私の911 ーあれから20年ー

私は当時NYのQueens地区という、Manhattanから地下鉄で川を渡って30分ほどの所に住んでいた。2000年にNY市立大学の映画科を卒業した後、日系のテレビ制作会社に就職し、オン・ブロードウェイ、オフ・ブロードウェイのミュージカルや演劇を日本に紹介する番組のADをしていた。
あの日は、撮影もなく、オフィス作業のみで、遅めの出勤だったため、ゆっくりシャワーを浴びていた。電話が鳴っているのに気づいて慌てて出ると、東京の姉からだった。第一声は「大丈夫なの?!」だった。何のことだかわからなかった。「NYが大変なことになってるよ!」と言われても意味がわからず、「知らないの?(隣にいるらしい母に)大丈夫、なおちゃんまだ家にいた。知らないみたい。ビルに飛行機が衝突したって。日本でもテレビでやってるよ!」と言われて、慌ててテレビをつけた。ノースタワーから黒煙が上がっていた。映画の一場面のようなリアリティのなさ。まだ状況が把握できないまま、ぼーっと画面を観ていたら、隣の棟で爆発が起きた。最初、WTCで起きた爆発事故の取材をしているヘリが操縦を誤って突っ込んだのかと思った。よく状況も飲み込めないまま、取り敢えず「私は大丈夫。私、行かないと」と電話を切った。会社の人たちのほとんどがManhattanに住んでいたし、取材の手伝いが必要かも、と思ったのだ。その時点でもあまり現実感はなかった。
最寄りの駅に行くと程なくして電車がいつもと変わりない様子でホームに入ってきた。車内は静寂に包まれていた。みんな、少し伏し目がちに硬い表情で前を見ていた。スマホのない時代なので、最新情報を確認する術もない。私も彼らと並んで座った。Manhattanに入る手前の駅で電車が止まるとアナウンスが流れた。この電車はManhattanへは行かない、全員降りろというのだ。人々は不平のひとつもこぼさず、無言で電車を降りた。
上司に遅れることを連絡しなくては、と公衆電話を探したが、どれも前に長蛇の列が出来ていた。連絡するのを諦め、徒歩で橋を渡ってManhattanへ行こうと思った。
地下鉄の駅を出ると人が溢れかえっていた。橋の袂へ行くと、警察官に両腕を大きく広げて行く手を塞がれた。「何してるんだ?!Manhattanには行けないから帰りなさい」と言われた。「でも、私、仕事で行かなくてはならないんです。」と答えると、「気は確かか?死にたくなかったら家に帰れ!」とかなりの剣幕で捲し立てられた。隣にいたヒスパニック系のご婦人に「あなた、オフィサーの言う通りよ。行っちゃダメ!死んじゃう!」と腕を掴まれて引き戻された。「取り敢えず、ここで様子を見よう。少し経ったら、橋を渡らせてもらえるかもしれない」と思い、カフェでもないかと見回した。その時初めて、みんなが同じ方向を見ていることに気づいた。つられて見ると川の向こうのWTCのあたりから煙が立ち上っていた。近くにYWCAを見つけ、中に入った。あちこちで悲鳴が上がっていた。みんなテレビに釘付けだった。テレビには信じられないような光景が映し出されていた。WTCの高層階から人が次々に身を投げていた。ある人は1人で、2人でお互いを抱きしめながら飛び降りる人たちもいた。画面の隅にはLIVEの文字。息ができなくなって目を逸らした。
公衆電話を見つけ列に並んだ。繋がらないと諦める人もいた。私の番が来た。チーフ・ディレクターの自宅にかけると、いつもより繋がるのに時間がかかったような気がしたが、彼女が出た。「なおこちゃん!無事だった!よかった!!」と大好きな優しい声がした。やっと心が少し緩んだ。Queensから出ることすらできない旨を伝えると、「何言ってるの!家に帰って!こっちに来ちゃダメ。私たちは大丈夫だから。みんな連絡取れた。なおこちゃんだけ電話出ないから心配したんだよ!」と叱られた。明日も休むように、方針が決まったら連絡する、と言われ、電話を切った。人々はまだテレビを見ていた。脳が理解に追いついていなかった。それでも涙がこみ上げてきて、慌ててYWCAを出た。
駅の降り口に行くと、人が続々と出てきて「電車は止まっている」と教えてくれた。歩いて帰るしかない。そこから1時間半ほどManhattanと垂直に走る大通りを歩いて家へ帰った。時々振り返ると、雲ひとつない青空に煙が見えた。炎天下を歩き続けたように記憶しているが、暑かったとか、辛かったという記憶はない。途中、お腹が空いて、朝ごはんも食べていないことに気づいた。マクドナルドを見つけ、もぐもぐと旺盛にハンバーガーを食べたような気がする。家の近くにたどり着き、いつものデリ(コンビニのようなもの)でビールを買って帰った。
その日は、テレビを観ながらずっとビールを飲んでいた。足りなくなって何度もデリに買い足しに行った。いま思い出しても、そんな状況でよくアルコールなんて飲んだもんだと呆れる。翌日も、事件の概要が明らかになるのをテレビで見守りながら、リビングのソファで飲んだくれていた気がする。正常な判断ができない状態だったのだと思う。
数日後、WTCから数ブロックのところへレポーターと撮影クルーと取材に行った。あたりは一面灰色だった。固いカップ型の工事作業員用のマスクをしていたが、苦しくて何度も外した。深呼吸をすると咳が止まらなくなった。その時のカメラマンは、いつも一緒に仕事をしていた穏やかなドイツ人のマイケルだった。マイケルは911当日、WTCの近くにある市庁舎で取材をしていたという。大きな音がして何事かと外に出たら、大勢の人が叫びながら逃げてきたそうだ。「カメラマンとして現場に駆けつけたいと思った。でも、音声の子を道連れにはできない。それに家族のことも過って、「三脚なんて運ばなくていい、置いて行こう」と音声の子に声をかけてアップタウンに向けて、他の人たちの波に合流し、何が起こったのかもわからないまま走り出した。チャイナタウンに着いたら、みんな全身灰だらけになっている僕らを不思議そうに見ていたよ。途中のお店で無料でミネラルウォーターを配っていて、僕ももらった。嬉しかった」と話してくれた。
ほんのその数日後、チャイナタウンの目抜き通りのCanal St.から下も立入禁止になった。
私の生活は一変した。某日本キー局に派遣され、取材班が撮影してきた資料映像のログ作りをした。時々、フリーの外国人カメラマンが映像を飛び込みで売りに来た。
1ヶ月ほどそんな日々を過ごし、その後、どこの局用だったか忘れたが(記憶から消去したのだと思う)、ドキュメンタリー番組のネタ探しの仕事をした。毎日、新聞のテロ関連の記事を隅から隅まで読み、取材相手を探す作業だった。WTCから避難した生存者たちの目撃証言や行方不明者の家族のコメントをまとめた記事を山ほど読んだ。ある臨月の女性は「夫はWTCで働いていたのではないんです。たまたまあの日、打ち合わせで呼ばれて行っていただけなんです」と。ある女の子は「車椅子を使っていた行方不明になっている父が2人の人に助けられながら階段を降りている姿を見たと同僚の方に聞きました。どなたかは知らないけれど、父を助けようとしてくれた方々に感謝したい。どうか無事であってほしい」と。私は、そういったエピソードを見つけては「これはネタになる」と赤いペンで丸をつけていった。私は静かに病んでいった。やがて、「もうやだー。こんなのやだよー。日本に帰りたいよー。お母さーん」と部屋で1人泣きながら叫んでいる自分に気づいた。そんな自分にその時どう対処したのか、ぽっかり記憶がない。
その後も仕事は忙しく、内容は911関連のものばかりだった。「911景気」という吐き気のするような言葉で表される時期を過ごした。
NYは深い悲しみの中でも、それぞれに近しい人たちとの絆を確かめ合い、支え合うようにして必死で日常を取り戻そうとしていた。しかし、そんな中、アメリカ中部では中東系の人々が暴行被害に遭うなどの事件が多発し、さらに、ブッシュ政権は、この同時多発テロを「戦争行為」だとし、これは「米国に対する武力攻撃」だとして、「自衛権」の発動を宣言した。アメリカという国と自分たちとの温度差に、NYの人々は呆然としていた。その時のブッシュ氏の紅潮した顔を私は忘れることができない。


