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栃折久美子さんのご冥福を祈りつつ—『火の魚』ドラマと原作の比較—

 栃折久美子さんの訃報に接し、ご冥福をお祈りするとともに、私に多大な影響を与えた『火の魚』について、ドラマと原作を比較してみた。これは以前Twitlongerに書いたものだが、こなれていない表現もあったことからそれを改め、また最後に今思うことを加筆している。

 原作『火の魚』は、『蜜のあわれ』という物語の表紙に、「私」の知り合いの折見とち子(言うまでもなく栃折久美子のアナグラム)が取った魚拓を用いるまでを語った話である。そしてこの『蜜のあわれ』はドラマで折見が貶す『蜜の罠』のように「男に都合のよすぎる頭の空っぽな」娘の話ではなく、「私」と金魚の間の、妙に官能的な関係を描いた不思議な物語となっている。さらにこの小説には「後記 炎の金魚」という文章がついており、そこで犀星は「一尾のさかなが水平線に落下しながらも燃え、燃えながら死を遂げることを詳しく書いて見たかった」と語っている。犀星が魚拓に取ろうとしたのはこのイメージだったのだろう。
 小説『火の魚』は「私」が戯れに魚拓を取ってみたがうまく取れず、それでも脳裡に浮かんだ「一塊の炎となった落下物が海ばらを眼懸けて、焼けただれて消えるという光景」が捨てきれずに、誰かに魚拓を取ってもらおうと考える、というところから始まる。「私」は、折見とち子(栃折久美子)の父親が釣り好きで、自ら釣った魚を魚拓にしており、折見がそれを見ていたということを知ってこの人物に白羽の矢を立てる。
 原作の折見は、手先の至極器用な人物として描かれ、魚拓を取るのみならず、色紙で人形を作ってそれを幻灯に映し、子どもたちに見せる。そして犀星にも見てもらいたいと電気器具を入れた箱を下げてやってくる。この幻灯がドラマでは影絵による人形劇になっているわけだ。
 また、人形劇を見てくれたお礼にとサバランというお菓子を作ってきたり、犀星の故郷である金沢の名物、胡桃を飴で煮つめたものを持ってきたりする。更には手袋も編む。こうした人物ゆえ、魚拓もうまく取るだろうと「私」は考える。このあたりの器用さとセンスは、浜辺に海藻で事もなげに龍を描いてみせ、さらに見事な影絵の芝居を見せるドラマの折見にそのまま受け継がれている。

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 原作とドラマとで大きく違うのは、金魚の死と折見の病に関するエピソードである。

 魚拓を作るにあたって、原作の折見は、手頃な大きさの金魚が死ぬのを待つ。小説には「わたくしは生きている金魚を殺せるような恐ろしい女ではございません」、「晴れた美しい水中に喜んで泳いでいる彼女をどんな人でも、いきなり手摑みで殺せるものではございません」という言葉がある。そして金魚が死んでくれるのを待つだけでもつらい、と語る。一方、ドラマにおいて、渡辺あやさんは敢えて折見に金魚を殺させる。その理由について「死の暴力性を表現したかった。死ぬのを待っていたら弱くなると思った」と語っている。

 魚拓では目は入れず、あとで筆で描き込む。折見が村田にすっと差し出した金魚と、『蜜の罠』の表紙になった金魚との目が違うのはこのためだ。原作では魚拓は絶賛されて「激溢してはいるけれど孤独極まる画面が、数人の人間の手によって作られた気がし、ちょっとの間、恐ろしいくらいであった」と評され、そんなことを思いついた犀星も、これほどうまく魚拓を取った折見とち子も「妙な人ではないか」と言われ、そこに犀星は満足を覚える。ドラマの魚拓の方は、こちらも尾びれ、背びれの線が一本一本見事に紙の上に写し取られて非常に美しい。ただし、「死を俟つために」金魚を買い、死んだ途端に「よかった」と思いつつ、それに後ろめたさを覚える原作に対し、ついさっきまでひらひらと泳いでいた金魚に、いきなり不条理な死を与えるドラマのインパクトは比べ物にならないほど強い。そしてこのシーンで折見さんが突き上げるように涙を溢れさせるシーンは、何度見ても素晴らしい。(このシーンを撮るときに、尾野さんは泣き出して途中で演技をやめてしまい、監督の黒崎さんは「何てことをしてくれたんだ」と思ったそうだが、出来上がりにそのシーンが活かされているのを見て、ただただ感謝するばかりである。)

