なぜ今農業なのか。

「生きる実感」を求めて

コロナで世界的にデジタル化動きは加速され、AIも生活の中にどんどん入ってきてどこに行かなくても、動かなくても生活できるようになった令和の時代に何故、私は農業をはじめようとしているのか。

東京での暮らしはとっても便利で何でも手に入る一方、
どこか「生きている実感」に欠けていた。
いつも足りないないかを求めて、「もっともっと」
自分磨きをすればするほど、足りない気がしていた。
日本全体見渡しても、平和で豊かで安全で幸せなはずなのにどこか空虚感。「生」を実感できずに日本の幸福度は下がるばかり。

なぜだろうか。

「生」の反対には「死」があります、
今の日本は安全で治安もよく、「死」を意識することが少ない社会
それは貪るような「生」もまた
意識しにくい社会になっているのではないでしょうか
私同様に、多くの都市部の人々が今、
自分の「生」を持て余しているように思えます。

かつて、東南アジアのバックパッカーと言えば、日本人。
私もそのひとりだった。
今思うと、途上国のカオスな日常生活の中に潜んでいる「死」を感じることで「生きている実感」を求めていたのだと思う。

「死」を意識することは、
命に限りがあることを意識して「生きる」ことにほかならない。
日常生活のなかで、自然とともにあり、
自然という限りある「生」に感謝しながら共に生きているのが
農家や漁師ではないだろうか。
そこに、「生きる実感」のない人の、
「生」と向き合うヒントがたくさんあるのではないだろうか。
そう思ったとき、

「自然とともに生き、自然から学びたい」

という思いが湧いてきた。
最初は家庭菜園?地方に移住?との思いもよぎったが
それではこのモヤモヤは消えない気がした。
何故なら、「生」を実感した人は

「生きている意味」

を探そうとする。
私は人には潜在的に
・もっと成長したい
・誰かに貢献したい

という「魂の叫び」のようなもがあり、
全く成長しておらず、
誰の役にも立っていないと、
やっぱり、生きている意味を感じられなくなってくると思う。

変化し成長し続けることができる自分でありたい。

かつては未完成で不十分が自分が怖かった
でも今は、未完成だから成長できるし変化できる可能性があると思ってる。都会の素人が今から、2拠点で農業なんて、どう考えても効率的じゃない。
挑戦でしかない。
だからこそ、失敗しても成功しても
変化を成長を恐れない自分でいられる気がした。

命を大事に「生きる」を楽しみ自然から学びたいという軸を大切に、
変化し成長し続けることができる自分でありたい。
また、そんな価値観を共有する仲間が集まれるような
「参加型」農園をつくりたい。

これからを生きるこどもたちに

ブルーベリー農園へのチャレンジは

自然から「生きる」実感を学び
挑戦できること
変化を恐れないこと
まずは自分の心が喜ぶことをやってみる

を体現することで、
大人が「生きる」を楽しむ姿を
これからを生きる子供たちに見せることができると思っています。

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