コミュニティサミットから学んだこと_

コミュニティの正体とこれからの社会

先日、「Community Summit Tokyo 2018」という宇野常寛さん、佐渡島庸平さん、前田裕二さん、箕輪厚介さんの4名が「コミュニティ」をテーマに議論するトークセッションに参加してきた!
僕は今、「emole」という小さなやってみたいに仲間を見つけて挑戦するプラットフォームをつくっている。これは、「何かをやりたい」だとか「学びたい」という思いを起点に同じ志向性の仲間とつながることのできるコミュニティサービスでもあるため今回のイベントはすごく楽しみにしていた。

今回のセッションでは登壇者4名の視点が浮き彫りとなり、コミュニティ関連の知見を得られたので、それを共有できたらと思う。一言で「コミュニティ」と言っても、その言葉の定義や必要だと思う理由、運用の目的などが人によって全然違っているということもわった。そのため今回のトークセッションでは、様々な領域にまたがる幅広い議論が行われたが、その中でも面白かったポイントを以下のタイトルに分けてまとめていきたい。

①コミュニティの正体とこれからの社会
②コミュニティとお金の話
③ビジネスとして活用するコミュニティと運営ノウハウ Part.1
④ビジネスとして活用するコミュニティと運営ノウハウ Part.2
⑤「何者」かになろうする人間は「何者」にもなれないのか?

初回は、「コミュニティの正体とこれからの社会」について。

なぜ最近になってコミュニティが注目されるようになっているのか

これは宇野さんの説明が一番わかりやすかった。コミュニティが最近注目されるようになっている理由は2つの側面から説明できる。

1つ目は、インターネット社会論的な観点から説明する「Twitter疲れ」
そもそもインターネットは本来分散型のものであり、情報を取得するにはそれなりのスキルが必要であった。だからこそ多様な文化が花開いているという側面もあった。しかし、震災直後のTwitterの爆発的な普及によって日本のインターネットは変わってしまった。Twitterがコミュニケーションの基礎インフラになり、誰もが簡単に情報にアクセスできるになったことで、インターネットが1つの大きな村となってしまった。インターネットが集権型になってしまい、息苦しいものになってしまった。そうした中で、本来インターネットが実現してきたようなバラバラの人間がバラバラに集まっていける世界があってもいいのでは?という欲求が閉じたコミュニティを生み出していこう!という運動に繋がっている。

2つ目は、労働問題的な観点から説明する「やりがいに対する需要」
コミュニティそのものは昔から存在した。と言うよりも昔はコミュニティしかなかった。人間は親を選べず大体の人間は生まれた村から一歩も出れずに死んでいく。人は自分が生まれたコミュニティを通じて世界とつながることしかできなかった。それが近代社会になって、職業選択の自由が生まれた。労働者として社会にコミットしていくようになり、「個人」という概念が生まれた。その仕組みが今機能しなくなってきている。一番大きい要因は産業構造の変化である。自分で世の中を動かしているという実感を持てるのは、一部の情報産業に携わる人や新しいものづくりを最先端でやっている人、ごく一部のメディアの中心にいる人だけになっている。自分が世界と繋がっているという実感が持てる一握りの人間とその他大勢の誰がやっても同じで最終的には人工知能に代替される仕事をする人間に世の中は2分されてきている。そういった中で自分はどうやって社会と繋がったらいいのかを考えた時に、何か自己の生業とは全く別のコミュニティを通じて世界をよくしていきたいという需要が高まっている。それが今のコミュニティ需要だ。

これに加えて箕輪さんは、「社会的文脈としてみんなが孤独を感じているから」というものと「ビジネスモデルとして活用できるから」というものもコミュニティが注目されるようになっている理由としてあげていた。孤独から生まれるこコミュニティニーズに関しては今回のトークセッションではあまり取り上げられていなかったが、佐渡島さんの著書「we are lonely,but not alone 現代の孤独と接続可能な経済圏としてのコミュニティ 」に詳しく書かれているのではないかと思う。ビジネスモデルとしてのコミュニティ活用については、少し論点がずれてしまうため3回目以降にまとめていきたい。

