見出し画像

「生きてるだけで丸儲け」か

挨拶

明けましておめでとうございます。旧年中はお世話になりました。
今年もよろしくお願いします(2月9日)

2年連続で年末にやっていたnoteの投稿をしたいしたいと思っていたのに昨年末できなかった。1年間振り返って考えてる時間が多かったことをダラダラ書いてお世話になった人に感謝する内容で二年やっていたので新年になった途端に書くモチベーションは下がったが一応やっておきたいと思ったのでやる。
大学卒業近いというタイミングでもあるのでそれなりに長く、かつ自分の内面をそれなりに掘る内容にしようと思う。

これまでの投稿もそうであったけど読んでもらおうと思う気持ちが強くて書いているわけではなくて心情を垂れ流して発散する機会が欲しくてやっている。その意味では投稿して発信する必要は必ずしもないがカケラの興味と余った時間がある知人が見て会った時の話題になることが万が一あったりでもしたらおもしろいかなと思って投稿している。
自分ならこんな長々とした他人のnoteなんか読まない。

したがって「長くて読む気がしない」も「文章が読みづらい」も「構成が雑」も指摘としては受け入れてもいいが批判としては受け付けていない。
こう言っておけば指摘される心配がなくて楽。

ちなみに書く時間が取れなかったのは
・卒論
・院試準備
・PC壊れる
が重なったからという一応の言い訳はある。

題名

題名は去年の大河ドラマ「鎌倉殿の十三人」を実家で見ていた時に考えたことを明石家さんまさんの名言として知られる言葉を使ってコンパクトにまとめたものだ。

第32回「災いの種」だった。
このドラマは全部見ていたわけではなく部分部分で見たので文脈が完全に理解できているわけではないことは悪しからず。

あらすじとしてはこんな感じ↓
高岸演じる仁田殿、まさかの最期にSNS悲しみの声【鎌倉殿】 | Lmaga.jp

簡単に言うと高岸さんが演じている仁田忠常が源頼家の命令(北条家の追討)と忠義のある北条家の義時(主人公)との間で葛藤して自害する話である。

この話を受けて高岸さんがツイートしており、その投稿が流れてきた↓


この話に対する感想はこれか?と思った。
そう、確かに「そうじゃないとダメ」なんてことはそう多くはない。
だがしかし、である

前述したようにこれまでの話をずっと見ていたわけではないので話に対する理解度は高くない。別に高岸さんが悪いと思うわけではないしこういう前向きな人格で人気を博している芸人であることも承知している。また、記事や後日談でも高岸さんが話しているように、現代的な価値観からこの話を解釈し、現代を生きる視聴者に向けたメッセージとして換言した結果であることはわかる。

それでも命令と忠義で葛藤した武士の最後としての自害に対する評価としては違和感があった。
「家」や「名声」「誇り」の価値が今より大きかった当時の状況においてそれらを守るために「命」の優先度が下がることがあっただろう。そうした背景のもとで彼(仁田忠常)が葛藤し、家の存続や家族への影響、自身の評判と武士としての生き様等々を思い悩んだ上で下した「自害」という決断は少なくとも「自分の悩みを他人に相談できずに抱え込んで自滅した」という現代人的な解釈が当てはまる場面ではないだろと思った。
彼にとっては「命」より大切なものを守るために決断したのだろうしそれは「命さえあればその後どうにでもなるのに」と一蹴される筋合いはない。

本題

こういうのってあるよねというのが今回の話。

なんだか最近は多い感覚がある。
「そうじゃないとダメなんてない」「そうじゃなくてもいい」「AじゃなくてBもCもある」「形のない何かに縛られるのではなくてもっと自由に、柔軟に」
等々。

「家族の形」しかり「恋愛の形」しかり「〜らしさ」しかり「生き方」しかり。

社会学的には「脱構築」とか「ポスト構造主義」とかそんな話が当たるのだろうけどまあそこには触れない。知識を順序立てて抜け漏れなく完璧に説明するのは骨が折れるし面倒だしできる自信もないしできないことを指摘されたくもない。あくまでダラダラ書きたい。

