批評再生塾観光記−大澤聡回−『三』と『批評家』という観光地

 大澤聡さんが批評再生塾の講師として登壇するのはこれで三度目。そしてゲンロンカフェでの登壇にも何度も登場しています。会場にいる受講生と聴講生、あとは有料会員しか見られない講義というのもあってかなりリラックスした雰囲気。なので話す内容はかなりざっくばらんでかなり挑発的。それにかなり刺激的。今回のテーマである「三」を人称やテーマなどを絡めて自分の思うことをあまり制限せずに語っているようでした。
「そうかぁ「三」って重要な事なんだなぁ」
 あまり考えたこともない「三」のこと。ちょっと気になってきました。「三」は色んな言葉で使われていますね。今回のテーマである「三」度目の正直や「三」人寄れば文殊の知恵、その他にも色々あります。それに「三」は安定でもありますね。「三」角形の安定は多くの人が知るところでしょう。国だって「三」勢力が鼎立して均衡を保っていた「三」国時代というものもあるじゃない。対立が発生した時は第「三」者の意見を入れることで、その対立の解消を図ることも行われています。
 次に物語に目を向けると「三」というものが巧みに使われていることに気が付きました。とてもわかりやすい例で言えば「三」角関係。それは恋愛作品だけに限りません。「三」国志演技の劉備、関羽、張飛の「三」人の関係性も含まれます。「三」が「二」と「一」になったり、「二」と「一」が「三」になっていくことで生まれてくるダイナミズムは今さら言うまでもないですね。。「三」にこだわるということはなかなか大切な事なのかもしれない。

 そして大澤聡さんはいつも口を酸っぱくして言っていることがあります。
「型をインストールせよ」
彼は今まで積み重ねてきた批評を次代に繋いでいくためのアップデートが必要であるということを訴えてます。その訴えを説明するために、以前、中村勘「三」郎 の「かたなし」と「かたやぶり」の話をしたことがありました。これは「型」の重要性を説いたもので、何かをなそうと大きなことをやろうとしても「型」がなければ脆くも崩れ去って「かたなし」となってしまう。だけど「型」があればその「型」を踏み台としてその「型」を越えるような「かたやぶり」なことができる。というお話です。wikiで調べるとこの話は立川談志が言い始めた説もあるのですが、中村勘「三」郎も立川談志も伝統芸能に携わっていた御仁。そして「かたやぶり」なことをしてきた御仁。「かたなし」と「かたやぶり」の話は「型」を「基礎」とか「技術」とか何を意味するのかでいくらでも転用は可能なのですが、「伝統」について語った言葉と捉えるのが一番しっくりします。この逸話を語った大澤聡さんは今までの批評を研究し、多くの研究成果を発表している御仁。なので大澤さんも「伝統」の話をしているのだと思います。つまり批評とは「伝統」なのです。アップデートとは「継ぐ」ことなのです。そして「継ぐ」ためには「型」がインストールされている必要があるわけなのです。第二期の批評再生塾での大澤さんの課題はまさにその「型」のインストールが主題で、先行する批評家の文体を真似て論を展開するというものでした。文体を真似ていくということは、画家が模写で先達の画家のテクニックを学んでいくことに近いんじゃないか。論理の展開のテクニックを学ぶにはいいのかもしれません。

 あと、今回の講義では、大澤さんは受講生と聴講生に影響を受けた「三」人を質問しました。紙に書かれた回答を集計し、そこに上がっている人々を確認した上で、彼は張ったりの重要性を語りました。そして張ったりをかますためには「分かっている」ではなく「知っている」程度でもいいので、知識を蓄えておくこと。その知識があるからこそ「批評家」然としてくるというのです。
あれ、批評家になるためには「形」から入れということなのかな。ふとそんなことを思ってしまいました。すると、まずは「知る」ことで「形」を作っていき、それを「分かる」ことで「型」に変えていき、その上でその「型」を越えていくということなのかな。そうであれば、「私は「批評家」である」という意識を持ってそう行動することこそが大切だということなのかなと。

 「三」について、「批評家」について色々考えさせられた面白い観光地でした。

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