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Striking Anew 2023 学祭特別号

Striking Anew 2023 学祭特別号です。
*作者からの許諾が得られた作品のみ掲載しています。


テーマ「風」

テーマ作品

「風の神様くんの悲しみ」 横澤フルーツポンチ

 子どもは風の子、大人は火の子。
 ぼくには、お友達がいっぱいいた。人の子たちは、あついあつい夏はもちろん、さむいさむい冬でも、お外を走りまわって、ぼくと遊んでくれた。でも、人の子たちは大人になると、外は寒い寒いと言って、みのむしくんみたいに着ぶくれして、おうちの中の火を囲って群がってしまう。せっかくぼくと遊んでくれたとしても、大きくなったらみんな、火の神様くんのところへ行ってしまう。火の神様くんは、ぼくのお友達を、みんなみんな、奪ってしまう。だからぼくは、火の神様くんが、大きらい。

 「ねえねえ。あなた、神様なんでしょう?」
 木の上で眠っていたら、青空にコインを投げたような声がした。木の下を見下ろすと、小さな人間の子どもがいた。なかなか着ぶくれしている。そのうえ濃い橙色のマフラーを巻いている。ぼくは、まだ眠りたがっている身体を起こして、人の子の顔を覗いた。
 「あなた、神様なんでしょう?」
 「そなたは人の子だろう? ぼくが見えるのかい?」
 「見えるよ。だって、ぼくは神様だから」
 ぼくは訝しく思って、ひょいと木から飛び降りた。そして、その人の子の眼を覗き込んだ。五つくらいか。意識を集中させて、カブトムシくん色の眼の奥をじいっと見つめて、やがて顔を離す。
 「そうだよ。ぼくは神様だ。ぼくは風の神様で、この神社の木を寝床にしている。でも、そなたはどうみても人間だ。イロは人間のものだし、人間の臭いもする。そなたは神社に住んでいるの?」
 「でも、ぼくは神様だ。神の子で、神様だよ。だから見えるんだ」
 ぼくには、その人の子のあまりに純粋すぎる声が、何を言っているのかよくわからなかった。
 「一つお願いがあるんだ。ぼくをね、神様の世界に連れていって欲しいの」
 そのお願いを聞いた時、この世界のどこかで、みみずくんが一匹、プチッと潰れたような気がした。プチッと汁が飛び出して、アスファルトにシミをつくっていくような気がした。ちょっと昔のことが過ったけれど、ぼくは、そういうものを一切振り切って、お返事をした。
 「それは、できない。そういうのをやっていた時期もあったけど、もうやめちゃった。だいいち、そなたは本当の神様じゃないから、神様の世界には行けないんだよ」
 「ぼくが死んだ後なら行けるの?」
 「そういうわけでもない」
 「じゃあ、ぼくが本当の神様になれたら、神様の世界に行ける?」
ぼくは、その人の子のあまりに純粋すぎる声が何を言っているのか、やっぱりよくわからなかった。人間が本当の神様になろうだなんて、いったい何をどうすればなれるのだろう。どうせ、なれっこない。本当の神になどなれやしない。でも、この人の子のまっすぐな眼を見ると、カブトムシくんの甲羅が葉っぱどうしの隙間から差し込むお日様の光に照らされて、いちばんきれいに輝く時みたいな艶が、なんともうつくしいのだ。
 ぼくはお返事をした。
 「行けるよ」
 「本当に?! じゃあ、本当の神様になったら、あなたはぼくを神様の世界に連れていってくれる?」
 「うん。その代わり、これからはずっとぼくとお友達でいなきゃいけないよ。毎日じゃなくてもいいから、とにかくぼくと、お外で遊ばなきゃいけない。そなたが大人になっても、本当の神様になっても。お友達でいて、ぼくと遊ぶんだよ」「うん、約束だよ。ぼく、本当の神様になれるように頑張るね」
 人の子は微笑んだ。
 ふと、一人の人間の女が鳥居の横を通って神社の敷地内に入ってきた。女は、その人の子の左手を取って去っていった。
迷子になっていた息子を連れ戻しに来たらしかった。

 ぼくは神だ。ぼくは神で、神の子として育てられた。
 「あなたは神様なのよ。私と、このセカイとの間に生まれた神様なの。あなたの心臓には、神としての道徳と教義が宿っているわ。それに従って、まっすぐに、特にこれといった偉大なことをしなくても構わないから、みんなの神様として、 全ての人間の手本となるように、生きていかなくてはならな いのよ」
 母に何度もそう言われた。ぼくには母の言っていることが、 鉱山から掘り出された真実の原石のように感じられて、それが地球規模の真実のように感じられて、そう言われるたびに元気よく、
 「はい、お母さん」
と返事をした。
 ぼくは、本当の神様になりたかった。

 毎週日曜日になると、シンジャの人々が家に集まってきた。計八人。家具のない殺風景な部屋の中、南向きの窓に背を向けて僕はきちんと正座をする。目の前の祭壇には、皿にこんもりと積まれているゆでたまご。シンジャたちは代わるがわる、僕とゆでたまごに頭を下げていく。ぼくは一人ひとりに向けてにっこりと微笑みを返していく。その次に皆で経典を朗読して、お互いの近況報告とともに心を「わかちあっ」て、信者たちは帰っていく。
 その日も、高杉さん親子はシュウカイに来ていた。お母さんは、高杉の奥さんと仲が良かった。シュウカイが終わった後でも、お母さんは高杉さんと一緒にお茶を飲みながら、おしゃべりをしていた。
 ぼくはその間、同い年の高杉敬一くんとお庭で遊んでいた。今日は戦隊ごっこだった。新聞紙を巻けば剣になる。首元の形を切り抜けばマントになる。ぼくがヒーローで、敬一くんが悪者。ぼくがヒーローの時、風の神様くんがやってきて、びゅうびゅうぼくに追い風を送る。そのせいで敬一君はぼくよりも早く負けてしまう。そうしたら、役割交代。ヒーローになった時の敬一くんは、すごく強い。でも風の神様くんがぼくに追い風を送ってしまうから、悪者なのにぼくはなかなか負けることができない。かと思ったら、急に風が止んで、敬一くんが
 「セイバーッ!」
と切りかかってきた。ぼくは心臓をやられて、
 「ぐあーッ!」
と叫んで、やっと負けることができた。
敬一くんは言った。 
 「優斗くんすごいね」
 「どうして?」
 「ぼくと戦う時、いつもすごい風が吹いてる。やっぱり優斗くんは神様なの?」
 敬一くんの後ろでこっそりと立っていた風の神様くんがにんまりと笑っていた。
 「それはね、風の神様くんがぼくに風を送ってくれるからだよ」
 「風の神様くん?」
 「そう。風の神様くんは本当の神様だよ。ぼくは神様だけど、まだ本当の神様じゃないんだ。だからシュウカイも頑張って、本当の神様になりたいんだ」
 「ふうん。ぼくはあれ、あんまり楽しくないけどな。終わったら優斗くんと遊べるから来てるけど」
 「そっかあ、あんまり楽しくないかあ」
 あのシュウカイは、本当の神様になるために必要なことだ。お母さんも、シュウカイはとても大切なギシキだと言っていた。けれど、敬一くんにそう言われてみると、確かにぼくも、あの集会を本当に「楽しい」と思っているのか、よくわからないと思った。
 敬一くんは、敬一くんのお母さんと一緒に家に帰っていった。
 ぼくが窓を開けると、風の神様くんが現れた。
 「どうだった? ぼくの風」
 「楽しかったよ。でも、ぼくばっかり強すぎるよ」
 「でも、今回はちょうどいいところで風を止めたよ」
 「あれじゃまだまだ強すぎるんだって」
 「そうかなあ? 勝てればいいと思うけどなあ。それにしても、どうしてぼくたちは、シュウカイの日しか遊べないの?そなたはいつも母親と一緒に出かけるし、公園だって、誰もいない時じゃないと遊ばないね」
 「ぼくは神様だから、あんまりヒトメニツク所で遊んじゃいけないんだって。お母さんが言ってた」
 「ふうん、人の子の神様は大変だね」
 「でもぼく、四月から小学校に行くんだよ。敬一くんも同じ学校なんだ。そうすれば毎日外に出るし、いっぱい遊べると思う。だから、もうちょっと我慢してくれなきゃ」
 「ばかにするな! 我慢くらい、ぼくだってできるんだぞ!」
 風の神様くんは頬を膨らませた。急にゴオオーッと旋風が巻き起こって、近くの雑草やぼくの髪の毛までもが、ものすごい勢いで立ち上がるものだから、ぼくは慌てて、神様くんを落ち着かせようとした。
 「ごめんってば。今はお母さんが呼んでるから、またあとでね。あと、次は敬一くんにも風送ってね」
 
 薄目を開けると、あの人の子がカラスくんの羽みたいな色のかばんを背負って、近所の子供たちと歩いていくのが見えた。ぼくは眠たくて、神社の松の木の上でごろごろしている。
 「久しぶりだねえ、君が人の子に目ェ付けてるの」
 嫌というほど聞きなじみのある声がした。火の神様くんだ。いつのまにか隣の枝に座っている。前に会った時よりもさらに派手な着物を着て、化け猫のような目でにやにやしている。
 「ぐずぐずしてないで、隠しちゃえばいいのに」
 「そんなこと、しない」
 「今更そんなこと言って。忘れたんですか、あんたもやんちゃな時あったでしょう。いったい何千人隠してきたのさ。私より多いでしょう」
 火の神様くんの言っていることは、正しいと思う。気の遠くなるような時間を生きて、遊び相手もいないのは、寂しい。けれど昔を振り返ってみると、ぼくが寂しさという鬼に爪の先まで吞まれかけて、無理やり隠そうとしたために、生のかがやきを失ってしまった、何人ものかわいそうな人の子たちの顔が浮かんできて、ぼくは、雪を噛むような気持ちに苦しくなった。
 「……やめてよ。そういうのは、もう、やめたんだ」

