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人口1400人ぐらいの村から。地方自治法の改正と食料供給困難事態対策法について思うこと。

R6年度6月定例会。本日、継続会で終了予定です。
建設産業常任委員会の委員長として、今回の議会で意見書をあげたいことがありました。意見書は、他の議員さんの賛同も得なければならず、6月議会での発議は難し、そうで9月になるかもしれませんが、議会に出かける前に、自分が揺るがないために、事前にちゃんと書いておこうと思います。

▶️地方自治法の改正について

東京新聞5月24日の記事です。

(東京新聞さん、いつも他の新聞ではそこまで詳しく書かれないこともきちんと裏付けしてくれて書いてくれてあるので、何気にファンです。)

日本弁護士連合会の声明です。

要するに、この法律は、国が地方に「指示」(強制)することができてしまうことを許した法律です。

現在、参議院で審議が行われています。

父(前泰阜村村長:松島貞治)が書いた「安心の村は自律の村」という本からの抜粋です。

・満州移民の歴史(満州泰阜分村建設)の歴史


昭和初期の経済恐慌は、農山村を直撃、特に生糸の暴落により、この地の主要産業であった養蚕が大打撃を受けた。折りしも人口増加に苦しむ農村にとって、満州移民計画には高い関心が示された。記録によれば昭和七年(1932年)より当時の農林省による「経済更生計画」を立て、更生の途を選んだが、村の耕地では人口増加に耐えられない状況となった。統計史上最も人口が多かったのが昭和10年の5,884人であり、これだけの人口を支えるだけの耕地が村になく、人口解消が必要になったのである。
 この人口解消策として、国策たる満州移民を村更生の第一として決定し、昭和12年農林省指定村となり、挙村体制で村民を満州に送り出した。最終的にその数は、1,200名となり、満州では「泰阜分村」を建設。昭和14年10月には学校も開校、耕地も分配し順調なスタートとなったものの、昭和20年8月9日ソ連の参戦により、現地は大混乱となり、死の逃避行となった。開拓団によっては全員自決の道を選んだところもあった。結局、泰阜村では、送り出した開拓団の半数を超える632名が犠牲となり、一方、多くの残留孤児を残す結果となった。残留婦人、残留孤児の帰国も平成13年ようやく完了したが、彼女らは2世、3世の問題も残したまま、いまだ戦後は終わらないという。貧しさの歴史とはいえ、あまりに悲惨な事実である。
 
当時、近くの村では、海外まで村民を送り出すことは忍びないとして満州移民計画にのらず、国内への移住を選択したところもあった。国策であった満州移民計画に積極的に取り組んだ末、多くの犠牲者を出し、残留婦人、孤児の問題も含めて戦後60年近くを経過しても、いまだその傷を癒すことができない歴史を思うと、いつの時代にも国策に左右されながら、犠牲となるのは、国策を決めた人たちではなく一般庶民であることに深い憤りを覚える。国策を選んだゆえ不幸を抱えたこの史実をどう考えたらいいのであろうか。
今日の市町村合併問題も、時代状況こそ違え、財政的に厳しく、その対応のためのまさに国策であることを思うと、戦後生まれの私であっても当時の尊重の苦悩が重なるのである。

松島貞治、加茂利男著:安心の村は自律の村(自治体研究社)より

地方自治法の改正に私が反対するのは、泰阜村のこうした歴史からである。私の親戚のおばさんも、満州にいき、死の逃避行を経験し、「自分だけ生きて帰ってきたことを情けなく申し訳なく思うの。」と話してくれたことがある。戦時体制つくりだと、憂える声がありますが、そこまでみんな、馬鹿ではないはずだと信じています。
ただ、国が、自治体に指示権を拡大するということは、「満州に行きなさい」と言えてしまうということ。「合併しなさい」と言えてしまうということ。

私も、弁護士連合会の皆さんの下記の提案を支持します。


当連合会は、法案について、「国民の安全に重大な影響を及ぼす事態における国と地方公共団体との関係等の特例」に関する章のうち、「事務処理の調整の指示」を定めた第252条の26の4における「指示」を「要求」に改めること、「生命等の保護の措置に関する指示」を定めた第252条の26の5を削除すること、「都道府県による応援の要求及び指示」に関する第252条の26の7の標題を「都道府県による応援の要求」に改めた上で、同条第2項以下を削除すること、及び第252条の26の8の標題を「国による応援の要求」に改めるとともに、各大臣の指示権を規定する同条第4項以下を削除することを求める。

私たちが、私たちの住んでいる地域のことを、コミュニティのことを、自分たちで決める権利を、奪わないでもらいたい、と思うのです。

▶️食料供給困難事態対策法について思うこと

この法律は、食料が足りない!となりそうな時に、国が農家(他にも輸入業者なども含まれます)に対して「もっと作れ〜!」と言えてしまい、「作れない」というと、立入検査をされたり、「たくさん作るための計画」を出さないと、刑法で処罰される、という法律です。

この、「罰則規定」が厳しいと問題になっていますが。。。
農家に育った人、今、農業をしている方ならば、そもそものところでいいたいことが山ほどあるかと思います。

オンライン署名活動も始まっています。私も、署名させて頂きました。

有事の際に、国民ひとりひとりが力を合わせることは大切かもしれません。
でも、これまで私たちのむらの農業が、どんな道のりだったか。
村の、農家さんがどんな気持ちでいたかを思うと、罰則さえなくせばいいとは言えない、もっともっといろんな思いが込み上げてくるのです。