そして、911から約1年後、「あれから1年」というくくりの番組があり、ある家族を取材した。その家の7歳の女の子のことが忘れられない。彼女は911当時WTCのすぐ近くの高層マンションに住んでいたという。彼女の家のあたりは立入禁止になり、避難を余儀なくされたという。その間、飼っていた鳥をマンションに置いて行かなくてはならず辛かったという話、直後は絵を書いても黒いクレヨンばかり使っていたといった話などを聞いた。取材も終わり、お茶をいただきながら、その子のお母さんと話をしていたら、その女の子が部屋に駆け込んできて、「あのね、窓から外を見たら、紙がたくさん降ってきたの。でね、隣のビルの屋上に人の足が飛んできたんだよ!」と興奮気味に捲し立てた後、げらげらと笑い出した。文字通り、総毛立った。お母さんは「まだ時々、こんな風になるんです」と話してくれた。(投稿した後、何となく記憶がおかしいな、と思っていたのだけれど、この話は「あれから2年」の取材に行った際に聞いた、その1年前の彼女の様子の話だった気もしている。記憶が曖昧だ。)
この数年後、私は日本へ帰り、今の仕事に就いた。そもそも映画の撮影監督になりたくて渡米したので、映画に関わる仕事がしたいと思っていた。しかし、ドキュメンタリや情報番組を離れ、フィクション作品の仕事をしたいと考えたのも、今の仕事を選んだ理由のひとつだ。
あれから20年。震災(東京でだが)を経験し、コロナ禍にあり、思う。当たり前が当たり前でなくなることは当たり前にあって、どうしても動揺してしまうけれども、自分の人生の一部として受け入れていくしかない。当たり前は変わってしまうものなんだ、とその当たり前な瞬間瞬間に感謝していくしかない。

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