ハチミツ

シネマの記憶003 神話的な世界

 「蜂蜜」は、トルコ系ドイツ人の映画ではなく、トルコ映画である。監督はセミフ・カプランオール。2010年のベルリン国際映画祭コンペティション部門で、ポランスキー監督「ゴーストライター」を抑えて金熊賞を受賞している。

 スクリーンに映し出される、緑ゆたかな山岳地帯にある集落。聞こえてくる音といえば鳥の啼き声、羽ばたき音、虫の音、川の水のせせらぎ、風が森の木々を渡る音、つましい暮しのなかの音、ときおり交わされる父と子のひそやかな会話、登場人物たちの会話…。ここの暮らしに音楽などというものがない。音楽が現れるのは祭の場面くらいのものだ。稀にみる静謐かつ神話的な世界である。

 主人公ユヌスは、日本流にいえば小学生の低学年だろうか。おそらくは自閉症で、他人との距離を測ることができず、会話をすることもままならず、うまく友人関係を築くこともできない。こうした例にもれず傍目には唐突としか思えない行動を取ることがしばしば。ただ、唯一、父親には心を開いて、ちゃんと言葉を発するし、意思疎通もできる。父親がささやく。息子がささやき返す。二人の間だけに聴こえる声で。まるでテレパシーのように。

 息子と母親の関係が濃密なら分かりやすいのだけれど、息子と父親の関係がこれほど親密というのは珍しい。母親が鬼母というわけではないのだから。この特殊性はカプランオール監督ならではのものかも知れないし、ひょっとしたらこの世界の扉を開く鍵であるかも知れない。

 それにしても執拗に少年が通う小学校の授業風景が映し出される。まるで少年の自閉症を露わにするのが目的でもあるかのように。教室の中での少年と、父親の側にいるときの少年との対比。

 ある日、突然、あちこちの木の上に父親が仕掛けた巣箱からミツバチが消える。(環境の悪化あるいは農薬が原因で蜜蜂が消失したり大量死することはよく知られているが、この神話の中ではなにか別の意味があるように感じる。それが何なのかはよく判らないけれど)。それで父親は、あたらしく巣箱を仕掛けて蜂を採取するために、あらたな場所を探すべく白い驢馬を連れて深い森のなかに入って行った。

 数日で帰ってくると思っていたが、しかし待ど暮らせど父親は戻らない。気丈な母親の元気がなくなっていくのを心配そうに見守る息子。このあたりから、この小さな男の子に変化の兆しが現れて来る。そのうちにどうやら転落事故かなにかで亡くなったという村人の話。それを聞いて息子は、飼っている鷹の飛翔に案内されるかのように、一人で森へ分け入って行く。暗い森の奥で、大木の根元に抱かれるように眠る息子。そこでこの映画は終わる。なんだか黙示録のような映画である。

 ちなみにこの作品は三部作の最後を飾るものなので、先立つ二作を観なくては、ちょっと分かりにくいのかもしれない。


*ユスフ・カプランオール三部作はこちら


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