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彼らもまたわたしの骨になった

分子レベルで見ると死者の体は土や塵となり、生きる者の体へ戻るという。生きる者は大勢の死者でできているのかも知れない。では、骨となり、わたしを歩かせてきたのは誰だろう。
「俺の骨をあげる」冒頭モノローグ

辛島タエという女の子と、彼女を支え「骨」となった男たちの物語。

主役というスポットライトを浴びようともがくタエをいつも立ち上がらせてくれたのは、彼らの存在だった。

たくさんの死者によって支えられながら歩いている彼女は、彼女1人の力でここまで生き抜いてきたわけではないのかもしれない。

わたしがこの舞台に関わらせてもらって学んだことそのものを描いたような物語だった。

死者によって支えられながら生きているかもしれない。

だけどそれは

生きるもの同士でも変わらないのだということ。

この世にもしわたし1人だけだとしたら。

わたしはわたしを見ることができない。
鏡や水面に映った左右がさかさまのわたしの姿が見れるだけで、わたしはわたしを測る術がない。

例えば誰かに大切なものを馬鹿にされて、ムカつくことがあるかもしれない。
そいつにムカつくから、わたしは自分がそれを大切に思っていることに気づくことができる。

例えば大切な人を傷つけられて、悲しくなってはじめて、わたしはその傷つけられていた人が大切だったんだと気づくことができる。

誰もが他者との関係性の中で生きている。
大好きな人も大嫌いな人も尊敬する人も、反面教師にする人ですら、わたしの人生の歩き方を決める一要因なのだ。

わたしの人生の登場人物みな、わたしの骨になっているってことだ。

「俺の骨をあげる」の舞台公演に関わって、わたしはまた新たな学びを得た。

台詞ひとつひとつに想いを込めて試行錯誤を重ね、動作ひとつひとつに伝えたいメッセージを込めて作品を作り上げていく姿。

わたしは最近こんなにも熱中して何かに取り組んだかな。 
世間体ばかり気にして、他人の目を気にして。
別にやりたくもないことに大切な時間を使って、わたしの人生これで本当にいいの?

そんな問いを与えられた気がした。

いつどこで死ぬかなんか、誰にもわからへんよ。
「俺の骨をあげる」ちよちゃんのセリフ


ギャグ担当のような存在のちよちゃんの、なんでもないセリフにはっとした。

人間の死亡率は100%、
だけど、いつどこでどんなふうに死ぬかは誰にもわからないし、選べない。

わたしは今日、後悔のない生き方を選べているだろうか。

誰かに何かを伝えられているのだろうか。
伝えるとしたら、どんなメッセージがいいだろうか。

自分の好きなことで、誰かが喜んでくれるってとんでもなく嬉しいこと。全力で好きなことをやっているからこそ共鳴してくれるのだ。

一度しかない人生、どうせなら好きなことで生きたいし、好きなことで生きるわたしを見て、誰かにポジティブな学びを伝えられる人でありたい。

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