 ぼくは小学校に入学した。運動場で遊ぶことができる休み時間、体育の時間、下校時間が生まれたおかげで、風の神様くんと遊ぶ時間は増えた(風の神様くんはお寝坊さんのため、ぼくが登校する時間はまだ寝ていた)。
 ぼくは、学校で「神様」という言葉をほとんど聞かないことが新鮮だった。クラスメイトは好き勝手遊ぶし、ぼくの知らないテレビやゲームの話ばかりしている。先生でさえ、「神様」という言葉を口にしない。学校は、ぼくが馴染んでいるのとはまるで違う世界だった。
 先生という人は、たくさんのことを教えてくれる。ひらがな、カタカナ、足し算、引き算、きれいなでんぐり返しの仕方まで教えてくれる。けれどしばらく経って、先生は本当の神様になる方法を教えてくれないのだということを、ぼくは察していった。だからそれは、自分で見つけなければならないのだと思った。
 手始めに、ぼくは初めて受けた算数のテストで、記名欄に「神様」と書いてみた。テストが返却された時、ぼくは先生に注意された。ついでに、「神様」という漢字の正しい書き方を教わった。ぼくが書いた「神様」は、「様」の右下部分が「水」になっていて、少し違っていた。
 家に帰った後、このことをお母さんに話した。それを聞いて、お母さんはこう言った。
 「神様っていうのは、とても神聖なものなの。あまりむやみに人にしゃべったり、自分は神様だって言い張ってはいけないのよ。そういうのは、特別な時にするものなの。そうやって、神様の神聖さを守っていかなくてはならないのよ」
 小学校三年生の秋頃、国語の授業で、将来の夢をテーマにした作文を書いたことがあった。ぼくはこれを、お母さんの言う『特別な時』だと思った。ぼくは先生に当てられて、自信を持って席を立った。
 「ぼくの将来の夢は、本当の神様になることです」
 ぼくがそう宣言した時、教室が異様にどよめいた。ぼくは、なぜこうなったのかわからなかった。が、先生が「皆さん、静かに聞きましょう」と喚起したので、そのまま読み進めた。
 「ぼくは神様で、神の子です。ですが、まだ本当の神様ではありません。本当の神様になれるように、お母さんと一緒に活動を頑張りたいです。学校でもいっぱい勉強して、教義と道徳に従って、はやく本当の神様になりたいです」そして、神様の世界に行きたいです。そう言おうとした時、
 「神様なんているわけねーじゃん」
 上田君だった。先生が止めにかかろうとしたが、上田君は椅子の背に肘を置いて続けた。
 「なんで大橋君が神様なんだよ。だってお前、このあいだのテスト七十点だったじゃんか」
 ぼくは、全身が熱くなったような気がした。教室にどっと笑いが起こった。
 「そうだよ。神様だったら全部百点取れるんじゃないの?徒競走も一位なんじゃないの?」
 「本当の神様だってぇ! 何それ、なれるわけないじゃん!」
 「変な奴!」
 ぼくは、立っているのがやっとだった。必死に涙をこらえて、透明な洟が垂れてくるのを恨んだ。こんなにみじめな気持ちになったのは初めてで、まるで、みんなが一斉にぼくに石を投げているみたいだった。
 「もうやめようよ」
 そう一言放ったのは、高杉君だった。高杉君は椅子に座ったまま俯いて、両手を握りしめている。よく通るけれど落ち着いた冷静さのある声に、教室は水を打ったようにしんと静まり返った。
 先生は言った。
 「みなさん、よく聞いてください。人の夢に悪いことを言ってはいけません。なれない、だなんて、絶対に言ってはいけません。大橋君は勇気をもって発表してくれたんだから、みなさんは拍手をしなければいけません。大橋君は本当の神様になりたい、それでいいじゃありませんか。それはそんな
に悪いことじゃないでしょう?」
 生徒たちは互いに顔を見合わせた。
 「大橋優斗君、あなたは自分の将来の夢を発表できて、とても勇敢です。高杉くんも、自ら『もう止めよう』と言うことができて、とても勇敢です。二人ともありがとう」
 ぼくたちはこの頃、お互いを大橋君、高杉君と呼ぶようになっていた。
 上田君たちの疑問は、ぼく自身でも勘づいていたことだった。ぼくが本当に神様なのなら、どうしてぼくはテストで百点が取れないのだろう。どうして足が遅いのだろう。
 そんなぼくが、なぜ、どうして神様なのだろう?いつの日か、あの人の子が、他の人の子たちと一緒に白と黒の球を蹴ったり、運動場を駆け回ったりするのを見なくなった。神社の木の下にも、来てくれなくなった。学校も、母親の車で通うようになった。
 夜、ぼくは優斗君の部屋の窓のところに飛んで行って、どうしたの? と聞いた。優斗君は言った。
 「ごめんね、ずっと遊べてなくて。学校帰りに神社に行ってたの、お母さんにばれちゃったんだ」
 「そなたは、神社に入っちゃだめだったの?」
 「ぼくじゃない神様のいるところには、行っちゃいけないんだって。信者の人に示しがつかないから」
 「そんなの聞いたことないよ。そなたのお母さんは変なことを言うね」
 「お母さんを悪く言わないで」
 低い声だった。
 ぼくは、優斗君を怖いと思った。優斗君は、ぼくに全く目を合わせてくれなくて、ただじっと窓枠を見つめて震えていた。ぼくは、
 「ごめんね」
 と言うしかなかった。
 優斗君は何も言わずに、ただ首を横に振った。そして、こんなことを聞いた。
 「ねえ。風の神様くんは、どうして神様なの?」
 「そんなの、知らない。気づいた時には、神だった」
 「そうだね。ぼくも、気づいた時には神だった。じゃあ、信者はいる?」
 「昔はいっぱいいたけど、だいぶ減っちゃったなあ。でも、そなたの信者のほうがたくさんいるだろうし、力も強いと思うよ」
 「そっか。じゃあ、風の神様くんはテストで何点取る?」「テスト? 試験のこと? 受けたことないから、わからない」
 「でも、足は速いよね」
 「そうだね。人よりは速いね」
 「じゃあ、神様が人に悪く言われることはある?」
 「… …え?」
 ぼくは一瞬、何を言われたのかわからなかった。
 「たとえば、急に物がなくなったり、何を聞いても答えてもらえなかったり、水筒で頭を殴られたりすることはある?」
 優斗君がぼくに顔を向けた時、優斗君の眼には、涙がいっぱい溜まっていた。優斗君の眼は、悲しい、と叫んでいた。痛い、と叫んでいた。
ぼくは、優斗君の部屋の窓をくぐって、優斗君の背中に、自分の背を合わせるように座った。
 「神様が人に悪く言われることは、いっぱいあるよ。遠くの神様なら、大昔からもっといっぱいあったって、聞いたことあるよ。神様っていっても、絶対にみんなが好きでいてくれるわけじゃないからね」
 「そっかあ、それなら良かった。でも最近は、高杉君もぼくと仲良くしてくれないの。あんまり遊んでくれないし、話してくれない。でもぼくと遊んだら、きっと高杉君もいじめられちゃうもんね」
 優斗君は、とても悲しそうな声で言った。
 でもぼくは、どうして優斗君が悲しいのか、どこか納得できないところがあった。どんなにたくさんの友達に嫌われても、大事な友達が一人いれば、それでいいのではないのだろうか? どんなにたくさんの友達に自分のことを忘れられても、たった一人、大事な友達がいれば、それでいいのではないのだろうか? ぼくは、優斗君にとって大事な友達ではな
いのだろうか?
 ぼくたちは、本当に友達だよね?ぼくがそう問おうとした時、
 「ぼくは、本当に神様だよね?」
と、優斗君は問うた。
 ぼくは、
 「神様だよ。そなたはぼくと友達なのだから」
と お 返 事 を し た 。
 寝床までの帰り道。ぼくはお空をふわふわしながら、ふと思い出した。最近、とある人の子が、神社によく出入りしている。そういえばあの人の子は、なんだか高杉君に似ていたかもしれないと思った。

 勉強を頑張って、テストも百点をたくさん取れるようになってきた。足の遅さは、どうにもならなかったけれど。
 クラスメイトたちは、ぼくのことを「カミサマ」と呼んだ。みんな口々にカミサマ、カミサマと呼んで、ぼくを嗤っていた。神は、存在を馬鹿にされるまでに堕ちた。
 高杉君は、小学校五年の冬休みを控えたある日を境に、突然僕を極端に拒絶するようになった。
 「お前のせいで! お前のせいで!」
 音楽室のある廊下に行くのに角を曲がろうとした時、出合う頭に高杉君と鉢合わせた。高杉君は、僕を敵とみなしたかのようにキッと僕を睨んで、そう叫んだ。そして、教科書とリコーダーをぎゅっと握りしめて、足早に去っていった。
 ぼくは、なぜ高杉君があんな行動を取ったのかわからなかった。ただひたすらに、何とも言えない絶望感が、ぼくに重くのしかかった。高杉君の何か悲痛なものを含んだ叫びが、耳の中でこだましていた。
 高杉君はとうとう、週に一度の集会にも姿を見せなくなった。

 信者の増加は、まさに破竹の勢いだった。学校ではあんなに虐げられているのに、教団の中にいると、ぼくはますます崇められて、ますます神様になっていく。昔のぼくだったら、本当の神様に近づけた! と喜んだかもしれない。けれど今の僕には、知らない人間がどんどん僕を崇拝し、頭を下げていく光景が、気持ち悪く感じられるようになってきた。数を増やしていく信者が、不快でたまらない。虚構の神の椅子にゆったりと腰かけ、足元を這い上ってこようとするミミズがうじゃうじゃ増えていく。これが僕の現実に思えた。
 年末のある日、お母さんと初めての大喧嘩をした。お母さんは泣きながら言った。
 「優斗は学校で、社会の歪んだ悪いものに洗脳されてしまった。そのために、自分の存在さえをも疑うようになってしまった。教育は受けて欲しかったから学校に行かせたけれど、これなら、最初から学校に行かせなければ良かった」
 新学期以降、お母さんは本当に僕を学校に行かせなくなった。ぼくは反抗しなかった。それは、お母さんの嗚咽をもう聞きたくなかったからだ。一人息子の裏切りに苦しんで、物を食べず、風呂も入らず、服も着替えず、ボロボロになったお母さんの姿を、もう見たくなかったからだ。

 冬の真夜中。不穏な音で目が覚めた。寝起きにお空を飛ぶのは面倒だから、木の枝の上に立つだけにしてみる。東の山のある方に、火が上っている。ぼくは、あの火の立ち上っている方角に、かつてお友達だったあの人の子の家があることを思い出した。ぼくはぞっとして、一目散に飛んで行った。
 優斗君の家が、燃えている。
 今日は風の強い日で、目の前の大きな炎がうなりを上げて、黒い煙といやな臭いをとめどなく出していた。
 中に入ろうとしたが、誰かに腕をつかまれた。こわい顔をした、火の神様くんだった。
 「離せ!」
 「そなたには無理だ。話を聞きなさい。」
 「離せ! あの子が中にいるんだ!」
 ぼくは、火の神様くんの腕を振り切ろうと頑張った。焦燥感に煽られて、暴れまくった。けれど、子どものぼくと違って、大人の体を持つ火の神様くんの力のほうが、ずっと強かった。
 「あの人の子は、かなり質の悪い神になろうとしている。本当に神になって、コチラの世界に来られると厄介だ。私は別の人間に依頼されたため、この火を守る義務がある。あの神になろうとする人の子は、既に、他の人間から恨みを買ってしまった。こんなに大きな炎じゃ、あんたはどうしようもないだろうが、後は勝手にするといい」
 火の神様くんはそう言って、意外にもあっさりとぼくの腕を離した。ぼくは少し戸惑った。けれど、そんなことはすぐに忘れて、急いで優斗君を探しに、炎の中に飛び込んだ。
 火の中は本当に真っ赤っかだった。本当に熱くて、臭くて、煙が眼に沁みて、泣いてしまいそうだった。まだ本格的に火が届いていない奥の廊下までたどり着いた時、口元を布で覆ったまま、倒れ込んでいる優斗君を見つけた。火事に気づいて、逃げようとしたのだろう。ぼくは、あらんばかりの力を込めて、風向きを変えようとした。これ以上、優斗君に火が向かわないように。たくさん、たくさん、力を込め続けた。いっぱい、いっぱい、力を込めた。自分の身体が燃え尽きるまで、力を込め続けたいと思った。どうしてぼくは、優斗君と友達でいることを諦めてしまったのだろう。ぼくは、いっぱい、いっぱい、いっぱい、泣いた。
 しばらくすると消防団が来て、夜明け前までに、火は完全に消し止められた。強い風は、やんだ。