「そうじゃないとダメなんてない」がそれなりに発言力を持っているように思われることに対して思うこと。ざっくり言うと今回の投稿のテーマはそんな感じ。

自分の話

この「そうじゃなくてもいい」思考が得意な自負がある。

自分のこだわりを押し通していた時期もあったが、こだわりを押し通すには実力が必要と思うようになってからは自分の主張への固執は無くなっていった。

自分の実力の無さの認識からかもしれないし他人と言い争うことが嫌だったこともあるだろうし他人に嫌われたくなかったこともあるだろうし他人への関心が薄いことも理由の一つなのかもしれない。

何はともあれ結果として「自分はAと思うけどBと言っている人もいるしAじゃなくてもいい」のような形で納得することが増えた。

別に言い争うほどのことでもないし(実際その価値観になると「言い争うほどのこと」なんかほぼない)意見の違いを表明するのは手間がかかる。どうせ相手の意見は相手なりに筋が通っているんだろうし別にそれでも構わない。
こんな考え方をしていると極端かもしれないが発言は「リスク」以外の何でもないし自分の中で納得さえできて仕舞えば発言する「必要」もない。

口数が減るのはある意味で必然だったし、会話の数だけ「じゃなくてもいい」思考は磨かれた。

「じゃなくてもいい」の利点

この思考はそれなりに便利だ。

自分の経験に基づく考えに固執しないことで思考に幅ができ、新たな視点を取り入れるだけの余地が生まれる。結果として自分の引き出しを増やすことができ、より一層対応できる範囲が増えることにもつながる。

何より「Aじゃなくてもいい」は概ね正しい。
というより「間違わない」という方が近いか。

一人一人の生まれや育ち、経験が違っていることからも示されるように、生き方、考え方は多様である。無限と言っても過言ではない。そうした中で「Aじゃない」選択肢を想定できることは、社会に対する解像度が高い、「正しい」見方であるようにも思われる。
自分の考えに固執しないというだけで他人は「理解がある」とか「聞き分けがある」人として評価する。別に相手の意見がBでもCでもZでも反応の変化はほぼないと言うのに。

要するにいろいろなあり方がある中では個別具体的な何かを主張するよりいろいろあるよねということを認識している方が「無難」であるということである。

本当にこれでいいのか

これはbestだと言い切れるか
絶対的な価値がない中で「絶対的な価値はないよね」と言うのが正解だろうか

社会的にはそうかもしれない。
道徳の授業のように「多様性の社会であることを意識しよう」とか「相手の嫌がることはしない」とか「自分とは違う人にも理解がある社会」とかの規範が社会に共有されていることは大切だ。こうした価値が浅く広く共有されていることの意味は大きい。
だが個人の振る舞いとしては?生産的な答えを求める議論の場では?実践に即した考え方としては?
いいとこ60点の回答のように思う。それなりに思考の訓練をした人ならこの程度の躱しは誰にだってできる。

おもしろくはない。
少なくとも人と人のコミュニケーションを考えるなら、こんなマイナスが少ないだけの振る舞いに意味があると思わない。自分は上記のようにマイナスが少ない無難な「じゃなくてもいい」思考が染みついた結果、確定的でないことを不用意に話すことに対する抵抗が大きくなった。それは同時に発言の総量の減少にも繋がり、意見表出の機会が減ることによって自分の中にも自分の意見がなくなり、見つけられなくなる。ゼロからのインプットだけを意識するようにもなった。
一度、「自分の考えじゃなくてもいい」が「何でもいい」に変わってしまうと、あらゆる全ての選択肢から選択をする必要に駆られるようになる。高すぎる自由度は選択者の足を止め、選択肢の海に溺れさせることになるのである。

だからこそ思う。
どうせ絶対的な価値などないのなら自分の価値を信じられる生き方が美しいのではないか?自分の経験から導き出した自分の考えが絶対的なものだと信じて表に出せる生き方の方が味がある生き方と言えるのでは?愛おしいのでは?

