あなたは誰かを「賢い人だ」と言うことができますか?
久しぶりの投稿です。
今回は、秋田道夫さんの書かれた『自分に語りかける時も敬語で』のなかにある一節から私自身の感想と考えを述べさせていただこうと思います。
この本の33ページ目には、こう書かれています。
人を「賢い人」と言える人は賢い人だと思っています。
この一文を読んだ時、誰もが振り返ると思うんです。
自分ははたして賢い人間なのか? と。
私個人が、この一文を目の当たりにしてまず思ったことは、「賢い」ってどういうことを言うのだろう? ということでした。
そもそも私は普段、誰かを見て、たとえば学歴や才能、スキルや能力、経歴などから「すごいな」「頭がいいんだな」「努力してきたんだな」と思うことはあっても、「賢い」と思ったことがない。
それは自分にとってとても衝撃的でした。
別にだからといって自分が他人と比べて優れているだとか、優秀だとか、そう思っているわけではないのです。
ただ、私の頭の辞書の中には「賢い」という単語がどうやらなかったようで、それは普段使いの慣れ親しんだテーブルウェアのようにすぐ手にとって取り出せる場所にはない、どこか奥の方に追いやられていたものだったんですね。
この本に出会ったおかげでやっとよいしょっと手前に出てきてくれた。
そんな感じです。
だから、人を「賢い」と言えない自分は、まさに賢くないといえば本当にその通りだという実感はありますし、たしかに私は賢くないんですよ(笑)
それだけは自信を持って言えます。
私は賢くないです。
自分の賢くない面はこれまでの人生で嫌という程見てきましたし、選択を間違い失敗も人の何倍も多かったです。
でも、悲観しているわけじゃないんです。
過去を振り返ってみたところで、あまり意味があるとも思いませんし。
なら、いまからでもいいから「賢い人」になりたいぞ。
と思いました。
そのためのヒントが、ある人を見てその人を「賢い人」と言えること。
さて、話は戻りますが、では「賢い」とはどういうことなのか、という疑問にここから先は向き合わねばなりません。
まずは分かりやすく「賢い」の意味を知るために、辞書で引いてみました。
すると、
頭の働きがよく知恵がすぐれている。 賢明だ。 要領がよい。
だそうです。
なるほど、たしかに分かりやすい説明ですね。納得です。
これをちょっと自分なりに解釈すると、「自分のことをよく知っている人」のことを指すのではないかなと思いました。
だから、「あの人は賢い人だ」というのは「あの人は自分のことをよく分かっている人だ」と同義ではないかと。
そうすると、自分自身のことを振り返った時に、「私は自分のことをまだよく分かっていない。知らない」と言うこともできるわけです。
これが私が賢くない理由、の仮説ではないか。
シンプルにまとめていくとこういうことなのかなと思いました。
それは言い換えれば自分と向き合ってきた時間の総量。
大切な、誰よりも大切な自分自身とどれだけ向き合って、自分を知ろうとしてきたか。
「賢い」の意味がほんのりと匂ってきた気がします。
でも、そんな私だって、別の誰かから見たら「賢い人だ」と思われている可能性もあります。
幸いにして私のことをそう見てくれている人はきっと賢い人なのでしょう。
明るさも賢さの一つだと思いますし、機嫌がいいことも賢さの一つだと思います。
※「機嫌がいい」は著者の別著『機嫌のデザイン』から。
ひとえに「賢い」といっても様々なバリエーションがありますよね。
そこに制限を設けることをきっと著者は望んでいないと思うのです。
ただ、相手への敬意やリスペクト。自己との比較ではなく相手が積み重ねてきた努力の景色をともに見つめること。運だって賢さの一つですよ。
そんなところも、「賢い」のなかには入るのかなという気がします。
こうして書き記していくことで、人を見て「賢い人」と言える自分に近づいてきたのが分かります。
みなさんはどうですか?
きっとあなたの周りにも「賢い人」はたくさんいます。
野というのはそういうものです。
あなたが動き続ける限り、たくさんの「賢い人」に出会えるはずです。
その人たちを見て、知って、「賢い人」と言える頃にはきっと自分自身も今よりも賢くなっているはずです。
なぜならあなたはもうその頃には、自分自身のことをよく知っていて分かっているからです。
読んでいただき、ありがとうございました。
それではまた。
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