 冬の日。ぼくが木の上でごろごろしていると、大人になった優斗君が、神社の前を通るのが見えた。ぼくは口でひゅう、と風を送った。あんなに着ぶくれしているのに、優斗君は震え上がって、一つくしゃみをした。ぼくはけらけら笑った。優斗君は、こちらの松の木のほうを見て、むすっとした顔をした。鳥居をくぐって神社の敷地にズカズカと入ってきて、松ぼっくりくんを一つ拾い上げたかと思うと、それをいきなりぼくに投げつけた。
 「痛い!」
 ぼくが悲鳴をあげると、優斗君はいたずらっぽくも、しあわせそうに笑った。そして、
 「おい、優斗!」
と名前を呼んだ、鳥居の向こうで待っている人間の友達のいるほうへ、歩いていった。
 ぼくは今、昔ほどは寂しくない。でもやっぱり、ぼくはまだ、火の神様くんが、大きらい。



「風に吹かれて」 李音

 皆は一目惚れというものをしたことがあるのだろうか一目惚れはまるで雷に打たれたようだと表現した人がいるように、私が彼に恋をしたとき、本当にそのようだと感じた。

 0
 この国には5つの国が存在する。そして、5つの国全て、それぞれがその国独特の魔法をもっている。一つ目は水の魔法が使えるヴァッサーウォール帝国、2つ目は火の魔法が使えるフォイアーファイル国、3つ目は土の魔法が使えるボーデンソイル国、4つ目は光の魔法が使えるリヒトライト皇国、5つの目は私の国でもある風の魔法が使えるヴィントヴィンデルク国である。

 1
 私はマリン・ヴィントヴィンデルクという。風の魔法を持つ国の王族であり、現国王陛下である父、レアックス・ヴィントヴィンデルク陛下の第一王女である。
 そんな私が彼、アクアシフォン・ヴァッサーウォール殿下に出会ったのはかの国への視察だった。先ほど彼を殿下と紹介したように彼もまた水の国の皇帝陛下ロワード・ヴァッサーウォール陛下の嫡男であった。ここまでなら、普通の恋愛小説の展開、それぞれ皇族や王族なのだから身分を釣り合う。でも、この世界にあるある1つの決まりがそれを許してはくれない。ある1つの決まりとは「他国の王族、皇族同士の婚姻は認めない」という大昔の国同士の決まりごと。つまり、私たちが惹かれ合ったとしてもこの世界の常識では結婚できる未来は存在しないということになるのだ。
 
 2
 俺は一目惚れをした。彼女も俺を好きだと言ってくれた。本当に幸せだと感じた。たとえ、それが危険で、限りある恋であるということに目を背けているだけだとしても、、、、、、。
 そうして俺たちは両思いだとわかってから、国のものにばれないようにひっそりと二人で想いを温め続けた。本当に慎重に、、、、、、。時にはこっそりと場外に出て、デートをしたり、城のあちこちを案内したり、など彼女が国に帰るまでの半年間にたくさん思い出を作ろうとした。この恋は彼女が国に帰国したら終わる。それだけは確かであったから。

 3
 私たちが出会って、数か月がたったある日、父から手紙が届いた。話があるから帰国するようにと書かれていた。このような手紙はいつも視察に行くたびに父からもらう手紙であった。
 でも、この時の私にはまるで死刑宣告のような気がした。決して、父にも私が彼と恋仲であるということはばれてはいけない。たとえ、将来的には父が決めた結婚相手との結婚は避けられないのはわかっている。けれど、もう少しだけ、甘い夢に浸っていたいのだ。いつかは終わるその夢に、、、、、、。

 4
 「お前の婚約者がきまった。」と父は私の姿を見るとそう告げた。
 「相手は、ルベウス・ヴィーラント殿だ。」
 名門公爵家ヴィーラントの嫡男であったはずだ。確か義母上はウォール公爵家の娘であったはず。それとのバランスをとっての縁組であろう。そして、きっとこの決定には私が逆らうことが許されてはいないのだろう。
 「確かに承りました。」私はそう言って退出した。

 5
 マリンが退出して久しぶりに彼女の実の母親のことを思い出い出した。
 “私は先王の第四王子として生まれた。母は貴族の出だが、父の側妃でしかないために、ほとんど必要のない王子として育った。そのことに反発したのかもれない。私はジーゼ・ジハラードという女性と出会い、恋に落ちた。ジーゼはヴァッサーウォール国の没落貴族の娘であった。つまり、平民に等しい存在であった。彼女はとても天真爛漫で笑顔があう女性であった。私はそんな姿に惹かれたのだろう。彼女と出会って数年がたった頃、第一王子であった兄上が正式に立太子した。私はジーゼとの結婚を望むようになっていた。もちろん父に反対されることは分かっていた。だから、結果的には駆け落ちという決断をした。幸せだったよ。生まれた国ではなく、彼女の祖国に平民として生活した。彼女との生活が安定してきた頃、私たちの間にはマリンという娘が生まれた。本当に幸せといえる生活を手に入れたと感じた。でもね、その頃、この国では原因不明の流行病が蔓延して、なんと王位を継ぐことができる兄二人が亡くなった。兄二人ともに子はいなく、その下の第三王子であった兄上は病弱でとてもじゃないが、王位を継ぐことが出来なかった。そこで、父が目を付けたのは私であった。他国で生活していて、健康で、何よりも王位を継ぐことができる後ろ盾がある私に。それに、子供がいることも好都合であった。父はすぐに私の居場所を探し出し、使者を遣わした。もし、私が王位についた時、王家の血を継ぐ者がいるということだ。たとえ、母親が平民だとしてもその事実は変わらないからだ。でも、私が王位を継ぐとしたら、それ相応の後ろ盾のある貴族との婚姻が必要となる。それが、国のためだというのは理解できる。しかし、私には既に愛する者がいた。彼女を裏切ることになる。私はそう思った。だから、使者には告げた。”私は王位を継げというなら、彼女を妃にする。それが、できないのなら従兄弟から跡継ぎを選べばいいと。 “でも、父は納得しなかった。自分の血を継ぐ者ではなければならないと言い出したんだ。私は無理やり祖国に連れ戻された。マリンとともに。その時、ジーゼと引き離されたお前は泣いていたよ。連れ戻された祖国は荒れていたよ。皆が病におびえていた。その光景を見て、初めて王になってもいいと感じた。それが、愛する人への裏切りと分かっていても、、、、、、。それからしばらくして、彼女から手紙が届いた。私と正式に別れることやマリンのことを手放す後悔が綴られていた。こうして私はジーゼとの関係に終わりを決め、この国の王となった。本当にその判断が正しかったのだろうか?娘を政治に利用とするような人生が正解なのかと最近考える。

 6
 父に婚約者を紹介されてから、彼とは何度か二人で出掛け、お茶をした。彼に惹かれていくという感情はない。ただ、この人となら、やっていけると思うようになっていった。
 私が帰国してから、半年後に国内外に向けた婚約披露パーティーが開かれることになった。もう後戻りできないと分かっている。せめて、もう一度アクア様の声を聞きたい、顔を見たい。でも、たとえ彼がパーティーに来てくれても二人で会うことは叶わないだろう。私には婚約者がいるのという事実は変わらないのだから、、、、、、。

 7 
 彼女の祖国である風の国から婚約披露パーティーの招待状が届いた。「かの国の王女がこの度婚約したからそのお披露目に来てはくれないだろうか。」という内容であった。かの国には王子が二人で、王女は一人だけであったと記憶している。そう、かの国には王女は一人しか存在しないはずなのだ。私が愛しいとした彼女しかいない。彼女が婚約する。それも俺ではない者と。いずれはそうなると分かっていたし、彼女が国に帰るとき、私たちの短い、禁断の恋は終わりを告げている。今更、変な悪あがきをしても仕方がない。頭ではわかっているのに、心が悲鳴を上げる。俺は初めて、自分の地位を恨んだ。もし、俺が平民であったら、俺はきっと祖国を捨てても誰も何も言わないのだろう。だが、現実はこの国の皇太子で、この国を捨てることなんてできない。

 8
 遂に、婚約披露パーティーの日がきてしまった。なんと、水の国からは皇帝の代理としてアクア様が来られるのだとか。もう二度と会うことのないと思っていたのに、、、、。
 
 私はパーティーでの紹介が終わるのを見計らって会場を抜け出した。アクア様と話をするためだ。きっとこれは神様がくれたチャンスなのだから。
 「婚約おめでとう。」
 と彼が先に口を開いた。
 「 俺ではきっとあなたを幸せにはできないのだろう?だから君はあの男を選んだのだろう?」
 と続けた。
 「違う!私はあなたとだって幸せになれると思ってたわ。でも、私もあなたも国を捨てることはできないわ。それだけはどうしても変えられないわ。それなら、これ以上気持ちが強くなる前に諦めてしまおうと思ったの。それに、私は、いくら王女でも、彼と結婚したら、あなたとのつながりは消えるわ。だって、あなたは国を継いでいく人、皇帝になる人なのだから!」
と私は思わず叫んでしまった。
 「俺は、皇帝になる道しか知らない。そのように教育されてきたのだから。それ以外の生き方はきっと君の言うようにできないのだろうな。君の父上のように愛する人のために国を捨てるような男ではないだろうな。ならせめて、最後に君と出会えた事、君を愛したことに後悔はないよ。マリン、僕は今でも君のことを愛している。楽しい時間を、幸福な時間をありがとう。」
と彼は言う。
 どうして、あなたはこんな私に感謝をするの?あなたの人生に傷をつけたのかもしれないのに。私は言葉にできない代わりに、ひたすら泣き続けた。ただ、あふれる涙を止めることができなかった。
 気づくと、アクア様の姿はなく、代わりにルベウス様が私の名を呼んで探していた。私は涙をふき取ると、ルベウス様の声のするほうに近づいていった。そうして、何気ない顔で、言うの、少し一人で休みたかったと、ね 。
                                 終