何を選ぶのかを考える作業は同時に何を選ばないのかを選ぶ作業である。
他の選択肢があることを念頭に入れながらも捨てて自分の考えを、価値を押し通せる方がよほど人間味のある生き方と言えないだろうか。
自分の価値を定め、相手に譲れない絶対防衛ラインを引いた振る舞いをしていればそれを見た他人も「その人の価値」を受け取ることができる。
無難なあり方よりも余程美しく、生産的でもある。

事例1 相談事

地元の同級生複数人で食事をしていた。
始まってから時間が経ち、すでに2軒目に入っていた。

その中の1人が相談の形で話を始めた。
簡単に言うと家族についてであり、親同士の関係、自分と親との関係について悩んでいるという旨であった。その問題の中心にいる父親に好感が持てず、感謝もしていないと言っていた。今後の関係性についても検討しているとのことだった。

自分は恵まれていることに家族関係で悩んだことはこれまでほとんどない。
実感は持ちにくい内容ではあった。

一方で、家族内の関係性はさまざまであり、必ずしも全ての家族が一家団欒のような形でないことは「知って」いた。知識として、である。
関係がうまくいっていない家族があることもそれがレアケースではないことも「知って」いた。

自分は話を聞いて率直に「そういうこともあるよね」と思った。なんとも偉そうな話だがこのケースは言ってしまえば「想定の範囲内」だった。
返しの言葉もその想定にあったことを言った。「まずは話しやすい家族からとでも話し合って一歩ずつ」と。

だが、その場にいたもう1人の態度は違った。相談者の話をしっかりと聞いた上でも「親には感謝すべき」の主張はついに最後まで曲げなかった。父親も本当は関係改善を望んでいるはずだから子供から歩み寄っていくべきことを訴え続けていた。

自分の返しは後から振り返っても「間違ってはいない」と思う。実際相談者は自分の方が共感的になってくれていると感じているように見えた。
それでも主張を通した彼の態度は格好良く、美しく、強さを感じた。自分の返しは共感的であっても状況が変わることはない。彼の態度は一見自己中心的であっても相手の態度を変えられるだけの熱意があったしその可能性があった。

相談を受けた者のあるべき態度がどうあるべきかは自分の中でも結論が出ていないし相談する人に依存する側面もある。だが、相談者が何を求めて友人に相談するのかを考えた時、少なくとも状況も心境にも影響しない60点の「正論」よりも「こいつは何もわかってない」として0点になる可能性も心に響いて100点になる可能性も秘めた「その人の主張」を聞く方がよっぽど有意義であるように感じた。
これは想像だが60点の「正論」で共感する人間よりゼロヒャクの「意見」を通してくれる人間の方が相手のことを思っているだろう。何倍も「優しい」と思う。

事例2 ドラフト

高校の野球部で同期だった人が2人も昨年のドラフト会議時にプロ志望届を出した。
結果的に指名はなかったが、2人の生き方は本当に格好良く、心から尊敬した。

野球人にとって誰しもが夢見るプロ野球への道と入り口となるドラフト会議での指名。指名されるために事前に提出するのがプロ志望届である。

野球をやっていない人なら知らない人も多いかもしれないが、プロ志望届を提出するのに資格はいらず、誰でも提出することができる。
今回提出した2人はプロ球団からの調査書(指名するかもみたいな書類)が来ていたようであるが、これがなくてもプロ志望届は提出できる。

これはすなわち、「ある程度プロを見据えて提出する選手」だけでなく「一縷の望みにかけながら、提出後の自分のプレーに対する覚悟の表れ」として提出する選手が存在することを意味する。
実際にこの2人が指名にどれだけ近かったのかは今では知る由もなく、その方法もないのだが、自分は志望届提出の報を見た時は後者の意思を感じた。

片や東大方や京大の彼らにとっては卒業後の進路もある程度確定していたし、提出せずに大学野球を終える選択肢は十分にあったと思う。自分の感覚で言うのも烏滸がましいが、志望届は誰でも提出できるからこそ、指名の確信なく提出するには気恥ずかしさがある。提出によって周囲の注目度も上がるからである。

それでも大学のリーグ戦が始まる前の段階で自分を奮い立たせたようにも見えるプロ志望届の提出には鳥肌が立つほどの格好良さがあった。彼らは「じゃなくてもいい」無難な選択肢ではなく、その時の自分の価値と覚悟を押し通せるほど「その時を生きている」のだろうと思えた。

