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最期を決めるのは誰か

私は父が少し苦手だ。

子どもの頃は怒られた記憶しかなく、今でも会えば小言ばかり。
褒めて欲しくて何かを報告すると、大体は「別に大したことない」という顔のまま、ちょっとしたミスを指摘する。
ちょうど落ち込んでる最中に些細なことでカミナリを落とされると、割と本気で「クソじじいー!!!!!」と思う。

そんなこんなが積み重なって、父が少し苦手だ。
話すとよくけんかになる。

私の父は、今年64歳になる。
どこも悪いところがない!というわけではないが、今どきの60代としてはそこそこ健康だと思う。
そんな父の生涯を遡ると、私とは比べ物にならない苦労の影が見える。

まず、物心がつく前に「父親」、私から見た祖父を亡くしているのだ。
享年は28歳で、おそらく心臓病だったのでは、と聞いた。
祖父が倒れた時、父はまだ2歳。
そして祖母のお腹は今にもはち切れそうな臨月で、中には叔父がいたそうだ。
親戚たちは、父親の顔を知らない叔父のことを「不憫だ」と言い、何かにつけてかわいがるようになったらしい。

祖母は、その後小さな商店を開いて、昭和中期に女手だけで乳飲み子と幼児を育て上げたそうだ。
とはいっても、父の思い出話は楽しかった思い出より苦労した話の方が多い。
「ご飯は急いで食べて店番をした」
「休みなんてないから遠出もほとんどできなかった」
とか。
そうして「本当はパイロットになりたかった話」に行きつく。

教員として定年まで勤めあげ、そこそこ大きな学校の校長として退職した父。
しかし、別に教員になりたくてなったわけではないらしい。
当時、地元にあった国公立の教育大が、教員になると奨学金の返還が免除となったのが大きいようだ。
札幌の予備校に通う友人を横目に見ながら、公立高校卒業後に自宅で1年浪人生活を送った父は、自学自習で苦労して合格したのじゃないだろうか。
そんな父とは対照的に、絵が好きだった叔父は3年の私立高校生活を経て、4年制の私立大学に通いグラフィックデザイナーになった。
消去法で進路を選んだ父とは違い、好きなことを仕事にした。
…父は羨ましくはなかったんだろうか。


私が小学校に入って間もなくの頃、祖母が「がん」になった。
父は36歳で、祖母は64歳の頃のことだ。

9月に、体調が悪いということで検査入院したら、検査の結果は末期のすい臓がん。医者に「もう2カ月持たないだろう」と言われたそうだ。
父と叔父は、周りに気を使う祖母を早々に個室へ移した。人付き合いが上手だった祖母のところには、次々と見舞客が訪れたらしい。意識のはっきりしていた祖母は「退院したらお礼する人のリスト」だと思われるものを残していて、今も仏壇の下に残っている。

ただ、「ヨソの人」が居る時はきちんとしていた祖母も、父が泊った夜にはそうじゃなかったこともあったらしい。
「ちょっと昨晩様子が変だったから、今日もし何かあってもびっくりするなよ」
母はそう言われたが、何があったのか深くは聞かなかったそうだ。なので詳細はわからないが、人間が終末に向かっていく様子の一端を父が見ていたことは間違いないのだと思う。

結局祖母は、入院して1カ月ほど、10月9日に父、母、叔父に見守られて息を引き取った。
父は、粛々と喪主を勤め、親戚の相手をし、必要事項の一切を取り仕切った。火葬場では私を抱き上げ「これで最後だから」と祖母の顔を見せてくれた。
私を下に降ろし、棺の蓋を閉めた後、初めて人前で声を出して泣いていたのをよく覚えている。

祖母が死んで2年後、我が家は祖母が営んでいた商店跡地に家を建てた。本当は祖母と2世帯になるはずだった、日当たりの良い角地。祖母と同居していて、独身だった叔父はアパートに移り住んだ。
私は自分の部屋がもらえた。祖母が生前使っていたベッドがあって、大きな窓から光が入る部屋。わざわざ床を補強して運び込んだピアノもある。苦学生だった自身の夫と話していると、自分はなんと恵まれた子どもだったんだろう、贅沢だったんだろう、と恥ずかしくなることもちょっとだけある。

この頃から毎月祖母の月命日の9日、あとは正月や誰かの誕生日に叔父が遊びに来るようになった。夕方過ぎ、母が夕飯の準備をしている時に、私と弟は叔父に遊んでもらう。父が帰宅したら、鍋やすき焼き、手巻き寿司など、ちょっと豪華な夕飯を楽しむのだ。
叔父は、読み終えた週刊少年ジャンプも持ってきてくれた。私も弟もすごく楽しみにしていて、毎回どちらが先に読むのかで争った。
また、我が家の前には商店時代の名残でたばこの自販機があった。管理をしていたのは叔父で、補充で来るたびに私達は雑談に興じた。
頑固一徹・父親の威厳という雰囲気を出したがる父とは違い、陽気でニコニコ話す叔父が、私は割と好きだった。
「おじちゃん、ちょっと話が長いよね」
そう母にぼやくことはあったけれど、私達と叔父の関係は悪くなかったと思う。

しかし、ある時突然、叔父は9日に来なくなった。

私が大学生になった頃だったろうか。部活に熱中し、夕飯の時間に間に合わなくなるのが増えた頃だと思う。
9日はもちろん、ひな祭りもこどもの日も、私や弟の誕生日も、そうしてお正月にも叔父は来なくなった。
ずいぶん長い期間来なくなってから、あらためて母と弟に話を聞いた。親戚か縁者が、脳梗塞か何かの予後が良くなくて、家族が介護等をしている話が発端だったようだ。