自由作品

「溺れる夢」 ドクダミ


天井に魚の泳ぐ水族館僕は下から見上げるばかり

腕にひれを持たぬ僕には水中をうまく進めず溺れる夢を

隣にはイルカプールが見えシャチがイルカを食べる説明を聞く

ホログラム流れる暗い深海に肩をよせあうカップル座る

視界にはイワシのつくる銀の雲世界は少し僕に遠くて


「すこし発達ナイト」 尾井あおい


未 満 児 が 肉 の 面 倒 み る 砂 場

は ち み つ で 直 せ る ら し い ク レ ヨ ン

乱 暴 な 茶 髪 の し ぶ き を 撫 で て や る

ま だ 寒 い ラ ジ オ 体 操 父 の 声

食 い 逃 げ の 方 か ら お 詫 び の く る み パ ン

式 場 の こ た つ か ら 出 る 二 本 足

豚 バ ラ が シ ャ ブ の 隠 語 と す る ジ ャ グ ジ ー

浜 へ 行 く 自 販 機 分 の 電 気 代

盗 ら れ た ら わ た し の 靴 で 帰 っ て ね

わ さ び か も 泣 い て い る か も わ か ら な い

コ ス ト コ の 袋 が 好 き な 独 身 者

け じ め な ら 絆 創 膏 を 貼 っ と い て

子 ど も の 字 教 え る く せ に サ ン タ さ ん

あ せ も に は な ら な い 夏 の 大 三 角

放 課 後 は メ ガ ネ か 空 手 選 び な さ い

一 画 で 風 に の っ て け ブ ー メ ラ ン 乙

初 孫 が 踊 り 場 で 踏 む ラ ン ド セ ル

家 出 し た 友 の チ ャ リ キ ー 飼 育 す る

西 便 に 近 づ く な か れ 上 履 き

知 っ て る よ 原 文 マ マ の ラ ブ レ タ ー

蹴 り 上 げ た 布 団 で 越 せ る 夜 な ら ば

五 個 下 の グ ラ ド ル が い る 実 習 生

靴 擦 れ も や が て は 気 づ く 過 充 電

ば あ ち ゃ ん の フ ル フ ェ イ ス な ら 冷 め て る よ

崖 下 に 半 月 板 の サ ー ブ 落 つ

線 香 か と 思 っ た で し ょ う 茶 畑

ま こ と し や か な 完 全 骨 格

オ ク ラ ホ マ ミ キ サ ー か ら は 浮 気 じ ゃ ね

あ れ は た ぶ ん 育 乳 謳 う ア ド バ ル ー ン

還 暦 を 過 ぎ た ス テ ー キ 南 方 へ

三 色 の 団 子 見 る た び 母 性 湧 く ぅ

眼 底 の 気 球 を 落 と す 空 気 砲

お お ま か な 6 P チ ー ズ の 寝 か し つ け

握 力 だ け で カ ツ 丼 食 う ぜ

勘 定 は い い か ら 逃 げ ろ い わ し

雲 弟 に 横 顔 似 て る デ シ リ ッ ト ル

顧 問 の よ う な 白 湯 で 落 ち つ こ

チ ャ コ ペ ン で ほ っ ぺ な ぞ れ ば お ひ る ね

く る ぶ し が 補 導 さ れ て も 平 気 な の

検 査 系 サ ー ク ル 二 つ に 加 入 兼 サ ー

融 通 が 譲 っ て く れ た お 弁 当

肉 離 れ で き る は ず な い 相 撲 部 屋


「エナドリ50円引きのクーポン」 登校は登山

 眠れなくなった。理由は明らかだった。
 間違いなく、カフェインのせいだ。朝食と共に紅茶を飲んで、日中は大学でキリンのワンデイブラックを飲んで、家に帰ってエナドリを飲んでいたら、全く眠れなくなった。当たり前だ。右足出して左足出すと歩ける以上に当たり前だ。あの人たち今何してんだろ。
 それで、仕方がないので眠れないまま大学に向かうと、人間としてのリミッターと退屈な講義からの逃避が合わさって眠ってしまう。眠ってしまうと、授業を聞き逃す。これでは流石に単位が取れない。それは困ってしまったので、睡眠外来を訪ねてみた。
 待合室は居心地の良い空間である事が多い。病院やクリニックは、訪れる動機そのものが病気だとか怪我だとかのマイナスなものがほとんどだから、少しでも患者をリラックスさせる為に、最近はそうなっているらしい。
 しかもここはいわゆる「クリニック」らしく、小綺麗な白の壁紙に焦茶色のカウンターの木目が映える待合室で、空いたスペースには観葉植物、パステルカラーの座面張りがされた椅子の骨組みも木造りと、いかにも有機的な印象を受ける。なるほど確かに、ジャミロクワイが出ていたカップヌードルのCMみたいに真っ白な部屋が待合室だったら、どんなにか居心地の悪いことだろう。
 「矢場葉子さんね。普段はどれ位飲まれます?」
 カフェインが含まれる物を、というのを言外に、先生がにこやかに聞いた。
 こういうクリニックの先生は、たいてい極力患者を刺激しないような振る舞いをする。何がきっかけで患者が心を閉ざしてしまうか分からないから、極力そうならないようにする。声は落ち着いたトーンで、患者の話を引き出して、どれだけどもっても、また質問の返答に窮しても嫌な顔一つしない。そうして、患者との信頼を築いていく。ラポールと言う奴だ。そう、何かの本で読んだ。その癖が、ただの頭痛外来で 出てくるものだと思う。半端な接客業よりもよっぽど神経をすり減らす職だろうと思って、それを見る度に感服してしまう。
 えっと、朝起きて、朝ご飯の時にだいたいコーヒーか紅茶かを二杯くらい飲んで」
「コーヒーか紅茶を、2杯」
 先生が復唱した。バックトラッキングだ、と思った。
「そのあとは昼らへんに講義があると、それに合わせてペットボトルでコーヒー買って」
「コーヒー。ペットボトルって言うと、500ミリの奴ですか?」
「そうです」
「他にも何か飲むことある?」
「 あとは夜にネットの友達と遊ぶときとかは、だいたいエナドリ飲 んでます」
「 エナジードリンク」
 先生はまた復唱すると、何かをパソコンに打ち込んで、それからひと呼吸置いて、「 どれか一つを減らす所から初めてみましょう」 と 言った。

矢場さんの歳だと、1日あたりのカフェインの摂取量はだいたい 400ミリグラムが限度だっていう風に決まってるんです。これは 厚労省が出してる量なんですけどね。ああ、そうだ。答えたくなか ったらいいんだけど、矢場さん、妊娠とか、もしくはしてるかもし れないっていう心当たりとかはある?問診票にもあったと思うけ ど、一応。無い。じゃあ、大丈夫。400ですね。コーヒーをマグ カップでだいたい3杯分。それを限度にして、だんだん飲む量を減らしていきましょう。まずは今言ってもらった中から一つ止めてみるんです。カフェインも一気に止めると頭痛くなったりとかしちゃいますからね。ちょっとずつ、減らしていきましょう。

それが、だいたい三ヶ月前の事だ。あの後、ロゼレムと言うらし い睡眠導入剤を処方された。継続して飲むことに意味があるそうだ。ついでに、併発していた目眩と肩こりの為に筋弛緩剤としてミオナールとデパスも処方された。期待する効果が違うが、晴れてデパスデビューである。ついでに、「 具体的な薬の名前を出してみる仕草」 デビューでもある。
 これらのお陰で多少は眠れるようになったが、今度は薬の効果が残っているのか日中もずっと眠い。結果が変わっていない。それで、 大学の講義を丸一日分すっぽかしたのをきっかけに飲むのを止めてしまった。あれ以来、外来にも行っていなければ、カフェインの摂取量を減らすこともできていない。ただ、あの先生美人だったな、 ということだけ覚えている。

 私がコーヒーを飲み出したのはいつだっただろうか、と考えてみた 。
 飲 んだくれの父が酒に金を注いでいたのに対抗するように、私の母はコーヒーと紅茶に熱心になった。母はコーヒーよりも紅茶の方が好みなようで、私はその逆だった。
 父が酔って物置の扉に穴を開けた次の日、母は初めて私にハーブティーを作ってくれた。カモミールとかローズマリーとか、そんな名前を聞いた気がする。それから、母が豆のまま買ってきたコーヒーを挽くためのミルを買ってきたのは、父が別居という判断のもと実家に引き取られて行ってからそう日の経たない頃だったように思う。あれは確か、私が小学三年生くらいの頃だっただろうか。 とにかくその頃から、私はコーヒーを飲むようになった。小四の夏に中学受験に向けて塾に入ると、それに合わせて飲む量も増えた ように思う。
 エナジードリンクというのを初めて飲んだのもその頃だ。塾に行く途中の自動販売機に売られていたモンスターエナジーを、何か悪いことをするような気持ちで買った覚えがある。ところが、他のジュースやお茶より一回り値段の高いそれを取り出してまじまじと 見つめてみると、不意に三本の爪痕のロゴが自分には相応しく無いように思えた。そうして、子供がエナジードリンクを飲んでいるのを見られたら怒られるのではないかと思い至った。そんな訳もない し、第一あたりは人通りが多いわけでもなかったのに、そう思った 途端とても恐ろしくなって、その場で一気に飲み干して裏手のゴミ箱に缶を捨てて、小走りで立ち去った。
 あのあと頭痛で禄に授業が受けられなかったのは、今思うと急性カフェイン中毒の一歩手前だったのだと思う。コーヒーを飲んだときのような感動は無かった。人工甘味料の独特に平板な味と、そのままならなさだけを覚えている。なにか、雰囲気とか、あるいは詩情と呼べば良いのか、そういうものが欠如していた。
 この頃の私を突き動かしていたのは、背伸びをする心、粋がりたいという心だった。同学年の子供たちが、皆なんだか自分よりも大人びて見えて、そうして自分だけがその場で足踏みしているような心地がした。そんな不安を撥ね除ける為に、ムキになっていたのかもしれない。そうして、もしかしたら、今もムキになったままかもしれない。しかし、それでブラックコーヒーなんか飲んでいるんだとしたら、それこそお笑いだ。だから、それだけは絶対に認めてはならない。私は確かに初めてコーヒーを飲んで、霹靂を覚えた。

だいたいの小学校は、小学四年生の春から部活動が解禁になる。 それで、夏がオンシーズンの水泳部なんかに先んじて活動が始まる 野球部に早々に所属していった同学年の子たちを、私は羨望と憧憬 を交えた目で見つめていた。この頃には母は働いていたから、私は学校の学童に残ってその帰りを待たなければいけなかった。そうい うとき、だいたい私はグラウンドの方まで出て行って、野球部の練習彼女らを見て、私の運動音痴を呪った。
 私が特に憧れていたのが、当時は一つ隣のクラスにいたナオとい う子だった。どんな名字なのかも、どんな字を書くのかも今となっては覚えていないが、とにかくナオちゃんと呼ばれていたのは記憶 している。
 彼女を初めて見た時── おそらく低学年の頃に同じクラスだったこともあると思うが、しかしもっと本質的に彼女を初めて見た時── は、ただただ美しいと思った。砂の土台の上に成り立つ美に戦 いた。
 その日はちょうど他校の野球部が練習試合に来ていて、皆いつもの蛍光色のビブスでは無く、きちんと仕立てられたユニフォームに身を包んでいた。その中で、淡く光を放っていたのが彼女だった。 色白な肌の上に青いユニフォームが映えて、その下には、アームカバーや関節のサポーターを兼ねているのか、黒いインナーを着ている。それが細い四肢をより一層目立たせた。そうして、それを着た彼女が走り、ボールを投げ、それで起きた土煙がユニフォームやインナーを汚すと、そのたびにそれがかえって彼女の色白なのを際立たせて、それがエロティックにさえも見えた。
 次にナオちゃんの話を聞いたのは、塾での事だった。塾の同じクラスの子たちが話している中でその名前を聞いたのだ。何故彼らの会話の中に彼女の名前が出たのか、詳しくはよく知らないが、ナオちゃんが文武を兼ね備えた才女であるらしいことは、漏れ聞こえてくる、彼女が目指しているらしい中学校の名前を聞けば分かった。 それで、ますます好きになった。

 五年生になり、クラス替えが行われた。クラス替えとは名ばかりで、どうやら私の学年は人数が少ないようで、二クラスに分けるのは非効率だと判断されたのか、学年の全員が一クラスに統一された。 つまり、私とナオちゃんは同じクラスになったのである。
 私たちは、ある程度以上には親密だったと思う。小学校の高学年になると漂ってくる、「 中学受験組の連帯感」 のようなものも作用したのだろう。ナオちゃんは相変わらず色白で、受験の為にいつの間にか野球部は辞めてしまっていたが、それでも体育の授業では抜群の身体能力を発揮して見せた。そうして、私の前で完璧な三点倒立をしてみせたあと、彼女が逆さの、頭に血が上って少し赤らんだ顔で私にはにかんだのを見ると、その頬にできたえくぼに散るそばかすさえ愛おしく思えた。
 恋だったのだと思う。断言して、あれがまさしく、嘘偽りのない恋だったのだと思う。
 だからこそ、私が出来が悪かったと思っていたテストでナオちゃんより上の点を取ったとき、もしくは、珍しく学童に来ていたナオちゃんが帰り際、泣きながら母親に「 もう塾に行きたくない」 と駄々をこねているのを見たとき、何か見てはいけない物を見てしまったような、失望のような、そうして彼女に失望のような物を覚えてい る自分に対する失望さえも覚えて、激しい頭痛がした。それで、そ れ以来、その恋心のようなものはすっかり消えてしまった。