自分が野球をやめてからも大学で野球を続けているだけでも尊敬しているし、自分と野球との縁や高校野球部の同期の縁を繋いでもくれた2人には感謝しても仕切れない。それに加えてあのプロ志望届の提出は人間的にもいいものを見せてもらったと思っている。
大学4年間おつかれさまでした。4年間ありがとう。


まとめ

やや本筋が見えにくくなる事例になってしまった感がはあるが、自分としては繋がっている。選択肢が多様に存在して無難な選択をいくらでもとれる一方で、網羅的に把握するには多様すぎる現代において自分の価値を押し出せる人、という点である。

他にもマクドナルドで、クレームらしくなることを懸念しながらも注文と違う商品が来たことを「自分が注文したものが食べたくてきた」という理由で言いに行った女の子を見たが、あの光景も今回言いたいことに合致するいい光景だった。
「自分が食べたい」こそがその子にとっての本筋であり、意思表示であり、譲れない価値だったのだ。「クレームだと思われたくない」とか「間違われたやつでも好きだしいいや」に止まらずそこで訴えられる生き方には美しさを見た。


対等な立場で他人を「叱る」ことができる人を尊敬している。これまでと同じ理由で。人には人の育ちがあるしそれに伴う習慣も文化があるけれども、それでも私の価値はこれだしあなたにもその価値を持ってほしいと思えることのなんと格好良いことだろうか。人情味溢れているし、言われた側も相手の価値を知ることができる。「言ってくれる」ことに思いやりを感じることもあるだろう。
事例1とも被っている部分があるが、これは本当にそうだと思う。

ちょっとした例え

道のタイル

画像のような道を想像してもらいたい。
こんな模様でなくてもいろんな色が組み合わさっている道を想像してもらえればいいしなんなら公道の白線でもいいのだが。

ある時、友達とこんな感じの道を歩いていた時、その人が「赤だけしか踏んじゃダメね」みたいなことを言った。昔は登下校時などにやっていたことを思い出す発言であり、それを被せてボケた発言でもあっただろう。
「なんでそんなことをしないといけないのか」「面倒だしバカじゃないのか」と率直に思った。「普通に歩けばいいじゃないか」と。

でも次の瞬間に「これだ」と思った。これこそが「じゃなくてもいい」思考のいい例えだ。
昔この遊びをしていた時は自分で決めたルールに従って遊ぶことが楽しかったのだろうし、そんな小さなことに面白さを見出してもいた。
だが今は違う。
そんな遊びをしても何も意味がないことを知っているし、赤以外の場所を踏んでも負けることも死ぬこともないと知っている。赤以外の場所も踏んで歩いた方が賢いと知っている。

これが大人になるということだというと大袈裟かもしれない。でも年齢を重ねても自分の価値を通せる人は他の場所を踏めることが頭に入っていながらも赤のタイルを踏み続けると決めて歩いている人ではないだろうかと思った。どこでも踏み出せるからこそ自分の道が明確になるように、自分の踏む場所を絞り、自分の指針としている人ではないかと。

たわいない話ではあるが、その友達の提案を頭の中で一蹴した自分を恥じた経験ではあった。自分が踏むタイルを決めないことで楽に歩き、自分が踏むタイルを決められなかったから指針をなくして今になって苦労しているのだと直感的に思った。

まとめのまとめ

まあだからと言って一概にどうという話ではないし一貫しているように見える人も自分とは違う苦労をしていることは最近わかるようになった。
価値を押し出せる人を「自分は」格好良いと思う、言ってしまえば長々と書いたのもそれだけのことだ。

こんなことを言っていたってそう簡単に生き方は変えられないわけで。

あらゆることに「多様性の「時代」」なんて言葉で納得しようとするコメンテーターも意味を考えたこともないだろうに「SDGs」を声高に多用する企業の広告も大層な人間でもない癖に他人に自分の知識を差し出してあげるような仕事をしようとする高学歴も勝手に言わせておけばいい。

彼らには彼らの「合理性」がある。


どうせ自分だってそんな人らを頭と机上で一蹴しながらも特別自分の行動に移すことはせず環境要因に対して自分を納得させて受け入れさせるだけの「何も事を起こさない」人間の1人でしかないのだから。


P.S.

会議とかだとある程度「じゃなくてもいい」思考持ってる人とやる方が圧倒的にやりやすい



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?