「課題設定能力」という重要なスキルを人は失っている

上記の「Twitter疲れ」で説明したインターネットの変化や、もっと言えば、それ以前から存在する20世紀的なマスメディアによって、人は大切な力を失ってしまっているという。それは、課題設定能力である。世の中の課題設定を行っている主体の大半は新聞や週刊誌、TVであり、多くの人はその課題に対する答えを議論しているだけである。本来インターネットの登場は、マスメディアではできない高いアンテナやフットワークの軽さを売りにするネットの独立系メディアが20世紀的なマスメディアの代替として機能するという構図だったはず。にもかかわらず今のインターネットメディアは新聞、週刊誌、TVからネタをもらって乗っかるか逆張りをするかだけになっている。インターネットが発達した現在も課題設定をしているのは、新聞や週刊誌やテレビであって、Twitterで情報発信する人が独自の課題設定をできているわけではない

世界に素手で触れる感覚を人は求めている

一方で、「やりがいに対する需要」で説明があったような、「自分で世の中を動かしているという実感」を得られる人とそうではない人の差は課題設定ができるかどうかであるそうだ。「世界に素手で触れる感覚」を享受できる人間になれるかどうかは成し遂げたい価値が明確化できるかどうか。ただし、これができる能力を持っている人はごく一部で、これからは、こうした能力を養っていかなければいけない。

普通に働いているとよっぽど特殊な仕事をしていて運がいい人でなければ、こうした「やりがい」を感じることや「生きがい」を実感することはできない。そのため、会社のような場所以外で人はもう少し世界に素手で触れたいと思うようになってきていており、そうした人たちのために最近様々なコミュニティが生まれ始めている。

また、前田さんは、コミュニティのリーダーに向いている人は問いの設定ができる人だと話す。多くの人は答えを提示するだけで問いの設定をする力がない。コミュニティづくりが上手い人は課題設定を行い、それを投げて考えさせるのが上手い。日本の教育では、問いが先にあり、その答えを探すという習慣が染み付いているため、多くの人はこの「問いをつくる」という行為が苦手なようだ。

さらに、宇野さんは、「問いを設定できない人がコミュニティをやっても機能しない」と話していた。答えを見つけるだけであれば、インターネットで検索すれば出せるし、コスト低く調べられる。しかし問いを立てるには、洞察の深さや視点の広さが必要になるためその能力を鍛えるには時間がかかるということだ。

プラットフォマー的思想:個の力を育てるための場所としてのコミュニティ

別の視点で前田さんはコミュニティを共属意識を持った集団であると定義していた。共属(=自分がある集団に属しているという実感)を担保するものにはいろんなものがあり、それは宗教であったり、肌の色であったりするかもしれない。今の日本ではインターネットの登場により、「好き」というフックが共属意識を促すという現象が生まれてきているという。前田さんが運営するプラットフォーム「SHOWROOM」もそうした「好き」という感情をフックにしたコミュニティを生み出す場として捉えているようだ。また、こうした「好き」をフックにしたコミュニティは、経済的にそれが成り立つにようになってきていると話す。それは、クラウドファンディングやファンクラブ、オンラインサロンも同じで、コンテンツを供給していく側が少ない人数でもマネタイズができるようになっているということだ。

さらに、前田さんはこうした定義に加えて、コミュニティは個の力を強くするための修行の場所だと定義した方が良いと話していた。コミュニティは多神教的なもので、分散型のもの。一週間で解散するかもしれないし、10年続くかもしれない。コミュニティの中で力をつけて、外に出てその人がコミュニティをつくるかもしれない。コミュニティとはそう言ったものだと考えていると話していた。

こうした話を踏まえて宇野さんは、前田さんの発想はプラットフォマー的思想から生まれるコミュニティの定義であると話し、これは非常に正しい考え方だと話した。プラットフォームのように、環境が十分に整備されているものがあれば、個人が自由にコミュニティを行き来できて自己実現できる。コミュニティそのものはその人やその場所が終わると死んでいくので、カジュアルにコミュニティが生まれやすい環境にだけ意味がある。これは非常に正しいが、実際にはそのような環境はないと宇野さんは言う。また、今起こっているコミュニティブームはこれとは少し違うそうだ。まだまだ十分にプラットフォーム整備されていない状況の中で、もう少し属人的な運用でカバーしていかないと新しいコミュニティは前に進んでいかない。これを具現化しているのが「箕輪編集室」であり、「コルクラボ」であると話していた。

