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エクリチュール 可能神聖論、エロースの終焉

・以下は論である(エクリチュール"アート"ということ)

・思弁的実在論(明日に突然、宇宙の法則自体が変わってもおかしくはない)を援用しながら、生成変化から神聖変化を成し遂げていく


・神聖とは、聖なるものに神が充填されたときに、神聖なるものになる(ジジェク)、とされるときの、神聖である

・少なくとも、聖なるものは、ハイデガーのいう根本気分としての不安と退屈(実存の芽生えの感情)をさらに深めたところの、無自分的な、自身感覚である(宗教的には無とかケノーシス、という自己無化におけるときの、死の気分、というものである)

・死の気分、とは、タナトスとは異なり、自我的自分の消失に伴う、涅槃的なもの、と認識してほしい

・それは、自分の死者、が、ロゴスの中からレンマに移行していく最中の、まさに、神聖言語(ミュトス)に由来しながら、あらゆる万象をパースペクティブにおいて、自身を照らしはじめることに意味をおく


・説明しよう。ロゴス(因果律)からレンマ(共時律)への移行こそ、人間においての課題なのである。数多、権力、というロゴス的な、あの、都合、によって精神病院に入れられている人々が垣間見ているものとは、レンマへの移行の風景なのである(フーコー、RDレイン)

・さて、狂気である。狂気とはほぼ即レンマとロゴスの切り分けが明確でないときに、その互いの言語性の死角同士から、落ち込む深淵である

・ただ、しかしながらも、その深淵の反面には、神聖(ミュトス)が待ち受ける

・つまり、人間とは、まだ、人というものに完成していない、狭間の存在なのである

・可能進化論

・進化可能である、と述べているのではなく、そもそも進化中である、と述べているわけである(ベルグソン的)

・思弁的実在論を援用すれば、科学は科学の限りなのである(では、どのように、ハイパーカオスに接しながら、可能を現生にするのか、ということが言いうる)


・エクリチュールを書くこととは、生成変化それそのことであるし、可能進化である

・なぜなら、われわれが生きているのは、創造の7日目ではなく、創造の8日目なのである

・創造の7日目か8日目に生きるのか、においては、しかしながら、条件は実在しているように思える


・言うまでもなく、レンマ的なものを、差別せずに、乗り切ったもの、に可能なことが創造の8日目の出来事なのである

・これが、マルティン・ブーバーが述べた、梵我一如に残存するために人間が引き受ける、受難、のことであるし、ヤスパースが述べた、包括者の暗号をたどることなのである

・ここは梵我一如であり、創造の8日目なのである

・因果律と共時律のいずれをも生成している原律が存在している(パウル・ティリッヒ的には神律であり、ヤスパースとしては包括者であり、神学では神の創造原理)


・確かに第二枢軸時代的である

・さて、可能と現実が、移行したり、可能が現実になる、ということについて、わしたの識る限りでは、そのことを説明する言葉としては、受肉とか即身(成仏)というのがある。

・このことは哲学では、ドゥルーズがカオスモスとか、マルクス・ガブリエルなどが発生して消失する意味の場とか、それこそメイヤスーが、芸術家マラルメなどを引用してFHSなどと説明したりしている

・だが、要点は、可能が現実になる、"方法"なのである

・ひとつ、神秘的な方法を想起する

・アウグスティヌスやトマス・アクィナスの三位一体論である


・あの三位一体論の説明を理解したものは存在しないだろう。なのに、科学や哲学などの理論のように、ひとつの神学的な理論として成立して、西暦中に、なぜか存在し続けているのである

・三位一体論自体が、ひとつのミュトスなのである。しかも、空想的ミュトスではなく、現実的ミュトス(可能が現実に移行したもの)なのである

・おそらく、三位一体論、つまり、カトリックの信仰のために、あらゆる人間は救われたし、あらゆる人間は殺されたし、あらゆる人間が影響を直接や間接を問わず受けている(少なくともスマートフォンは三位一体論がなければ成立しなかった。西洋文明ということ)

・ネガティブに三位一体論を捉えると、都合、である。それも宗教的都合であり、聖書に登場した神を一神にまとめ上げるという狂気を、信仰という方法で、理性に"置き換えた"

・さて、このときの"置き換えた"(Replace)こそ、まさに、可能を現実にする、方法、なのである。リプレイスということ

・これは、ルネ・ジラールの「世の初めからの隠されていたこと」にある、当初の横取り、リベカの陰謀と力学を同じにしながら、善、なのである

・権力との闘い、抵抗、プロテストは、置き換え、リプレイスという方法で現に可能になる

・権力と反権力は、このように、常に、置き換え、と、横取りの狭間で移行し合いながら、その中心には、賽子が、いつも振られることを想起されたい(吉本隆明的なエロースにはじまる対幻想の狭間に、万象は賽子を置いたのだ)

・その出目は、7面かと思われていたが、創造の8日目であり、再帰的に判明したのは、賽子は8面だったのである

・エロースの終焉を意味する

・何かが新生しているのである(すでに、何かが、可能から現生に移行している)

・われわれは、その可能から現生に移行したものを辿っている旅中なのである

・続出エジプト記なのである

・だが、特段に、出エジプト記(エクソダス)という聖書への引き込みを重視するわけではない

・言語上、なんらか共通語に翻訳しなければ、理解や把握が難しいというだけで、古事記でもよいし、神統記でも神曲でもバガヴァッド・ギーターでもいい(神という語の構文が大切なのであり、個別具体的な固有名詞性はどうでもよいのである)

・この意味では、エヒィエ・アシェル・エヒィエ、という旧約の神の名は、秀逸である(だからといって、旧約の神が神ということを意味しない)

