこと
待ち遠しいという感覚を持てること
待った後、出会えた時の喜びを感じれること
待つって悪くない
いつも急足だった自分が
そう思えるようになったのはなんだか嬉しい


【神戸シェアハウス】存在を愛し、待つ人

半年間住んだ神戸のシェアハウス“lifebaseある“
そのlifebaseを作った人は
待つ人だった
自然と待てる人だったんだろうと思う

初めましてで会った日
一緒にスーパーへ向かっている途中
どんな話の流れからかは忘れたが

チャンスや出会いはある、それをキャッチできる自分でいられているか
そのために暮らしを大切にしようと思うし
いい状態の自分でいることを大切しようと思う

言葉は違うかもしれないけど
そんな内容の話をしてくれた

私の過去を深ぼらない
一緒に暮らす中で沢山話はしたけれど
質問が多い人ではなかった

ただ、聴かれてもないのに
ねえねえ聴いてよと言いたくなるほど
話を聴いてくれる人だった

私が選択に悩んでいる時も
選択自体に対してではなく
わたしの感じていることに耳を貸してくれた
いくつか問いを投げてくれることがあったけど
自分の中で答えを模索している時
沈黙が心地よく流れていた

2つの道で迷っていた私が
選択を決めた時、その数時間後に決めた選択とは反対の選択を取ることに決めた
そのことを報告したら
その選択を選んだことを喜んでくれているような反応だった

でも、常にどっちが私には良さそうという
言葉も雰囲気も感じなかった
どちらの選択をした私も
きっと大丈夫だし、応援している
私の人生を楽しみにしてくれて、面白がってくれる
そう伝えてくれていたし、私自身も実感していた
だから、恐れずに選択し
恐れずに選択を変えることができたんだと思う

私は今までの人との関係の中で
特に近い人、大切にしたいと思う人との関係性の中で
待つことがなかなかできなかった
力になりたくて、応援したくて
すぐ手を出したり、言葉をかけたくなったりした
きっとそこには期待や願いがあったからなのだろうけど
その期待や願いは
相手が自然と動き出すことを奪ってしまう
期待や願いを持ちながら待つこと、抱えること

待つことには気持ちの葛藤が沢山あるのだろうけれど
それが本当に相手に愛を持つことなんだろうと思う
それを渡してもらい受け取れた私は、
今まで出会ってきた大切な人や
これから出会う大切になっていく人に
“待つ“という応援の仕方を
少しずつ試していけるのだと思うと
とても嬉しいし、楽しみ

そして人に対してだけでなく
未来に対しても同じだったのだと思う
lifebaseあるでの日々、一緒に暮らした彼の生き方は
目に見える未来から今を生きるのではなく
予測できない未来、自分の想像を超える未来を待つ
期待や願いを持ちながら、葛藤がありながらも
その未来が訪れるまでを淡々と今という時間を大切に過ごす
その生き方の過程を見れたことが
見えないもの、保証がないものに対して不安が大きい
私にとっては、これからの人生のお守りになった。

“待つ“
この1年間で私に身についたわけではない
でも、この1年で“待つ“ということを
自然や子供たち、lifrbaseあるでの日々通して
渡してもらった。
24歳の私は私を使って“待つ“を少しずつやっていきたいと思う

【人は満ちたら動き出す、その瞬間を共に楽しむ人である】

私が私を使ってやっていきたいこと、大切にしていきたいこと

【満ちる瞬間】
この1年は、私が私を幸せにする責任をしっかり自分に持たせてあげられて1年だった。心地よい環境を離れ、縁もゆかりもない新しい環境に飛び込んだこと、暮らしも仕事も自分で整えて行かないといけない状況だったからこそ、私が満たされる瞬間について探求した1年だった。そして、それは誰にとっても大切なことだと、自分や、子供たち、周りの人をを通して実感した1年だった。それぞれにとって、その人が発揮されるための安心感(満たされる条件)も、環境も異なる。その人にとっては何が安心感になるのか、それを観察するのが私は好きみたいだった。

【動き出す瞬間】
満ちた時、人は自分を発揮し始める(発揮したいと願う)としたら、私は誰かが自分を発揮したいと思った時に、それを一緒に楽しんでいたい。目に見えないその人の魅力や想いを、私が好きな形にすること(デザイン)を通して、日常に寄り添うことで、その人と共に形にしていきたい。


24歳は、今の職場を離れて
関東に戻ることを決めた

フリースクール 
オルタナティブ教育
森のようちえん

未だになんと呼んだら良いのか分からない
山の中の小さな学び舎

年少さんから小学3年生までがクラスを持たず、自然の中で暮らすように遊ぶそんな場でスタッフとして働いた1年間

1年間で何が身につくのか 
何を経験できたのか

自然教育の現場で働く1人としては
1年でできるようになること、分かることなんてほんのわずかなのだと思う。

この山が1年間を通して見せてくれる自然の移り変わりに触れる。そして、1年、また1年と歳を重ねることで、
季節の感じ方、楽しみ方、暮らしへの取り入れ方、
そこにある自然と自分との繋がりを少しずつ知っていき、関係性が育まれていくのだろうと思う。
それは、子どもたちとの関係性もきっと同じ

感じて、繋がって、実感して、模索しながら、自分の中に落とし込まれるには1年間は短すぎる

それでもこの1年間ここにいて
自然と共に暮らし、働き
スタッフと子供達と過ごした時間は
私にとっては、なくてはならなかった時間だと思う
この1年で、私は自分のことを前より信頼できるようになった。

ダメと言われることをして注意をひく
そういうことも含めて、子ども達はいつだって
わたしはここにいるよと
力いっぱい表現している

子供たちの
“自分の存在をここにだす力“はすごい

そんな子どもたちとの日々を通して
私ももっと表現をしたいと思うようになった

今まで出会ってきた仲間とこれから出会う仲間と
もっともっと生きてることを楽しめるように
自分を楽しんでいけるように

23の私と出会ってくれた人、関わってくれた人に本当に
感謝です。24歳の私、楽しむぞ!






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