課題と居場所を提供する属人的な運営によるコミュニティ

箕輪さんは、自ら「箕輪編集室」というサロンを運営しているが、このコミュニティの運営は資金繰りや労力を得ることが目的であると話す一方で、ここまで書いてきた「世の中に素手で触れる感覚」を得られる場や孤独を感じる人が多い中、同じような価値観を持つ人たちが所属欲求を満たすことできる場として機能しているようだ。

箕輪さんがコミュニティを運営する上で特に意識していることは、「目的すら本人たちに決めさせる」ということだ。例えば、「地方の若者を増やす!」とか言うけど、「何やらせたいんですか?」って言われて思いついたことnoteに書くが、「それすらも自分で考えて」と言うそうだ。そうするともうその課題は自分ごと。僕はただの旗じるしというか、ワーワー騒いでいる概念の象徴みたいなもの。きっかけを提供しているにすぎない。

また、こうした運営を行っているため、コミュニティメンバーのマインドは「箕輪さんのためじゃなくて箕輪編集室のため」というものになっているらしい。「箕輪さん」を応援するコミュニティと言うよりは「箕輪編集室」という生き物として成長してるそうだ。そのため、たとえ箕輪さんが死んでいなくなったとしても箕輪編集室からは退会者が出ないと思うと話す。もはやそこにいるのが居心地がいいからだ。

こうした、カリスマ的なリーダーの存在が生み出す属人的な運営によるコミュニティが、これまでに述べてきたような課題を解決していく新しい形のコミュニティであると宇野さんが話す一方で、佐渡島はさんは「SHOWROOMではコミュニティが生まれているし自走もしてる」と話しており、前田さんは、「未来予想ですね」という言葉で、プラットフォームがこうしたコミュニティが自然に生まれていく環境を構築していく可能性も示唆していた。

ここまでの議論を踏まえて

ここからは個人的な見解であるが、上記の議論を踏まえて自分が感じていることをまとめたい。

「世界に素手で触れる感覚を求めている人」と言う表現があったが、「自分が社会にどう役立っているのか」、「自分の生きる意味とはなんなのか」、「自分が何者なのか」、といった悩みは今後一層増えていくと感じている。少し先に話になるかもしれないが、特に今後AIによって様々な分野で労働が機械に置き換わっていく時やベーシックインカムの導入によって低次な欲求を誰もが満たせるようになった時に、上記の課題はもっと多くの層に広がっていくのではないかと感じている。

また別の視点になるが、今後、閉じたコミュニティが増えいていき、世の中が個に分散していく中で、自分がどんな人間で何が好きなのかを語れない人は自分の所属欲求を満たす場を失い、今よりも一層孤独感を感じる世界が生まれていくと思っている。

そうした時に、必要になってくるのは、「やりたいこと」「学びたいこと」をフックとした共属意識を持つコミュニティが自発的に生まれて行くプラットフォームだと思っている。自分と志向性の近い人間と共に、一つの目標に向かって活動していく中で世の中に役に立っているという実感を得ながら、自分の居場所があることを実感できる場が自発的に生まれていく仕組みをつくっていきたい。上記の問題を解決しているのが「箕輪編集室」や「コルクラボ」といったコミュニティであると思うが、こういったカリスマ的コミュニティリーダーの存在に依存したコミュティには、生まれる数に限界があるのではないかと思っている。

また、僕自身、中学3年生の頃から「なんのために生きているのか?」と言う疑問を抱えながら生きてきたこと、表面上出す姿とは別の部分で孤独感を抱えながら生きてきたということもあり、今突きつけられている課題はまさに自分ごとである。

これからつくっていくサービスは、このセッションで語られてきたような課題を解決していけるものにしていきたいと思っている。

次回はコミュニティとお金のお話

次回の「お金」の話は、課題設定をすることができない人たちが現状どのように「世界に素手で触れる感覚」を得ようとしているのか、と言う部分にも繋がってくる。また、3回目以降でまとめる、ビジネスとして活用するためのコミュニティ運営を考える上でも重要な知見が得られる議論だったと思っているので、次回は「お金」というテーマにフォーカスしてまとめていきたいと思う。

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