 二限が終わると火曜日は暇だった。相変わらず不眠は治っていないが、大学受験を経て基礎体力が下がったのが功を奏したのかなんなのか、疲れて帰った日は何を飲もうがぐっすりと眠れた。そうしてぐっすりと眠った次の日がこんな暇な日だと、これが大学生の開放感かと実感せずにはいられなかった。受験の抑圧が小学校以来実に六年ぶりだったことを考えると、そこからの開放のカタルシスもひとしおだ。中高一貫校に入ると、高校受験という物を経ない代わりに、大学受験という巨大な雲が六年の歳月をかけてじりじりと地 上に降りてくる。
 私は軽い足取りで、本当に何気なく、趣味の一人カラオケに向かった。これがいけなかった。
 飲み放題付きのフリータイムで部屋に入ると、ドリンクメニューにポップ体で書かれた「ドデカサイズ」 に目がとまった。ドリンクを注文する際に「 ドデカサイズで」 と言えば、普段のドリンクがジョッキで提供されるようだ。
 サビで店員が入ってくるカラオケほど興ざめな物も無い。枕草子にだってそう書かれている。とにかく、大きなサイズでドリンクを頼めば、それだけ次の注文をするまでの間が開く。するとつまり、 店員が入ってくる頻度も少なくなる!なんたる僥倖!
 思うが早いか、私は部屋の受話器を取ると、「 アイスコーヒー1つ、 ドデカサイズで」 と注文した。そうしてカラオケを楽しんで、喉がかすれそうになっては再注文してと、三度ほど繰り返したはずだ。
 一般的な中ジョッキのサイズは概ね三五○から五○○ミリリットルだ。少なく見積もっても一リットル近くはコーヒーをがぶ飲みした訳である。だとすれば、バッドトリップに似た体験をするのも 道理と言えば道理だろう。 歌い始めて一時間もした辺りで、急激に頭が痛くなった。あの頭痛だ、と思った。
 途端に、頭痛で苦しむ自分と、それを浮いた視点でほらコーヒー飲みすぎたから、と諫める自分に分離する。メトロノームと指揮棒が全ての楽器を支配するように、カフェインで加速された拍動が精神を置き去りに思考と行動だけを加速させて行く。これではだめだと思って、上着を掴み、伝票をひったくってカラオケの部屋をあとにする。頭が痛い。フリータイムが勿体ない。
 それで、どうにか平静を取り戻すために、楽しみにしていたゲームの開発者インタビューでも聞き流して帰ろうと思った。これがとどめになった。 「 これは百合ゲーですからね、ストーリーに男は出てきません」
 ディレクターらしき眼鏡の男が軽薄そうに言って、それで平静は失われてしまった。
 父が実家に行って、母と二人暮らしになった。ナオちゃんと宙に浮いたような関係のまま、別の中学に進学した。進学先は女子校だった。そうして私の世界から、男性は長らく姿を消した。
 勿論、そういう作品にはたとえ主人公の父親であっても男性はいらないという風潮もある。しかしだ。しかしだ、と言って、その逆説から先を明確に言語化することは不可能だった。一過性、MECE 、必要十分条件、拒絶。そういった、単体では辞書的意味以上の意味を持たない言葉たちが、拍動の衝撃に押されたまま血管を駆け抜けてそのどれもが内膜を引っ掻いて行った。自己言及。ポーズとしての病み、あるいは闇。自己言及。無限の上昇。ノイズキャンセリン グ。シャッター音。
 「 講義の板書をスマホのカメラで撮って、それで済ませるのってただの記録としては合理的なんだけど、それだけでは何にもならないし、でもそいつはそれで単位が取れるんだろうし、なんというか、 ままならないよね」
 と、嘘つきのクレタ人が言った。クレタ人?いや、クレタ人は居 ない。なら誰が言った?知らない。ただ、確かに、そう思う。講義室に響くシャッター音も、ワイヤレスイヤホンも、詩情を分かった気でいることも、打ち言葉から漏れ出るせせら笑いも、二酸化炭素と人工甘味料が合わさった苦くて甘ったるい匂いも、全てままならない。それを、ままならないまま享受している。エモいって何だよ。 浅はかだ。浅慮だ。そうだ!浅慮だ!と騒いだところで、何も変わらない。ただ、そうやって周囲を腐した分だけ自らが落ちぶれてい く。もう殺してくれ、と、希死念慮と言葉にしてみると、それすら 浅はかに見える。精神は切実であるのに、言葉にした途端に、陳腐に見える。表現に技巧を凝らせば凝らすほど紋切り型になる。関係性。解釈。解像度。全部使い古された。オーバードーズもだ。死も セックスもモラトリアムも全部陳腐だ。つまりは言霊の死だ、と言ってみて、やはり陳腐。だから本当に死にたい人は死にたいと言わ ない。いや、いや、それも嘘だ。それこそ紋切り型の嘘だ。人は死 ぬ。抑えつけた下から滲む言葉だけが本物だ。そうだ。それだけが 本当だ。あとは全部嘘だ。そこにだけ、言霊もまだ生きているんだ。

 バイトリーダーが、二ヶ月ほど休みを取った。小説を書き上げたいのだと言って、申し訳無さそうに笑いながらシフト表を手渡された。
 二ヶ月経っても、彼は戻って来なかった。そうして半月程経ったころ、コンビニで見かけた文芸誌の小さな読み切りに彼の名前を見つけたとき、私は驚きよりも先に納得を覚えた。
 バイトリーダーは、脱出したのだ。それは単純にバイトリーダーというポジションからでもあったし、もっと観念的な、解放と言い換えられるものでもあった。彼は出口を見つけた。

 いつだったか、彼がこんな話をした事がある。どんな流れだった かも覚えていないが、ただ、その言葉だけはよく覚えている。
 「神はただ去ったんですよ。死んじゃいない。ニーチェは間違った。 今も、どこかでは生きている。でも、それはここでは無いんです。 神は去りました。一番初めに世界に物理の法則を無作為にプログラムして、それだけして去って行きました」
 私には彼が何を言っているのかすぐには理解できなかったし、今思い返しても完璧には理解できない。ただ、彼がそう思っているならそれで良いとも思う。事実、彼はそう思ったまま連載を勝ち取った。
「 その神っていうのは、キリスト教の?」
「 なんでも良いですよ。ヤハウェでも、天照大神でも、アッラーでも、 ゴドーでも。サミュエル・ベケットはご存知ですか?」
「 まあ、聞いたことは」
「 じゃあ、上出来です。待つことは無意味だ。去ったものを、探さなければならない」
「 すみません、あまり話が掴めていなくて」
「 大丈夫です。すみません。もう少しだけ喋らせてください。ゴゴーとディディ。そう、ゴゴーとディディ。実に簡単な言葉遊びなんですよ。それに気付かなければならなかった。初めから、神は板付きでそこに居たんです」

私はその文芸誌を手に取ると、レジへと向かった。すぐに読む気は無い。読む前に、私もひとつ小説を書こう、と思った。純文学でも、ミステリでも、SF でもラノベでも百合でもBL でも、或いはその全てが合わさった何かでも、とにかく何かを書こうと思った。
 受け取ったレシートの下に、クーポンが付いていた。いつも飲む エナジードリンクが50円引きになるそうだ。結局薬は効かなかったし、というか効き目が出る前に飲むのを止めてしまったし、カフェイン断ちもできていない。書くことは、その頭痛に脳を浸してから考えようと思う。浅はかな所から始めなければ、多分、本当の深みには辿り着けないのだと思った。いや、実際には、「 本当の深み」 なんてものには一生掛かっても辿り着けないのだと思う。でも、本当に読むべき本なんてもう令和には残っていない。当然だ。明治の 時点で、もう誰にも仁王は掘れなかった。だから運慶が現れた。死もセックスもモラトリアムも全部陳腐で、その陳腐を描き出す事が、現代の最後の抵抗なのだろうと思う。何に対しての物かは知らない。意味の無い事だとも薄らと思う。或いは、いっそそれすらも馬鹿馬 鹿しいと豪快に笑い倒してしまうか。冷笑に自我を没する事と比べ たら、そのどれもが遙かに有意義に思えた。
 クーポンは少し斜めにちぎれた。


「冬の刹那」 海鳥にーそ

 『今日は芥山賞受賞作家の永遠乃四季先生にお越しいただきました』
『はは、困りますよ。まだ、受賞はしてませんから』
『おっと失礼いたしました。でも、まだ、と言うことは受賞するつもり大ありってことですよね?』
『………あははは、……まあ、少なくとも自分なりにそうなるよう作品を書いたつもりです。ですが、他の作品も素晴らしいものばかりなのでまだ受賞するかはわからないですね』
『いえいえ、ご謙遜を。今回、先生が書いた「世界を壊して君に会いたい」は特に若い世代に大人気。それでいて芸術性も高く、評論家も絶賛。芥山賞の受賞は確実間違いなし、これで違えば、審査員 の目は節穴だ、とまで言われています。先生自身も異例の天才新人作家と話題持ちきりですよ?』
『そう言ってもらえるのはうれしい限りです』
『もちろん私も読ませていただきました。いや~ほんと素晴らしか ったです!』
『ありがとうございます』
『そんな先生の書いた「世界を壊して君に会いたい」は最愛の人と死に別れた主人公が悩みながら成長していくというストーリーな んですが、モデルになった人とかいるんですか?』
『恥ずかしながら、ヒロインは過去に私がお付き合いしていた女性をモデルにしています』
『ということは、この作品は先生自身の失恋経験などを参考にしたりして書いているんですか?』
『そうですね…… はい、私自身の経験をもとに書いてます』
『実際に経験されたと…… えっと、失礼ですが、そのモデルとなっ た女性の方は実際にお亡くなりに…… ?』
『ええ、そうです』
『それはつらい経験しましたね…… 』
『そうですね…… 結構つらかったですね。お恥ずかしながら、ここ最近まで何も手付かずの状態で、ずっと家に籠りっぱなしでしたね』
『でも、先生はそのつらい失恋経験を乗り越え、芥山賞候補作家に なったということですよね?それはすごい、まさに先生自身がまるで物語の主人公のようですね』
『あはは、恐縮です』
『先生の作品がその恋人さんに届くと良いですね』
『そうですね…… 僕の作品が届いてくれると…… 嬉しいです』
『では、最後に。今後の先生の意気込みをお願いしてもいいですかね』
『はい、芥山賞を獲れるかはわかりませんが、結果がどうあれ、僕の作品を読んでくださる読者の皆さんの期待に応えられるような作品をこれからも作っていきたいと思っています』
『はい、ありがとうございます。私も先生の書く作品楽しみにさせていただきます』
『以上、芥山賞候補作家の永遠乃四季先生でした』
 アナウンサーがそう締めくくるとテレビの番組は自分を題材にした特集から別の特集に変わった。それに伴い僕はテレビを消す。 テレビに映る自分を眺めるというのは何とも奇妙な気分だ。芥山賞が発表されるのは今から約一時間後。だが、気持ちが浮足立つといったことはなかった。それもそのはず、つい先ほど自分の作品に受 賞が決まったとの連絡がきたのだ。受賞者ということで真っ先に知らされた。公に発表されれば、僕のもとにインタビューが殺到するのは明白で、忙しくなるだろう。
 とはいえ発表されるまでに時間はある。僕は休息をとるべく、自分以外誰もいない部屋のソファーに深く座り込み目を閉じた。世界が閉ざされ現実との境界があいまいになり、自分という存在が希釈され意識が薄れていく。それに逆らうことはせず、ただ身をゆだね、そして記憶に海に沈んだ。

