桜のこと

桜が好きだ。春の思い出はだいたい桜。あと花粉症。夏にも秋にも冬にもいろいろな思い出が混在する気がするけれど、春だけは、どうしても、桜の存在が大きすぎる。
とにもかくにもわたしは、過ぎていった春を思い出した時に その春を越えてよかった と思いたくて、毎年、桜を見に行っている。

いままででいちばん綺麗だった、去年の春のことを書こうと思う。写真だってきちんとこのスマホに残っているのに、わざわざ言葉で表す必要なんてない気もするけれど、何かを言葉にしようともがくときの苦しさが、心地よくて好きだ。

去年の春は、理由はよく覚えていないけれどあまり元気がなくて、それでも頑張って日々を過ごしていた気がする。バイトとかサークルとかフリースクールとか。その日は最賃ぎりぎりの時給で閉店までバイトしたあと、桜を見に行こうと決めていた。きっと、綺麗な桜を記憶に焼き付けて、その春を「素敵だった」ことにしたかっただけだった。
こういうふうに書くとなかば自棄になっていたみたいだけど、当時のわたしにはそういう自覚はなく、つまらない日常を少しでもいいものにしたいという、人生そのものと、いるかもわからない神様に対するささやかな抵抗のつもりだった。

バイト終わりの疲れた足でたどり着いた公園は、もう屋台もとっくに店じまいを終えたはずなのに、なんかやたらと人の声がした。酔っ払いかなあと思って、うらやましかった。お酒を飲んでもそこまで気持ちよくなれないんだよな。人と飲むのは好きだから飲むけどさ、あんなふうにべろべろになったら気持ちよくて楽しいんだろうな、でも記憶が飛ぶのは困るし吐くのもしんどそうだから、そこまで酔えないままでいいかな……とか、思ったかもしれない。あんまり覚えてない。だけど、酔客がうるさくても、桜はちゃんと綺麗に見えて、安心したことだけ覚えている。その日は退勤が遅れたので桜を見たのはたぶん日付が変わる頃で、そんなに遅い時間に桜を見るのは生まれて初めてだったから、そのことだけで心臓がどくどく鳴っていた。
暇だからと一緒に公園まで歩いてきたバイト先の人と、無言でたくさん桜の写真を撮った。少しくらい喋った気がするけれど、内容はよく覚えてない。夜桜を綺麗に撮るのって難しいんだな、と思ったことをよく覚えている。ああ、だから、「これうまく撮れました!天才かもしれない」とか、喋ったかもしれない。たぶんそうだ。

桜のことしか覚えてないな。

でも、その時の桜がすごく綺麗だったんです。初めて見た夜桜だからかもしれないし、疲れてハイになってたのかもしれないし、西公園の桜がそれほど格別なのかもしれないし、そんなに仲良くないバイト先の人と桜を見た非日常感のせいかもしれなかった。遠くに聞こえる酔っぱらいの声と対比した間近の静けさの中で、ドラマチックフィルターもかかっていたかもしれない。
その時はなにも考えなかったし、いまとなってはもうわからない。桜が、ほんとうに綺麗だったことだけ、よく覚えている。

でも、綺麗だった、だけでいい気がする。桜が綺麗だったら、その春のお別れとか、しんどかったこととか、ぜんぶ報われるような気がしている。
今年の桜も、綺麗に見られたらいいなあ、と思う。

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