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オシャレなクロス屋さん

昭和50年代に建った、古い団地へ越してきて
早くも3年が経った。

自分で選んで、
自分の数百万の貯金と、
もう亡くなってしまったが、

とても厳格で優しかった
義父のお金を合わせて買った家、
お気に入りで揃えて考えに考えて建てた
新築の一軒家は
3年前に元旦那に出て行けと言われた時に
取り上げられてしまった。

数年間、苦しい生活を送ってきたが、とうとう
私が病気になり、入院中に離婚届を出されたときに
やっと気づいた。

あれ?コレってDV?と。笑

この時、やっと初めてここから出たいと思えるようになり、

大切にしていた家と引き換えに、
出て行こうと意思表示することができた。
このままでは殺される、と
怯える毎日だったけど、すでに親も亡く、
帰る家がなくなっていた私にはそうするしかなくなっていた。

離婚してくれと、離婚届を出されたタイミングは
絶好のチャンスだった。
身を守れ、
早く出るようにと周りからも言われ、
とにかく出ようと
慌てて借りて住み始めた団地が
オバケでも出そうな、古いここ。

見ただけで娘が怖いと泣いた、
だけど、選ぶこともできず、

急いで決めた部屋が、ここでした。

退院して間もなくだったので、
自分で少しずつ、ちょっとずつ、カーテン付けたり荷物を運びがてら
掃除に来て、床にフロアマットを敷き詰めた。

カバーやシートを切ったり貼ったりして整ってきた団地の部屋は
あっという間に、いつでも引っ越して来られる
わたしのお城になった。

あとは引っ越し、その時には自慢だった一軒家は、
とても愛着など湧かない
ゴーストハウスにしか、
見えなくなっていた。
今思い出しても、
あんなに手をかけて住んだ18年が
嘘のように、
思い出となっていた。
もう二度と戻りたくないレベルで。笑

だけど
子供たちにはかわいそうなことをしたなと思う。
団地のコンクリートの寒さ、ったら
冬は本当にしばれるものよ。
地面の冷えが伝わるほどの、ひんやり感。
とにかく天気の日でも帰れば外よりも
ひーんやりしてる。

お風呂なんて、冬場は露天風呂かと思うほど寒い。
どんなに浸かっても温まるまで時間がかかるし、
何度も追い焚きするから、
ガス代もバカにならない。

網戸のない夏場は、虫と蒸し暑さとの闘い。
低層は風が抜けないので、どんだけ扇風機回したって、暑いったらない。

内装は、一番安いクロスやら、
床も壁も張り替えしたでキレイだったけど、
安物素材なので、消耗が激しい。
天井はすぐにかびてしまう。

室内がキレイでも
建物の見た目が古く、酷かったので
中学生の娘はここには住めない、嫌だと
怖がった。

団地育ちだったわたしには、
ここに住むことなど全く苦ではなかったのだけど、
生まれた時から
木でできた新築の一軒家に住んでいた娘たちには
辛かっただろうと思う。

長男なんて、途中、耐えられず、
半年で元の家に帰りましたからね。笑

そんなこんなで、病後の体を引きずりながら、
過ごした2年間。仕事も異常に忙しくなり、毎日ふらふら。寝て起きて、仕事へ行って
食べて作ってまた眠る、みたいな。

気持ちに余裕ができたわけではなく、
あと何年生きられるのかなって思った時にふと、
また、息子が帰って来た。

どうやら旦那の家に戻った息子は、
すっかりガリガリ、ボロボロになっていた。
食事は毎日、会話もなく、特売シールの貼られた、
お弁当を与えられ1人で部屋で食べていたという。

お小遣いはおろか、交通費さえも貰えず、
高校は帰った途端、中退させられ、
居酒屋でアルバイトを強いられていたらしい。

私だけならともかく、息子にまでそれは、
ないんじゃないのと驚いた。

ごはんも満足に与えられず、
髪も切ってもらえず、帰って来る前、
当時の息子は

ガリガリで、ボサボサ。浮浪者みたいだった。

今は笑えるけど、彼がもう少し小さかったら、
完全に虐待だよ。

こんな団地には住みたくないと言って、当時は本人自ら出て行ったわけだけど、流石に1年経たずに
ギブアップして、帰ってきた。
今じゃ狭い四畳半にお気に入りのゲームと、
パソコンに囲まれ、不自由なき生活を送っている。

県立の通信制の高校に通いたいと戻ってきたのだ。
背もずいぶん大きくなってきた。
ああ良かった。

そして、末っ子はとうとう高校生になる。
お金のかからない高校に、受験してくれたらいいな

なんて思っていたけど、
不登校だった娘に県立高校を選択できる訳もなく。
当たり前のように、私立を単願で勧められる。

お金の心配をする末娘は、だったらお兄ちゃんと同じ通信高校へ行くとか言い出して。流石にそれは知らないとはいえ、可哀想。笑

結局、受験戦争とやらには無縁のまま
作文、面接で入れる私立へ。。。そして合格。

なんとなんとここまでの三年、今までで1番、
子どもたちと共に戦って来たような日々でした。

元々一人で子育てして来たような感覚はずっとありましたが、どこかで甘えていたんでしょうね、
自分一人でやらなければと思うと

性格上、意外と頑張れる、
パワーなんていくらでも発揮できるものなのだと。

ふと、みんなの行き先が見えて来たなと
思った矢先。

年末から、建物の修繕工事が始まったのです。

4ヶ月ほどの工事日程で、外壁の塗り替え、階段や、ベランダに床クロスを貼る工事で、春先になったらきれいになるよって。怖くなくなるよって。
ヤッタネ!!

その日を楽しみに、
寒い日々も、風の通らない、

足場で囲まれた団地でひっそり洗濯物を干し、窓も開けられず、ある日はシンナー臭い外にも耐えて。

そう、生まれるその日までじっとしている、サナギのような日が続く。

都内の棟から剥がされた、足場を囲うシートが外され始め、外の日差しも暖かくなってきた頃

とうとう最後の仕上げとなる、
階段の床の張り替えが始まった。

お昼に帰ってくると、ジャズが流れている。集合ポストに立て掛けられた、小さなラジオ。今どき競馬の中継聞くおじさんしか持っていないようなやつ。

鼻歌まじりの床張り職人
(こんな名前で呼んでいいのか分からないけど)

最後の最後の仕上げ部分、一人で黙々と仕上げている。

そうね、ケーキで言ったらデコレーションの部分かしらね。

おしゃれな職人さんのお陰で、BGMはジャズ。

きれいになった、団地から

さあ、飛んでいいよ、サナギは終わり、生まれておいでと言わんばかりに

ふんわり風が吹いてきた。

毎日挨拶してくれた、外国の職人さん達。

デニムの作業着もクロス屋さんの鼻歌も、
ホント、おしゃれだったな。
そうだ、元旦那もこうして現場でやって仕事してたのかな。

とってもキレイになった私たちのお城。

ありがとう。

桜が咲いたら、もっともっといいことあるかもね。



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