雑記:世紀末じゃない、日常を生きる

先週、末澤くんと中丸くんの対談を見て感想noteを書いてみたのだけど。

なんだかなあ。
感銘を受けたのは間違いないにも関わらず、自分の記事に心残りがあったことを否定できない。


なんでだろう、と考えてふと気づいた。

末澤くん自身のリアルが
既にもうここにはない

ことを踏まえてなかったからではないかな。
そして今私が欲している真実も、ここにはない。



明確な悩みも壁もないのに、モヤモヤが止まらない。そんなここ1ヶ月の私の泣き言に、ある先輩は言った。
尖りが足りてないんじゃない?笑

私は超絶不器用な人間で、誰/何に対しても正対する姿勢しか取れず、理想はいつも自分の中。美しい・尊いと思うものを薪のようにくべて小爆発を繰り返し、一直線に進んでいくことしかできない。
特に20代は何かにつけて無謀なファイティングポーズばかり取っていたので、昔をよく知る人には「尖ってたよねえ」と笑われる。尖ると言えば聞こえがいいが実力もアウトプットもない人間による自己満足な振る舞いなので、笑ってもらえるだけまし、の恥ずかしい過去としか言えない。


そんな私でも最近は任される仕事の質が変わったなという感覚があって。実務は後輩に託し、より大きな組織の中で動くことを求められている。
尖っていた時はそれはそれでしんどかったが、ある意味楽だったんだなあ。モヤモヤの原因は2つ、役割が増えることで「正対の姿勢」がどんどん中途半端になること、言いたいことをぐっとこらえることで不安定な爆発力が失われそうなこと、だと捉えている。
自分の拠り所ってなんだっけ?


先日の末澤くん動画も新たな原動力にしたいと思ったのに、うまく着火もできなければ、そもそもどこに飛んでいっていいかもわからない。さらに「いつまでも自分にばかり囚われて…」というそもそも論が覆い被さる。


忙しさの割に、手応えなく日々が進む。



そんな私に、また別の先輩は言った。
尖って前に進むと言うこと自体が、そもそも恵まれた環境でしか成立し得ないってことじゃないのかねぇ


確かに…!
末澤くんもまた、私が見る限り不器用な人。
完全に過去の、精算できる思いだったからこそ、あんな風に話してみせることができたんじゃないか。そして彼自身も"世紀末みたいな"自分の過去を「周りに恵まれていた」という言葉で総括していた。

夢がひとつ叶うことは、雑音の多い現実に自分の大事な大事な美意識を置くことを意味する。これからは、自らの内面を見つけてくれる誰かを期待しながら荒れているだけじゃダメなのだ。一方向に尖って攻めるだけではない、あらゆる方向に対する守りの姿勢も必要で。

彼の現在を示すキーワードとして出てきた「話し合い」がひとつそれに当たるだろう。メンバーと、スタッフさんと、数えきれない話し合いをしながら、彼は自分の内側の美意識と、雑多な現実に爆誕してしまったその一部を守り抜いているのかな。どうかな。
そう仮定して、私は圧倒的に宙ぶらりんな自分自身の無力さに末澤くんの姿を落とし込んでみようとする。


守りにリソースを割きながら、同時に自分(たち)にしか描けない、新しい夢も次々と設定して叶えていかなかればならない。デビュー決定後そんなことを伝えていたのは、たしか村上くんだったか。そうやって進んでいかないと、「変わらないでいる」ことは難しい。その大切さを口にしていたのはWEST.濱田くんだったね。

「この背中の痛みは翼が生えてくる兆し」、というBTSの素敵な曲の歌詞があるので、この無力感にそんな名前をつけて今は頑張ろうと思います。
悩もうが悩まなかろうが、目の前の事に対し真摯に立ち向かうだけなんだけどね、どのみち。

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