・わが泰阜村

泰阜村は、県境に接してはいないものの長野県の最南端に位置し、面積は65km2、林野率87%の過疎の村である。村の西側境は天竜川が流れ、その渓谷も深く、泰阜ダムが建設されている。現在、村には19の集落があるが、その集落は標高300mから700mという標高差の中に散在している。人口が集積しているところがなく、山間に点在しているため、集落を結ぶ道路建設が戦後、村の政治の中心課題であった。(中略)高齢化率も38%と典型的な過疎の山村である。
 産業といっても、農林業が中心であり、狭い耕地を耕しながらの養蚕、こんにゃく、畜産が中心である。昭和40年、50年代には専業農家も数多くあったのだが、現在は数えるほどになってしまった。私も水田、畑併せて1haあるかないかの貧農の出身であるが、小学生の頃、春の養蚕の時期になると、蚕が家の中心で、人間は飼育に必要ない狭い場所で寝起きした覚えがある。これは11月ごろまで続き、普通の部屋で暮らすのは冬の間だけであった。親の話では、戦後しばらくは米を作っても家で食べる米はなく、供出米(国からの命令で割り当てられる出荷米)、またはやみ米として物々交換をして生活したとのこと。耕作地が少なかった農家は、子どもたちに勉強をさせ、村から出てお金を稼ぐよう教育したのもうなずけるのである。役場や農協、郵便局に勤めたケースは幸せであり、それ以外の多くの村民は村を後にした。

松島貞治、加茂利男著:安心の村は自律の村(自治体研究社)より

・膝が痛い母が足をひきずりながら減反で減らされた水田に田植えをする。

 今年の地方交付税、臨時財政対策債の大幅減額で、さらに、合併やむなし、という市町村が増えるのであろう。しかい、ほんとうにそれで日本はいいのだろうか。昭和の合併の時、自費で自治省へその真意を確かめに行った、その住民の心は永田町や霞ヶ関ではわからないだろう。人の通らないところに2車線の道路をあけ、無駄遣いをしているといわれれば、それを鵜呑みにする人の数の方が多くなってしまった日本は、緑多き瑞穂の国としての価値をとうに忘れてしまっている。膝が痛い母が足をひきずりながら減反で減らされた水田に田植えをする。そんなにしてまで作らなくてもいい、というのだが、昭和の初期、そして戦後米をつくっても米が食べられなかった時代のことが頭から離れないのであろう。そして、水田も荒らしているようでは、先祖に申し訳ないと考えているのであろう。多くの過疎の山村で同じような光景が今は残っているのであろうが、それもあと10年足らず。田舎の荒廃は一気に進むであろう。瑞穂の国といわれた日本の田舎が消えていく、そんな政策をいま転換しなければならない。これは過疎の山村にいきるものの悲痛な訴えである。
 効率とお金だけに振り回されるようなそんな行政がうなくいくはずがない、と考えるのは私一人だけであろうか。

松島貞治、加茂利男著:安心の村は自律の村(自治体研究社)より


膝が痛いと、それでも田んぼに行っていたのは、私の祖母である。
もう、亡くなって8年になるのか。。。
米粒ひとつ、残さずにいつも食べていて。
「ご飯を食べられることが本当にありがたいことだ」と言っていたなぁ。


田植え前の、苗を育てているところ。

祖母が痛い足を引きずりながら守ってきた田んぼ。
父が倒れ、今年は、母と、弟と、私で植えました。

減反政策で田んぼを減らされたり、
お米じゃなくて違うものを作るようにいわれたり、
国に振り回される農家さんの姿と、祖母の姿が重なります。

今回の食料供給困難事態対策法は、「配給」についても言及しています。食料が足りなくなった時に、戦後、祖母が経験したように、国の指示で作ったとしても、それは自分のものにはならず苦しい生活を強いられるかもしれない村民の方の姿が思い描かれて。。。

罰則をいれた法律作る前に、
産業構造を、東京一極集中を、過疎を、
なんとかするのが先なのではないしょうか。

立入検査をしている時間があるのなら、
減反のために荒れてしまった田んぼ、
一緒に耕しましょうよ。。。

土もない、虫も鳴かない大都会で、
机の上で話し合って、
コンビニやお店でご飯買いながら
日本の農業のことを
決めているのかと思うと、
悲しくなるのです。

この法案を作った方は、
田んぼでお米、作ったことあるのかな?
作っている人を年間通して見たことがあるのかな?
一緒に生活をしたことがあるのかな?

感情的になってはいけないよな〜、とは思いつつも、
祖母のこと、父のこと、いろんなことが思い出されて・・・

今、村に残っている若者は、
私も含め、(私は若者ではないか😂)
一度都会に出た人も多いです。
都会での生活が便利なこと、
お金もたくさんもらえることも知っています。
でも、都会では味わえない人の繋がりも、
自然との繋がりも、
ご先祖様との繋がりも、
一緒に育ってきた仲間との繋がりも
都会にはなくて。
私は自分で選んでここにいます。

どうして選挙に出たのかな?
と思うことが時々ありますが、
こうした父の思いや、祖母の姿や、
村の人たちのことを思うと、
誰に嫌われようが、
何を言われようが、
私が大切にしたい人や地を
大切だと言い切りたいし、
できる限りのことはしたいなと、
思うのでした。

誰に何を言われようと、
地方自治法の改正と、
食料供給困難事態対策法に、
私は、反対します。

自分の住んでいる地域のことを自分たちで決める権利も、
自分の畑や田んぼで、作りたいものを作る権利も、
どうか、奪わないでください。


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