安江仙弘(やすえのりひろ)

1888(明治21年)-1950(昭和25年)
秋田市中通4丁目 生を受ける。
平田あつさねの生家にて。
1909年(21歳)陸軍士官学校卒(樋口季一郎と同期)

1918年(30歳の頃)シベリア出兵
「シオン賢者の議定書」(反ユダヤ主義の本)を知り、日本語に訳す。

1927年 ユダヤ研究を命じられる。
 パレスチナの地やエジプトを視察し、この時に反ユダヤ主義の観念的な誤りを悟る。亡国ユダヤ流民の惨状に同情する。

著書『猶太の人々』(1934)の結論には、帰国後の安江のユダヤ観がこう書かれています。
「ユダヤ人の一人一人を観れば、数千万の人が一人残らず革命運動に参画して居るのでもなく、皆一様に大財閥である訳でもない。

多くのユダヤ人の中には、これを分類すると色々の種類がある。例えば、絵で見る基督のような、昔ながらの服装をして、『ユダヤの泣壁』に朝夕集り、救世主の降臨を祈り、全く現代とかけ離れて、ユダヤ教のみに没頭している宗教的ユダヤ人がある。

また一方にシオニストとして、パレスチナのユダヤの国建設のみに熱中しているユダヤ人があるかと思えば、また他方には国境を超越して、世界を舞台として活躍するインターナショナルなユダヤ人もいる。

更にシオニズムによって一般に覚醒されたとはいいながら、シオン運動には無関心に自己の商売のみに熱中しているユダヤ人もいる。すなわちユダヤ人であるからといって、誰も彼も危険視すべきではない。我が国に取って有害な人物もあれば、無害な善良な人もある」。

1935年 ハルビンで極東ユダヤ人の議長のカウフマン達と協議し、日本とユダヤとの親善団体「世界民族文化協会」を作り、満州で行き場を無くしたユダヤ人や回教徒、白系ロシア人らを助けた。
この年、ドイツではニュルンベルク法が制定され、ユダヤ人追放が本格的にはじまった。

1938年12月 五相会議※1にて「ユダヤ人排斥は人種平等の「八紘一宇の精神※2」に合致しない」としてユダヤ人保護政策「ユダヤ人対策要綱」を制定。その中で”河豚(ふぐ)計画※3”が方針として決まった。

これは、ヨーロッパで迫害され逃げてきたユダヤ人を満州国に招き、自治区を建設する計画だったが、日独伊三国軍事同盟などにより頓挫した。

 ※1)五相会議…内閣総理大臣、陸軍大臣、海軍大臣、大蔵大臣、外務大臣の5閣僚によって開催された会議。1938年6月これを正式な国策協議機関とした。
※2)八紘一宇の精神…
※3)河豚(ふぐ)計画…「ユダヤ人受け入れは日本にとって非常に有益だが、一歩間違えると破綻の引き金になる」という考えを、美味だが猛毒をもつフグになぞらえた。

このユダヤ人対策要綱は、大連特務機関長だった安江仙弘が原案を作り、板垣征四郎に持ちかけたものだった。

約2年間、ユダヤ人にビザを発行し続け、助かったユダヤ人は2万人以上と言われている。

その後、日独伊三国軍事同盟の締結により、安江は大連特務機関長を解任される。

1945年8月 大連でソ連軍に逮捕される。
1950年8月 ハバロフスク収容所で病死。62歳。

戦前満州に住んでいたロシア系ユダヤ人のミハエル・コーガンは、戦後、日本でゲームソフトや機器の会社「タイトー」を創立する。(インベーダーゲームを生み出す。)在満時代にユダヤ人保護のために奔走した安江に深い恩義を感じていたコーガンは、安江がハバロフスクの捕虜収容所で亡くなった後、葬儀が挙げられていないことを心配した。
1954年、「在日ユダヤ協会で一切の費用を持つから好きなように(葬儀を)して下さい」と申し出ている。

『シオン賢者の議定書』の翻訳を根に持ち安江を嫌っていたユダヤ学者、アブラハム・小辻でさえ、その回想録『東京からエルサレムへ』(1975)でこのように述べている。 

「大連特務機関は、安江大佐によって率いられていた。満州の事業に親しみを寄せるユダヤ人たちは、安江に恩義を感じ、実際安江が多くの点でユダヤ人を助力したのはまったくの真実である」と認めている。

安江の葬儀には、イスラエル公使やユダヤ人協会会長も出席し、在満時代のユダヤ人保護への尽力に謝意を示した。

ユダヤ民族が大切にする聖典に、「ゴールデン・ブック」と「シルバー・ブック」という2冊の本がある。前者はユダヤ民族出身の世界的人物名を記載し、後者はユダヤ民族のために貢献した外国人に名を登録したものとされる。いずれも神聖な経典として扱われている。シルバー・ブックではなく、ゴールデン・ブックに名を記されている日本人が2人いる。ユダヤ民族が2人の日本人に感謝の意を表するために、特にその判断を下したと考えられる。樋口季一郎と安江仙弘の2人の陸軍軍人である。


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