エクリチュール ヌーメンとアン
■ヌーメンとアン
・ヌーメンによる人間の自由意志の阻害は、絶望へは至らせない
・そこには、アン(恩寵、超再生)が働くからだ。無論、おそらく、回心が伴わなくとも、アンの働きがある
・つまり、ヨブ記のヨブである。ヨブは自由意志を神に阻害されることで、かえって多大な利益を得た
・一般には、ヨブは不条理を神によって受けたとされるが、それは、ヌーメンとアンが対で働くことが知られていないことによるのではないだろうか
・そして、そこに、回心が伴う場合には、自由意志のベクトルが、善に向かうように調整される
・善に向かうことで得られる利益はないだろうが、それそのものが自由意志の目的であるので、人間が人間であることを喪失する危機を避けられる
・つまり、根源的な目的の不在に嘆くコレヘトの状態を避けられるということである
・なぜ、自由意志は善を目指さなければならないのか、と一般に言われるが、そうでなければ、すべては虚無化し自らそのものが虚しくなるからではないだろうか
・さて、しかしながら、アウシュビッツなどのショアーは、ヌーメンではなく人間の善に向かわない自由意志(欲望)によって、引き起こされてきたことは明白だろう
・この際の、人間の欲望による人間への阻害は、ヌーメン由来ではないが、神はそれを遡及的に、ヌーメン由来のものに見做し、その補填としてアン(超再生、恩寵)を与えるのである
・つまり、悪に疎くあれ、というのは正しい。悪に疎くあれば、人間の人間に対する阻害を含めた、すべての阻害を神から由来するヌーメンに置き換えて理解し認知することができる
・代償はすべてアン(超再生、恩寵)でより勝り補われる
・この場合、あらゆる暴力のうち遡及的には神に由来しないものが当然にあることを把握しているので、まず、神への信頼は失われない
・だが、それらをさらに遡及的に神からのものとして理解、認知することで、他者や人間への攻撃は停止する(ハムラビ法の停止) 。他を罰することから離脱できる
・この場合、復讐による自由意志の善からの逸脱や、ヌーメンの享受の喪失によるアン(超再生、恩寵)それそのものの喪失 を防ぐことができる。人間自他のアン(超再生、恩寵)の喪失(つまり、全損構造)を脱することができる
・極論を提示してみたい。おそらく、ある特定の人間が受けるすべての暴力、不運、受苦、受難は、他の人間の超自然的な力由来である。曲がりなりにも、エロースの屈曲したものこそ超自然的な人間の力である。つまり、人間の人間に対する、悪に属する意志や想いは呪いとして現に効果する
・さて、呪いとか祟りとか書いてしまったが、それは、おそらくは、人間の経験において、蓄積した他者とのコミュニケーションの履歴による現在という結果を指す。おそらく、リビドーやエロースの他者との往来(性交渉のことではない)の蓄積の発露性ではないだろうか、と断っておく(そのうえで)
・ヨブ記のヨブが病気になり不幸に至ったのは、神と悪魔ではなく、人間由来(彼を取り巻いた友人たちや共同体由来) である
・特段にヨブは誤った行為をしていないが、彼を取り巻いた友人や共同体は、彼の世俗離れした聖性に嫉妬した。そして、それがヨブに反映した
・悪魔や神々(唯一神を除く、超自然的なもの)の存在も、人間由来の呪いの力を隠蔽するための唯一神によるクッションでもある(神が悪魔を滅ぼさない理由は、悪魔のせいにしなければ、人間、他者による呪いの超自然的な力を隠蔽できないからである)
・神とヨブに密約があったとするのなら、ヨブは友人たちや共同体を恨み、復讐が試みられる前にその原因を、神に回収した、ということである
・そうなると、シモーヌ・ヴェイユはその聖性の高さによって、彼女を取り巻いた友人たちや共同体に祟り殺されたといえる
・シモーヌ・ヴェイユと神の間に密約があったとしたのなら、ヴェイユはすべての彼女への他者からの祟りと呪いを神による受難に替えることに頷いたということである
・さて、最後は神が、戦略的な偶像なのか、実在なのか、である
・共同体に殺される側の戦略として、神(という逸話)、が語られるわけなのか、または、そこまで非暴力的でなければ神の実在に出会えないのか、である