樋口季一郎について

1925年からワルシャワにて駐在
当時、ワルシャワの3分の1はユダヤ人であり、ユダヤ人やロシア人との交流を深める。

1937年12月 ハルビン第一回極東ユダヤ人大会にてこのように演説した。

「ユダヤ人は世界のいずれの場所においても”祖国なる土”を持たぬ。
ユダヤ人はその科学、芸術、産業の分野において他のいかなる民族に比べても劣ることのない才能と天分を持っている。それは歴史が証明している。
20世紀の今日、世界のどこかでユダヤ人を追放する様を見ることは、人道主義の名において、また人類のひとりとして私は心から悲しむものである。
ある1国は好ましからざる分子として、同胞であるべき人々を追放するという。追放しようとするならば、その行き先を明示し、あらかじめ準備すべきである。当然の処置をせずの追放は、刃を加えざる虐殺に等しい。
わたしは個人として心からこのような行為を憎む。ユダヤ人追放の前に、彼らに土地、すなわち祖国を与えよ」

当時、同盟国だったドイツを真っ向から批判した。
このニュースは世界を飛び回り、ドイツの逆鱗を買い、厳重注意を受けている。

1938年3月 満州国国境のオトポール(ソビエト側)に行き場を失ったユダヤ人が凍死寸前で足止めとなっていた。(オトポール事件)
「どんな民族だろうと、困っている人を助けるのは当たり前だ」
独断でビザの発行と特別列車を手配する。(樋口ルート)

ドイツは激怒し、日本政府へ抗議した。
樋口氏は出頭命令を受けて、参謀長の東條英機と対面する。
「日本はドイツの属国ではありません。ヒトラーのご機嫌取りのために、弱いものいじめをするのが正しいことと思われますか?」

東條は樋口を不問とします。
杉原千畝氏が命のビザを発行する2年前のことでした。
その後もドイツから抗議が来ますが、東條英機氏は「人道上当然の配慮である。」と退けました。



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