 物心ついたときから破壊衝動があった。 ただ壊したいのではなく完成寸前まで必死に突き詰めたものを壊したいというものだった。 それでも最低限の常識はあったので、それが表立って出すということはなかった。
代わりにそれは創作という形で、僕はそれを発散—— 表現するようになった。
 主には小説を書いていた。
 物語を緻密に丁寧に自分が作り出せる限り最高の形で書き出していき、そして壊す。物語がクライマックスを迎えるかというタイミ ングで盛大に、理不尽に、思いっきり壊す。 これを色んな形で繰り返した。主人公とヒロインの関係性を壊したり、主人公を殺してみたり、はたまた世界そのものを壊してみたり、 時には作品そのものを壊したりと。そうして物語を作っては壊し、 自分の中に沸きあがる欲求を満たしていた。
 中学生ぐらいの頃、一度だけ周りに完成した作品を見せてみたの だが、返ってきた感想は「よくわからない」とか「難しい」と反応 は渋かった。それ以降、書いた作品を周りに見せることはやめた。 ネットにも一度だけ上げてみたのだが、こっちの結果は散々。返ってきた感想は
『途中まではいいのに最後の方、残念すぎる…… 』『意味が分からん w』『これ結局、何がしたいですか?』『予算のなくなったサメ映画 かよw』 こんなのは序の口。まだマシだ。挙句の果てには
『この作品気持ち悪すぎる』『これ書いたやつ頭おかしいだろw』  
 なんて、誹謗中傷に近いコメントも書かれた。というより、そのものだった。
 別に他人に理解をしてほしいわけではなかったのだが、いささか傷ついた。とはいえ、もともと自己満足で書いているものだから別に何を言われようが良かったのだが。それ以降、ネットに上げるの もやめた。
 その後は、自分の欲求を満たすべく小説を書き続けながらも、高校、大学と無難に進学をしていった。大学に入学してからもそれが変わることはなかった。 だが、大学に入ってから一年目の冬、僕の世界は一瞬で変わった。 ある一人の少女との出会いによって。 それは冷たい桜の舞う季節だった。
 始まりは教室に原稿用紙を忘れたことだった。その日最後の講義のプリントと共に教室に置いてきてしまったのだ。量は10 枚程度で、一か月ほどかけて作成した短編小説を書いた原稿だった。普段は原稿用紙に書くことなどないのだが、わざわざ原稿用紙に書いたのは、誰かに見せるためといった理由ではなく、単にあとで燃やして楽しもうというものだった。
 急いで教室に戻ると、一人の女の子が件の原稿用紙を手に持ち、 眺めていた。凛とした顔立ちのサラリとした長い髪が綺麗な女の子だった。その子は慌てて戻ってきた僕に気がつき、話しかけてきた
「これ、あなたが書いたの?」
「えっと…… まあ、そうだけど…… 」
「ひとついいかしら?」
「あーっと…… なにかな?」
 あんまりおもしろくなかったのだろう。その時の僕は最初、馬鹿にされるか酷評のひとつでもされるのかと思っていた。僕にとっては慣れたものであって、予測はできていたので、何を言われても問題はなかった。だからこそ、僕は彼女が次に発した言葉に意表を突 かれた。
「本ッッッ当、最高よ、これ!」
「そ、そうかな?」
「うん、うん。そうよ。ねぇ、これどうするつもりなの?」
「えっと、びりびりに破いて捨てようかなって…… 」
 正直に燃やすとか言ったらさすがに引かれそうなので破るということにした。さすがに僕でもそのぐらいの常識はあった。まあそれでもどうかとは思うが。
「それ、本気で言ってる?」
 案の定、返ってきた言葉は僕の予想通りだった。なので、もったいないとか正気なのかという意味で言ったのだろうと思っていた。
「まあ…… うん…… というか、そのつもりで書いたものっていうか …… 」 「……… なにそれ」
普通に考えれば僕の行動が理解されないのは分かっていた。だが同時に、こればかりは変えることができない性でもあった。だから理解されなくても仕方がない。しかし、彼女から返ってきた答えはまたしても僕の予想を裏切った。
「—— すっごい最高じゃない!」
「そ、そうかな…… ?」
「うんうん、そうよ。最高すぎてそれ以外の言葉が思いつかないわ。 あなた天才よ。それ私も一緒にやってもいいかしら?」
 初めての理解者を得られた僕は舞い上がり、ふたつ返事で答えた。
「うん。いいよ」
「あなた、名前は?」
「僕は望月、望月志貴」
「そう、望月志貴ね。私は凩雪奈よ」

 その後、彼女に原稿用紙を半分渡し、二人でビリビリ破いた。燃やすつもりが破り捨てることになってしまったのだが、気分は爽快でいつもより気持ちがよかった。
 それが始まりだった。僕は初めて恋をした。 刹那の恋だった。 それからというもの僕は凩雪奈と交流を深めていくことになっ た。 一緒に映画館に行って、ホラー映画やスプラッター映画を見たり、 意味の分からない遊びをして楽しんだりした。
 やがて恋人になり、同棲するようにもなった。
 そうして何事もなく、幸せな、満たされる日々が続いた。

 だが徐々に違和感が僕をむしばむようになった。
 雪奈と出会ってから半年ほど経ったころだった。いつものように 書いた小説を雪奈に見せた時だった。僕は作品が出来上がると真っ先に雪奈に見せた。そのたびに彼女は喜んで読んでくれて、いつも面白いと言ってくれた。たとえそれを言ってくれるのが一人だとし ても、彼女にそう言ってもらえるなら、僕はそれで十分だった。そ れが何よりも僕を満たしてくれた。だけど、その日は違った。 
「ん~、なんか、いまいちね…… 」
 彼女はどこかスッキリしていないような表情でそう言った。彼女は自分が思ったことをはっきり言う。そのせいで彼女はあまり友達がいないのだが、僕は彼女のそういうところが好きだった。だからこそ、その言葉がショックだった。
「そうかな?どこらへん?」
「そうね、途中まではすごくいいの。でも最後がいまいち。なんか、あなたにしては思いっきりがないというか…… そんな感じね」
 言われてみれば、 そんな僕を見て、雪奈は励ますように言った。
「まあ、そんな日もあるでしょ。それよりも志貴、映画見ましょ?」
「うん、そうだね。そうしよう」
 それからも調子が戻ることはなかった。むしろ、日に日に悪くな っていった。それは僕にも目に見えてわかり、焦りを感じた。ありていに言うと、スランプに陥ったのだ。
 それでも雪奈は僕を励ましてくれた。またきっと元通りになると。そう言ってくれた。 しかし、そのたびに僕は、彼女に飽きられてしまうのでないかと、 見限られるのではないかとびくびくと怯えるようになっていた。
 どうにかしようと書いては消して、を繰り返した。だが出来上がる作品は凡庸もいいところで中途半端な作品ばっかりだった。 そして繰り返すうちに気づいてしまった。なぜこうもうまく書けなくなってしまったのか。それは簡単なことだった。
 壊せなくなっていたのだ。
 雪奈と過ごしているうちに、いつしか壊すということに億劫にな っていたのだ。積み上げてきたものを壊すということがどれほど恐ろしいことなのか本当の意味で僕は知ってしまったのだ。
 その日、彼女に打ち明けた。ありのまますべてを打ち上げた。君と過ごすうちに僕は今までのように壊すことができなくなった。これを解決するには君との関係を壊さなければならない。だけど、君との関係を壊したくないと。
 雪奈は僕の言葉に、心配しないでいいわ、と抱擁で受け入れてくれた。その瞬間、僕は彼女の胸の中で情けなく泣いた。そこからはずっと雪奈のぬくもりを掴んで離そうとしなかった。
 その日の夜が彼女を抱いた最後の夜だった。
夜中にふと目覚め、何か物足りなさを感じて、隣に雪奈がいないことに気づいた。
 机の上に合鍵が置かれた状態で、彼女と彼女の靴が部屋からいなくなっていた。 僕はすぐに外に飛び出した。そして、必死に探した。探して、探 して、探しまわったが彼女、雪奈は見つからない。最終的に雪奈と恋人になった場所、小さな湖のある公園にたどり着いた。
 ようやくここで彼女の痕跡を見つけたが、それを見て僕は呆然とした。 湖に部屋からなくなった彼女の靴の片方が浮かんでいた。
 僕はよろけて、すぐ近くのベンチに倒れるようにして深く腰をついた。  そのベンチは雪奈と初めてキスを交わした場所だった。
 何回かに折りたたまれた一枚の原稿用紙があることに気づく。広げると原稿用紙の最初の行には「志貴へ」と僕の名前が書いてあった。そして、数行の文章が雪奈の文字でつづられていた。

—— ごめんなさい、私があなたの邪魔になっていたのよね。私はあなたが好き、今でもね。だからこそ、私はあなたに前みたいな作品を見せてほしい。
—— だから私なりにあなたを真似てみたのだけど、どうかしら?上手くできてるかしら?あなたの評価が気になるわね。
—— もう一度あなたの作品を見せてほしい。私の大好きなあなたの作品を待ってるわ。