 次に病気に関して述べよう。原作の折見は結核を患って肋骨を切り取る手術を受けている。そしてそのあとに鉄のギプスをはめているために深く俯くことができない。それゆえ犀星は「どうしてそんなに傲慢にちょっとだけしか、頭をお下げにならないんです。」と尋ね、折見は事実を告げる。それが明かされるのは魚拓を取った直後である。ここで、折見は手術の傷が癒えた自分と、頭に傷痕があった金魚を引き比べ、「傷は治っても他のことで今日のさかなのように、突然に死ななければならないかも判りません」と言う。ここで、ともに癒えた傷跡を持つ金魚と折見は、かたや死を迎え、かたや生き延びる、という点で運命を分けることになる。

 一方、ドラマで折見の病気はガンという設定になっている。これを決めたのは渡辺あやさんで、監督の黒崎さんは「内臓疾患でドナー待ち」くらいの設定にしたかったのだが、渡辺さんが受け容れなかった、と明かす。黒崎さんは「ドラマは嘘の世界なのでどんな悲惨な死も設定できるだけに迷ったが、やるならちゃんとやる、ということで、渡辺さんの提案をのんだ」と語る。こうしてドラマでは、死に至る病を得た折見が、自ら金魚の命を奪い、その後折見の病は再発して、両者はともに死に向かうことになる。この二つの変更は残酷だが、それだけに死というものが見る者に真っ向から突きつけられる形になっている。


 小説もドラマもそれぞれに美しいが、主題として考えた時、魚拓を取ってそれを『蜜のあわれ』の表紙にするという「だけ」、と言ってしまえる話から「生と死」を浮き彫りにして、死を前にした孤独な人間どうしのつながり(これは『カーネーション』の晩年の糸子と、中村優子さんが演じた末期ガン患者、吉沢加奈子との関係と同じだ)をあれほど鮮やかに描き出すドラマ版はやはり見事という他はない。
 補足だが、同じ本に収められている『われはうたえどもやぶれかぶれ』は肺ガンを患った犀星が治療を受ける話である(ただし、コバルト照射、という言葉は出てくるが、ガンとは記されず、犀星が自分の病気を知っていたかは明らかにされていない)。肺を病んでも犀星は煙草を一向にやめない。『火の魚』の村田は煙草も酒もやめ、それがラストの「煙草、吸いてえ!」という台詞につながる。ラストで煙草について村田に言わせたのは、渡辺あやさん曰く「お酒だと飲んで楽しいということがあるが、煙草にはない。煙草の持つバカバカしさを守りたかった」からだそうだ。渡辺さんが『やぶれかぶれ』を踏まえておられたのかどうか分からないが、この短編も念頭に置いていたのだとすれば、犀星と村田を対比させながら、病気に対して無頓着な犀星と、生にしがみつく村田の姿の違いがさらにくっきりと描かれていると言える。その結果、死に向かう折見と死に近づきつつも生にとどまる村田、という対立構造がいっそう明らかに示されることになる。

 余談ながらこの『火の魚』は、『カーネーション』と並んで私にとっての尾野さんの最高傑作である(最近はここに『茜色に焼かれる』が加わった)。世間に知られるようになったのは『カーネーション』であったとしても、演技の素晴らしさの下地はすでに2009年には十分にあり、『カーネーション』はあくまでもそれが広く知られるようになった一つのきっかけに過ぎない。尾野さんがターニングポイントを尋ねられるたびに「皆さんにとっては『カーネーション』でしょうね」と答えるのは、その意味で非常に納得がいく言葉である。自分を有名にしてくれたから特別、というわけではない、というところが、いかにも地に足が着いていて素敵なのだ。とは言え、作品の素晴らしさという意味では『カーネーション』はやはり抜群で、だからこそ尾野さんが「どの作品も宝物だけど、『カーネーション』はやっぱり特別」、ということにもまた、深くうなずいてしまう。


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