私の父母は「人間の終わり」に関わる問題に触れると、一貫して「自分たちは迷惑をかけたくない」と主張する。「とにかく人(家族)に手間をかけたくない」「気を使われたくない」「自分がやってあげるは良いけど何かをされるのは(申し訳なくて)嫌」というタイプ。特に父はプライドも高くて「(生きるのに)人の手を借りなきゃいけないようなのはまっぴら」「ずるずると長期入院して迷惑をかけたくない、ぽっくり死ぬのが一番」「食えなくなったらそのまま断食して死ぬ」というようなことを言う。

おそらくはその感覚で、叔父が最後に来た日にも話をしていたんだと思う。
「祖母が長く苦しまなくて良かった、人に世話をかけ続けるようなことが無くて良かった」
と。
祖母が周りに気を遣わずに逝けて良かった、という意味だったのだと思う。

叔父はそれを「自分の母親が早く死んで良かったというのか」と怒ったという。

母に聞くと、それから父は、不器用ながらも節目節目で叔父にアプローチを続けたらしい。
食事に誘ったり親族の問題を話に行ったり、あとは仕事の関係者から連絡が取れない、と言われたら直接様子を見に行ったり。
それでも、叔父と我が家の夕飯が復活することは無かった。

叔父が死んだからだ。

晩年、肺が悪かったらしい。病院に通っている、服薬をしている、という話は聞いていた。たばこの自販機を管理して、自分でもスパスパと美味しそうに吸い、いつも禁煙に失敗していた叔父。でも、そんなに深刻な病気だ、という話は聞いていなかった。ある秋の日、アパートで亡くなっているのがたまたま比較的すぐ発見され、父と母は警察に呼ばれた。
突然死で死因不明、享年52歳だった。

葬儀は簡素だった。「家は変わっているが、きっと祖母と過ごしたこの場所から送ったほうが良いだろう」と、火葬場に行くまで叔父は実家に居た。すごく、久しぶりだった。近隣の親戚が訪れ「なんで、どうして、こんなに早く」と泣き崩れ、父も母も頷きながらその話を聞いた。
火葬の前日、父は叔父の棺と共に仏間で寝て、母も私も続き部屋になっている居間で寝た。葬儀は祖母と同じく町会館で、同じく父が喪主をした。
通夜振る舞いも当然実家でやった。
その最中だったか、別の機会だったか、形見分けのもの探しだったか。
とにかくまだ通夜や葬儀が十分に終わっていないタイミングで、私は父と叔父のアパートに行った。

叔父の家は、懐かしいたばこの匂いがした。それでいて、ちょっと昔くさい、なんとも形容しがたい衣服の匂いがした。居間に入って右手には几帳面な叔父らしい、きれいに整理整頓されたデスク。左側には商店時代に使っていて、もう電源の入らないコカ・コーラのレトロな冷蔵庫。キッチンには祖母が編んだオレンジ色の鍋敷きが置いてあった。奥の部屋は右が箪笥の部屋、左が寝室になっているので、父と迷わず寝室に入る。入って、まじまじと物を見る前に、父が震える声で「これ、見ろ」と言った。幼少期の私の写真だった。祖母の遺影と同じぐらい、私の写真は大切にされていたらしい。もうちょっと快く話を聞けばよかったな、様子を見に来ればよかったな。そう思って私は泣いた。

それから父は、しばらくふさぎ込んだ。
体調を崩すことも増えた。
叔父が死んで8年。
最近は大分よくなったが、祖母と叔父の命日が近づくと、一人で考え込んでいる時間も伸びる。

そんな父について、母と話すことがある。
私と母の共通認識であり目標は、もう父に喪主をさせないことだ。
私にいたっては、結婚式の「両親への手紙」で「母は父より長生きしてください」と入れるぐらい、心の底から思っている。
余談だが、親兄弟が死んだ時しか泣かない、と豪語していた父の目は潤んでいたように思う。読んでいた私も当然泣いていたが、「勝った!」と思った。
また、これを書くにあたり、母に聞いたところ父は「お前(母)は俺の延命治療止められないだろう。娘(私)も無理だ。俺が意思決定できない状態になった時のことを、息子(弟)に頼んでおかなきゃならない。」と言っていたらしい。
父よ、甘く見るんじゃない。私も母も、やるときゃやる女だ。
それに、父が自分で望まない形の長生きなんて、私達だって望んでない。瀕死だってなんだって、父が生きていてうっかり母が先に死んだら、また父が喪主をしなくてはならない。そんなのは絶対阻止だ。

私は父が少し苦手だ。

「娘を躾けるのは嫁に行くまで」とかなんとか言って弟に比べて厳しくしていたはずなのに、嫁に行って7年経った今でも弟より私に対して小言が多い。
楽しんで欲しくて取材で知った教育業界の小話をすると「それがどうした?」という顔をしながら、馬鹿にしたように笑う。
夫に見栄を張りたくて、良い話をしている時にこき下ろされると、割と本気で「クソじじいー!!!!!」と思う。

そんなこんなが積み重なって、父が少し苦手だ。
話すとよくけんかになる。


それでも、もし私達が「父の最期」を決めなければいけないような時が来たとしたら。
母と、遠方に住む弟がもし迷ったら、私が決めると思う。

それが父の望んでいることだと知っているから。

#ぶんしょう舎
#わたしたちの人生会議

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