「…… はは…… は、ははははっ…… 」 ただ僕は笑った。

—— なんだ、簡単なことだったじゃないか。こんな簡単なことを僕は忘れていたのか。

「ああ、書くよ。完成させて君に見せる。だから少し待っていてほ しい」

—— ああ、今なら書ける。物語は思いついた。筋書はすでに考えた。 結末も完璧だ。

—— 君が教えてくれたから。

—— だから作り上げようこの作品を。僕が作り出せる最高の傑作を。

—— この刹那の衝動に身を委ねて。

—— 僕のすべてを言葉に乗せて。

—— 書こう、君に送る物語を。

—— いまここから、始めよう。

……
…………
……………………

 少しずつ意識が浮上し始める。
 それからというもの僕は部屋に籠り、小説を書くことに没頭した。 大学にもほとんど行かなくなった。幸い、周りは恋人を失って悲し みに暮れているのだろうと特に深くかかわろうとはしなかった。こ っちとしても干渉されない分、気が楽だった。
 それからはただ一心に書き続けた。そして一年経った頃、小説は完成した。
 タイトルは『世界を壊して君に会いたい』。本来なら交わることの ない別の世界どうしに生きる少年と少女が出会い、似た者同士の二 人は恋をする。一度は世界の壁に阻まれ別れるも最後には主人公で ある少年が世界を超え少女と再会し結ばれる恋の物語だ。
 僕は作品が出来上がるやいなや、すぐに著名な新人賞に応募した。 結果は見事に受賞を果たした。その後、本として出版され、異例の ヒットとなり、かの名高き文学賞である芥山賞の候補にもなるまで に至った。
 そして、先ほど受賞の電話が来た。もうじき正式に発表されるこ ろだ。  ここから先、僕は明るく、輝いた人生を送ることとなるだろう。 誉れ高き芥山賞をとった作家。異例の天才新人作家。世間では僕のことそう呼ぶであろう。
 そして思う。この名声は君に届いているだろうか。この作品は君に届くだろうか。この作品を君は気に入ってくれるだろうか。
 —— プルルルルルル
 突然、携帯電話がなった。電子音の和音によって微睡の虚構から現実に引き戻される。僕は余韻が残る重たい瞼を開けると、電話を手にとった。
 すると朗らかな男性の声が聞こえた。
『もしもし、永遠乃四季先生の電話であってますでしょうか』
「はい、永遠乃です」
『あ、私は笠見書房編集部の編集をやっております赤坂というもの です』  笠見書房といえば、誰もが知る大手出版社だ。その編集長ともな るとかなりの大物だ。赤坂を名乗る男は話を続けた。
『ぜひ芥山賞受賞作家である永遠乃先生の作品をうちで出版させ てもらおうと思いまして、はい。ご連絡させてもらいました』
「はは、まだ一応、受賞はしてないですよ」
『おっと、そうでしたね。これはとんだ早とちりをしてしまいました 』
芥山賞の受賞はまだ外部には発表されていないはずなのだが、さすがは大手出版社の編集者。なにかしら伝手があるのだろう。
『とまあ、冗談は置いときまして。どうです?書きませんか?』
「僕でよければ書かせてもらいます」
『ありがとうございます。よかったー、断られるかもと思いましたよ』
冗談交じりの口調に思わず苦笑してしまう。
「それで題目とかは?」
『いえ、そういうのは特に決めていないですね、先生には自由に書いてもらおうと思いまして、はい。ですから、先生は題目とかそういうのに縛られず自由に書いちゃってください』
「でしたら、ちょうどいま、あと少しで完成する未発表の作品があるんですが」
『ほうほう!詳しく詳しく!』
「『世界を壊して君と会いたい』よりも前から作り始めたものでし て、あとほんの一ページで完成するんです。よかったらそれを見てもらえたらと」
『その話、ほんとですか!ぜひ!ぜひ私に見せてください!』
「はい、自信はあるのでよろしくお願いします」
『おお、それは期待できますね!ありがとうございます!いや ~芥山賞を獲った永遠乃先生の次回作を出せるだなんてラッキーですよ~、と、おっとっと、そういえば永遠乃先生はこの後、授賞式があるんでしたね。あははは、ごめんなさい、永遠乃先生に引き受けてもらえてつい浮かれてしまいました。では、この話の続きは今度にしましょう。詳細は追って連絡しますので』
「はい、わかりました。連絡の方、待ってます」 『はい。それではいったん失礼します』
完全に通話が切れたのを確認して、携帯電話を再び机の上に置い た 。そして、もう一度ソファーに深く腰掛け、独り言を呟く。
「ようやくだ。ようやくこの作品は完成する…… !」
『世界を壊して君に会いたい』は僕が、今までの人生の中で書いた作品の中では一番出来のいい作品だ。これからこの作品は僕の最高傑作として世間一般では扱われるだろう。 だけど、あれは僕にとって最高傑作なんかじゃない。本当の傑作は今もなお手掛けているこの作品に他ならない。あれはいま僕が手掛けている作品を最高傑作に仕立てあげる舞台装置に過ぎない。
 
 これを見せればきっと彼女はまた喜んでくれるだろう。
 ただ一言、最高、と言って前みたいに褒めてくれるだろう。 だから僕はこの作品を完成させなければならない。 最高の作品の最後には最高の1ページが必要だ。 僕は立ち上がる。

 ありもしない最後の1ページを書き終えるために。


「アメリカで警察のお世話になった話」 もるびっち

 魔女狩りの街セーラムに行きたい、と思ったのが発端だった。帰国予定日 が迫る三月最後の長期休み、折角留学しているんだしアメリカ国内を旅行し ないともったいない。そんな気持ちでセーラムに近く名所も多いボストンを 選んだ。ボストンはヨーロッパからの入植者が最初にアメリカ大陸に作った 都市の一つで、ボストン博物館やハーバード大学を擁する歴史豊かな街であ る。六日間に渡る一人旅は、最終日を除けば、特にトラブルもなく楽しいも のだった。純粋なボストン旅行記はまた別の機会にするとして、今回はその 最終日に起こったトラブル群について書いていきたい。

 旅程最終日、最後にローカルマーケットで生牡蠣を味わった私は、余裕を 持って出発予定の二時間前には空港に向かおうと考えていた。帰りの飛行機 は十八時発なので、十六時に空港に居れば良い。ローカルマーケットは空港 までバスで十五分程度の場所に位置しておりまだまだ時間はある。しかし、 今から新たに観光スポットを見つけて移動するのも億劫だ。雨が降っている 上、日本から持ってきた傘は今朝開いた瞬間真ん中から軸が取れてしまった。 そういうわけで、少々早いが空港で二時間ほど時間を潰そうと決めた。六日 間見知らぬ土地を歩き回ったのもあって、心身ともに帰宅モードになってい たのだろう。

 グーグルマップで「here to Boston airport 」と検索すると、一瞬で公共交通機関のリストが出てくる。十九分のブルーラインが良さそうだ。歩いてすぐのバス停でチャーリーズ・カードを準備しつつ空港行きバスを待った。 チャーリーズ・カードとはマサチューセッツ州の公共交通機関が発行している電子乗車券で、日本のスイカやマナカみたいなものだ。私は7days パスを購入していた。22.5 ドルで七日間バスや地下鉄、一部フェリーまで使い放題である。大都市ボストンは車社会のアメリカには珍しく公共交通機関が発達しており、これさえあればどこでも行けると言っていい。

 時間通りに来たバスに乗り出発を待った。19分発のはずなのに、25分になっても出発しない。まあ珍しいことでもないので座っていると、近く のおばさんに
「このバスはガバメントセンターに行きますか?」
 と聞かれた。申し訳ないがこちらも旅行者なので分からない旨を説明する と、oh,okay と運転手に尋ねに行った。どうやらこのバスで良かったようだ。 待てよ、ガバメントセンター?手元のグーグルマップを確認したがそんな停 留所は見つからない。もしかしてバスを間違えているのは私の方だろうか。 通りすがりのお姉さんに確認すると、
 「このバスはボストン郊外に行くから… 空港は通らないわよ」
 と丁寧に教えてくれた。道理で出発しないわけだ。リュックを背負い直し てバスを飛び降りた。

停留所には他のバスは見当たらないのに、手元のグーグルマップにはブルーライン··· 出発済みの表示。辺りをしばらく見回していると、停留所向かいの立派なドアの隙間から地下鉄のチケット売り場が見えた。マップ上では正しい位置にいたので気付けなかったが、どうやらバスの停留所の真下に地下鉄の駅があるらしい。なんてややこしい。同じような失敗を鶴舞駅でもやったな… と思いながら駅の方へ歩き出す。あとは電車に乗ってairport 駅で降りるだけだ。長い旅行だったけど、荷物も無くさずトラブルにも遭わなかった。良い旅行だったな〜と余韻に浸りながらポケットの財布に手を伸ばした。そして気づいた。…… 無い。財布が、無い。

私はいつも財布をズボンの前ポケットに入れている。長めの上着で隠れているのでスリ対策になるだろうと思っているからだ。ところが、服のどのポケットにも、リュックの中にも見当たらない。落としたとは思えないが現在地点から歩いてきた道を辿った。横断歩道にも、路肩にもない。バスだ… !私はアメリカに来てから今までバスで二回学生証を無くしている。立ち上がるときにポケットから滑り落ちてそれに気づかないのだ。絶対にバスだ。そう思った瞬間、バスが発車した。スッと血の気が引いたのが自分で分かった。追いかけて止まってくれるとは思えない。州営バスで検索をかけて、紛失物のページへ飛んだ。電話番号が五つ示されている。路線によって連絡先が違うらしい。どの路線だったかなんて覚えていないので、そのうちの一つに適当にかける。自動音声が悠長に
 「只今混み合っております… お問い合わせは1を、路線の質問は2を… 」  と応答しだした。望み薄だが一応、財布を無くしたので見つかったら連絡 してください、と留守電を残して切った。財布の中にはクレジットカードが 入っている。悪用されたらたまったものではないので、アプリから利用の一 時制限をした。時刻は十三時半、何にせよ飛行機には乗らねばならない。フ ラフラしながら駅に戻った。やはり歩道にはない。改札前で再度リュックを 探した。無い。空港にはインフォメーションセンターがあったはずだからそ こで相談してみよう、とりあえず電車に乗ろう、とチャーリーズ・カードを 出しかけて、財布に入れていたことを思い出した。現金もクレジットカード もないので切符を買うこともできない。スマホで決済もできない。私の支払 い能力は今ゼロだ。ここから空港までを徒歩で検索した。空港エリアと今い るノースエンドエリアの間には海が横たわっている。地下鉄は海中トンネル を通っているため、行きたければ初春の海を泳いでいくしかない。あれ、も しかして詰んでる… ?まさか帰宅直前にこんなことになるなんて。呆然とす る私に駅員が近づいてきた。明らかに困っていたからだろう、大丈夫?と声 をかけてくれた。この一言で何故か涙腺が崩壊。二十歳成人済み大学生まさ かの大号泣である。う゛っう゛っと汚く泣きながら状況を説明した。
 「財布をバスで無くして… カードとか全部入れてて… 」
 『紛失なら連絡しましょう』
 「しました、でも夕方のフライトまでに見つかるとは思えなくて… 」
 『…… 』
 駅員の方も扱いに困ったのだろう。
 『取り敢えずここは通してあげるから家には帰れるわ。泣かないで、きっ と上手くいくわよ。(every thing will get better) 』
と改札を通してくれた。情けない話である。

泣きながら間違えて反対方向の電車に乗り、次の駅で降りて空港行きに乗 り直し、なんとか空港駅に到着した。ボストン空港はかなり巨大なため、空港駅から各ターミナルに高速バスが出ている。涙は収まっていたものの情緒はグズグズで、高校入学の時に親が買ってくれたやつだったのに… と財布への愛着を思い出してはどんよりしていた。インフォメーションセンターは空だったので、そこの駅員にこの駅に落とし物センターはあるかと尋ねてみる と、既に連絡した州営バスの紛失物ページを見せてくれた。ただ前回はバス の路線が分からず適当に連絡したので、バスの特徴を話せば路線が分かるか もしれない。覚えている限りの特徴を話した。オレンジの車体でボストン郊 外に向かい、ガバメントセンターとstate に停まる。Express と表示が出ていた… 等々。しかし、特徴だけで「フム… それはおそらく〇〇方面の路線ですねェ!」と言える鉄オタ的職員はアメリカにはいない。そこで、路線番号を特定すべくバスの停留所の名前と当時の出発時刻で検索して時刻表にたどり着いた。十九分にstate に到着するローカルバスは…ROUTE99 しかない。該当の連絡先に電話した。今度は職員が応答してくれたので再度状況を説明した、が、忘れ物は各バスのガレージに収容されるのでバス番号が分からないとどうしようもないらしい。路線すら知らないのに覚えているわけがない。 忘れ物センターくらい作れよと心のなかで八つ当たりしつつ通話を終えた。 忘れ物センターがあったところで取りにいける時間はないし、そもそも届け られている確率はかなり低いのだ。この時点で私は財布を諦めた。