・なんらかの原動態をわれわれは追う(アコルーティア)し、それはラディカントな、不定根を生やしている行為形態なのである

・ただし、事実そうに思えるのは、不定根を生やす人々が登場していること自体が、なんらか現行権力の根、の終焉性を意味している(枯れ、ということ)

・不定根から得られるある種の大地の力は、言うに及ばす、権力が横取りしていく構図があるが、そこへの抵抗こそ、リプレイス(置き換えなのである)

・横取り、に対して、置き換え、を行使すること

・時間発展としては、不定根を生やす存在があるということ自体が、権力のメタ的な不能化を意味しているということである

・不定根はそもそも、存在しないのが通常であり、不定根が存在することそれ自体が、権力の無意味化を原生成しているのである

・さて、では、このことはどのように、共同幻想としての権力に対して、不定根的実在が、有意であるのかを意味している

・個個別別の権力を問題にしているのではなく、権力それ自体、についての言及なのである

・ここで、権力対反権力ということが、無意味、に没する(それ自体、権力的であり、エロース的なのである。抽象的な対幻想であり、共同幻想の範疇)

・権力も反権力も、権力ー非権力系、という意味の場における、ひとつの均衡であり、収支はゼロである(だれもが権力と反権力を十分に含んでいる)

・境界というものが、ひとつの結論になる

・存在の様式として、境界(人間という輪郭線)をどうやら、存在的に、選択したのが、人間ということになる

・境界なき輪郭線こそ、人(人間の完成されたもの)のスガタなのである

・芸術では、バウハウスの教育のなかで、見えないものを見えるようにする、という仕方で、また、予感されていた

・こと、絵画を画く人々のなかでは、このことが体験的に知られていたりする(彫刻家ではジャコメッティの細っていく輪郭線など)

・現実を絵や彫刻に完全に再現するということは不可能である、という松岡正剛氏の指摘に該当する

・絵画とは表現のみではないし、知覚のみでもない。表現と知覚の狭間にあるナニカ(松岡正剛氏的には、面影、)を導き出すことを意味している行為形態である。この、ナニカ、については、後に説明する


・また、哲学では、たとえば、ドゥルーズは器官なき身体とか生成変化という言い方でこのことを予感した

・だが、涅槃とかは、この境界なき輪郭線ということ、を意味しているように思う(こと有余涅槃などは)

・さて、受肉した神の子は、マルティン・ブーバー的には、涅槃より優るものである、というのである

・この非対称性が、大変気になっていた

・涅槃(すべての境界を寂滅させる)ということは、それ自体究極ではなく、ナニカによって超えられるものなのである

・ナニカとは、あらゆるエロース的な、対幻想の間にある何者かである

・まず、状況証拠的に、涅槃ではなぜ、超えられなければならないのか、を空海から考察してみたい

・仏教の原点は涅槃であるが、さらなる超越は、少なくとも即身(成仏)である、というのが、空海的なことだろう

・仏教においても、空海だけは、仏教的ではないことは、南直哉禅師が指摘している

・わたしもそう思う

・即身成仏と有余涅槃は何が異なるのか、である

・思うに、涅槃に至ることは、すべての寂滅であり、残存するのは、寂滅する当人ではなく、他者からしたら、なぜ、その当人は寂滅するまでに、存在し続けたのか、という"経過(プロセス)"が、神秘として存在し続けることになる

・釈迦が、涅槃に至り寂滅したことが究極の解答であるのなら、そもそも釈迦は生まれなくてもよかっただろうし、それ以降に仏教徒など生まれる必要がなかったのである。業解消のための業道をなぜわざわざでいく必要があるのか、ということになる

・つまり、すべての寂滅としての涅槃を目指すのであれば、そもそも生まれる必要すらないということが言える

・この世、此方、に、なんらかのまだ、われわれの判明させていない、意味がある、というのが、涅槃を超える視座である(仏教を養護するのであれば、涅槃はこのエクリチュールの定義に即さないさらなる超越の可能性があるということである。だが、完全なる寂滅、の意味は容易には変成し得ないのではないか)

・つまり、涅槃に至る経路(プロセス)に、涅槃ではないものに至らせる何か超越があるのである

・そちらの超越に到達したものか、即身ということになる

・超越の先で、他者に出会うのか、否か、なのではないだろうか

・超越それ自体が出会い、でなければ、ならないのではないだろうか

・空海は如来に出会い続けたのだろうか

・さて、一方で、ナニカ、とは何なのだろうか

・表現と知覚の狭間にある面影であろうし、わたしの言葉で言えば、権力ー反権力系という意味の場を支えている実在としての賽子のことである

・宇宙の賽子

・ただし、これは、メイヤスーの解答の置き換えでもある

・単純にわたしは、生、でよいと思っているし、変わらざる本懐でもある(なぜなら、男と女のエロース的緊張の狭間から、子という生が誕生するからだろうか)

・だが、生と死は、ひとつの系を生ー死というように形成しているがゆえに、生をナニカに該当させるためには、どうやら異なるようである

・生をひとつの指標としながらも、生ー死系を支えるものは、超越、というように書いて、その超越に対して、別様の愛、を該当させてみたい

・愛は、ラブ、フィリア、ストルゲー、エロース、アガペー、カリタス、があると思うが、あたらしい、または、別様の、愛が存在すると仮説する

・つまり、愛、もまた、人間においては、完成していない、と考えるのである

・この別様の愛を、アプロースと造語する(理由はない)

・アプロースは、欲望と意志を分別しない。ひとつの美である

・美とは雰囲気であり、そもそも、壊れたり喪いようがないものなのである(イコン超えた)

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