切符が買えないので、ターミナルまで高速沿いを歩いていくことにした。波乱続きの帰路だが、ここで新たな問題が浮上する。スマホの電源が残り15% だ。電子空港券なので少なくともチェックインまでは保たせなくてはならない。あまりスマホのマップをチェックしないようにしながら高速沿いを歩いていくと、いつのまにか明らかに人が歩いてはいけない所を歩いていた。 自分の目指すターミナルの位置も定かではない。小雨の中、松や枯れた花を 掻き分け、高速道路を横断して分離帯を歩いたりしているともう、どうにで もなれ〜〜☆という気分になってくる。財布の中にはクレジットカード、5ドル、クオカード3枚、日本の大学の学生証、チャーリーズ・カードが入っ ていた。クレジットは止めたし、旅行の最終日なら失くすタイミングとして はマシな方だ。学生証はまた作り直せばいい。唯一財布を無くしたことは惜 しまれるが、五年使えば財布も成仏してくれるだろう。私は絶望と謎のポジ ティブ思考で頭がおかしくなっていた。こういうときはツイッター(X )で笑 い話にするのだが、詰んだw と呟く電力すら惜しい。人は本当に追い詰めら れている時、ツイッター(X )などできないのだと知った。とうとう分離帯の 先、横断したら轢かれそうな八車線に出てしまった。後にも先にも行けない。 この時点でフライトまであと一時間半、充電は10% だ。ブンブン行き交う車を見ながら突っ立っていると、少し先に警察車両が速度違反の車を捕まえて いるのを見つけた。渡りに船とはこのことだ。旅の恥はかき捨ての精神で状 況を説明する。
 「こんにちは!助けていただけると大変嬉しいんですが財布を無くしちゃって切符買えなくて笑。歩いてきたんですけど迷ったんですよね!フライトまで一時間なんですけどターミナルA ってどう行けばいいですか?!」
警官は、財布を… うん… 、と聞き終わると
 「ok, 君はhighlight にいるようだね」
と言った。まあ間違いなくこの旅のハイライトではあるだろうが… こころ なしか顔が笑っている。それを誤魔化すように
 「車に乗って、ターミナルA だね?」
 とstate police と記されたドアを開けてくれた。パトカーの後部座席は感染防止が目的ではなさそうなアクリル板で仕切られており、私の席では中からドアが開かないようになっていた。要は容疑者席だ。ターミナルA までは一瞬だった。車の中では、つい数時間前は呑気に牡蠣食べてたのにな… まあこんな経験できたならいいか… と思っていた。警官にお礼を言って、すぐにチェックインをした。そこから搭乗、帰宅までは滞りなく進んだ。

 夜九時、なんとか寮に帰ってきた後クレジットカードの完全停止申請をし た。心は無だった。代わりのカードを送ってもらわないといけない。それま では大学のカードをチャージしていた分で生きていかねば。旅行前に備蓄食 料を買いこんでいたので、帰国まで何も買えなくてもまあ耐えられるだろう。 水はタダだし。そんな目算を立てつつ寝た。
 
 これが、今これを書くに至るまでの経緯だ。一切の支払いができないのは 大問題だし、長い付き合いの財布を失ったのも痛いが、ボストンは素晴らし い所だった。それについては別の記事で書きたい。これを読んであなたが笑 ってくれればこの経験も無駄ではない。そしてもしあなたがボストンを訪れ、 茶色い革の折りたたみ財布を見つけたら、ぜひ日本に持って帰ってきて頂き たい。因みにクレジットカードを財布ごと失くしたことを親にはまだ言えて いない。言わずにすむなら後二か月なんとかやり過ごしたい。  

追  記 
 こ の文章は旅行から帰ってきた直後に書かれたものであるが、この後さら にトラブルを引き起こしたので書き加えておきたい。 クレジットカードを注文し、一か月程度で届く目算がたった私は、これを 機会にダイエットしようと毎日サラダを食べ学生利用無料の学内ジムに通っていた。サラダは寮内の食堂のなかで最も安上がりで、たんぱく質もとれるありがたいメニューだったのである。しかしながら、当然お腹は減る。ルームメイトや友人に奢ってもらうにも限界があった。 何かないかと自分の机を漁っていると、いくつかの飴と一緒に生米の小袋が出てきた。留学初期に自炊をしようと購入し、キッチンの遠さに心が折れて使わなくなったものだった。ここで私に天啓が降りる。レンジで炊飯できるやん!キッチンは別の棟にあり、鍵を借りなければならないが、レンジは各階に備え付けてあった。
 私はさっそくマグカップに水を注ぎ、米を少しゆすいで皿で蓋をし、レン ジのボタンを押した。
 するとなんということでしょう。水がレンジ内にこぼれる、米がちょっと 固いなどの改善点はありつつも、食べられるものが完成したのである。これ は発見だった。
 その後はレンジで米を炊く方法をスマホで調べ、加熱時間を調整しつつ、 安定してそれなりの米を食べられるようになったのである。付け合わせはた いがい食堂で配布している塩コショウ、ケチャップなどであったが、充分幸 せだった。
 そしてその日は訪れる。いつものようにマグカップ炊飯をセットし、いつ ものようにレンジで加熱した。数分後、見に行くとなにやら少し変な臭いが した。嫌な予感はありつつも、寮内で異臭がするのは日常茶飯事だったため、 レンジを開けると、黒い煙がうすく立ち上った。上った先には火災報知器。 次の瞬間に寮内の火災報知器が鳴り始め、部屋から学生たちが飛び出してき た。私の住んでいた棟は千人ほどを収容できる棟であり、かなりの数の学生が一階まで階段で避難していた。同じユニットに住むアビーが逃げないの?と声をかけてくれたが、私は犯人なので逃げるわけにもいかず、恐らく来るであろう管理スタッフに弁解する準備をしていた。数分後、階段で数名の警官が登ってきた。私の心臓は縮みあがった。この寮の前には学内の警察駐在所があり、何かあれば出動してくれる。常時であれば心強い存在だった。彼らは突っ立っている私を見てん?という顔をし、レンジの中のマグカップを取り出した。黒焦げだった。トランシーバーで「burned rice! 」と連絡を入れている。
 窓を開けて換気をし、私は女性警官から住所と連絡先を聴取された。冷や 汗ダラダラ、白目剥きかけの私を安心させるためか、女性警官は、
 「よくあることよ、ピザとかね。この前はポップコーンだったわ」
 と安心させてくれた。実際、私も何度か避難しており、よくあることではあると知っていた。そして、階段で戻る学生たちが犯人に悪態をつき、
「この前の避難、○階の奴がポップコーン燃やしたらしいよ」
 程度の情報が出回ることも。そうこうしていると、外からサイレンが聞こ えてきた。高層ビル用の大型消防車が二台、こちらに向かってきていた。頼 む、頼む、通り過ぎてくれ。別件であってくれ。そんな願いも空しく、二台 は寮の前に停まり、ほどなくして戻っていった。
 警察と消防が去り、学生たちが戻ってくる前に、私は黒こげのマグカップを捨てて証拠隠滅した。自分の愚かな行動でどれだけの人に迷惑をかけてしまったのだろう。申し訳ない気持ちでいっぱいだった。申し訳ない気持ちでいっぱいだったので、戻ってきたアビーに事の顛末をゲロった。アビーもまた、よくあることよ、この前はポップコーンだったし、と励まし、誰にも言わないから安心してね!と言ってくれた。後日、あれ誰だったんだろうね、という会話に私も米も出てこなかったので、彼女は本当に口が堅かったのだ と思う。
 私は最後の期末テストの期間に、三千語の反省文か面談を選ぶよう通告を 受け取った。さもなくば退寮である、とのことだった。三千語は長く、加え て皮肉っぽく書いてはならないという制約があった。米を焦がして火災報知 器を鳴らしたことについて、面白くならないよう、皮肉にならないように書 くのは一周回って面白かった。
 当時、ボストン財布紛失事件については笑い話にしていたものの、多くの 人に迷惑をかけた米爆発事件については日本の大学に伝わり留学中止にな ることを恐れて文章にしなかった。今なら時効だろう。


「不撓の高潔と未熟な純潔 学祭版」 宿身代の悪魔

(前号に掲載した前編部分に若干の修正を加え、新た に中編部分を加筆したものとなります)

「君、大丈夫かい?」 — — 降りしきる雨の中、腰が抜けて立てない私に 差し伸べられた手。この光景を忘れることは、二度と無いだろう。それほどまでに彼女… … 『高潔なる マグノリア』との出会いは鮮烈で、かけがえのない ものだった。


一.邂逅

「い… … いや、来ないで… … 」
 普段は天頂で輝く銀月の光も雲で遮られ微かなものとなり、冷たい雨と闇に包まれながら、少女リリィは絶体絶命の窮地を迎えていた。入り組んだ遺 跡で逃げ惑っていたが、遂にひと際大きな碑に逃げ道を塞がれた場所で囲まれてしまったのだ。周囲には四対の黄色い光が爛々と揺らめいている。
 大ネズミ—— 永遠の満月に照らされし地、ゼーゲタディのいたるところに生息する、この地の数ある脅威の一つ。一対一では大したことはないが、常に 複数体の群れを形成し数の力で獲物を貪る。熟練の戦士であっても油断をすれば後れを取りかねない 危険な相手に、現れたばかりの『いしずえ人』であるリリィが敵うはずはなかった。
 右手で『闇鉄の短剣』を闇雲に振り回すもあっさりと躱され、為す術無く押し倒されてしまった。リ リィを抑えるひと際大きな個体が牙を剝く。歪な門 歯が眼前に迫り、あまりの恐怖に思わず目を瞑ってしまったその時。 「はあぁぁぁぁっ!!」 「— — ぇ」ぐしゃっ、という音とともに、不意に身体の重み が消え失せた。気づけば周囲のネズミ共の気配も消 えている。恐る恐る瞼を上げると、一人の若い女性がそこにいた。
 一七鱗( 一鱗=10 ㎝、一七鱗は170 ㎝) ほどの背丈 の半ばほどまで伸びた紫色の長髪。胸甲を身に着け た胴からは、微かな橙と青の二色の光が放たれてい る。そして何より、髪と同じ色の双眸に宿る、強烈 な意志の煌めき。 「君、大丈夫かい?」
 その瞳の輝きに目を奪われながら、リリィはこれまでのことを思い出していた。


【石ころ】 何の変哲もない路傍の石。目端の利く者は投擲に向いた形状のものを的確に選び抜き、貴重な遠距離武器として携帯する。

石ころ集めを笑う者は、野鳥の脅威を知らぬ未熟 者である。


二.始まり

「… … … … ん、んぅ… … 、っ!? こ、ここは… … ?」
 白髪の少女、リリィが目を覚ますと、そこはまるで見覚えのない場所だった。精緻な彫刻が施された 柱が規則正しく立ち並び、壁に灯る翠色の灯が内部 を優しく照らす。部屋の中央にはそれ自体もぼんやりと光っている棒のようなものが突き立てられて いた。ふと振り返るとそこには祭壇があり、周囲と 同じく翠色に輝く珠が鎮座していた。
 思わず手を伸ばしたその時、背中から声がかけられた。
「目を覚まされたのですね、『いしずえ人』よ」
「ひゃっ!」
 思わず肩を跳ねさせ、慌てて振り返ったリリィの目に映ったのは、闇から滲み出たような深い黒色の衣を纏った女性だった。フードを深く被り、口元しか伺うことが出来ない。どこから出てきたかもわからない彼女に思わず後退ったリリィに構わず、その女性は語りを続けた。
 「私は『闇の巫女』。新たに現出なさったいしずえ人 様をお導きする役割を担っております。新たなる 『いしずえ人』よ、貴女は与えられた祝福と使命について、知らなくてはなりません」
「使命……?祝福……?」
「はい。貴女方『いしずえ人』は、闇竜様の加護を受けし存在。しかし、その祝福は同時に使命までも齎すのです」
 そういうと、『闇の巫女』と名乗った女性はまるで状況が呑み込めずにいるリリィの前に跪き、手を差 し出した。
「どうかこの手をお取りください。さすれば、自ずと理解なされるでしょう」
 言われるが儘にその手を握った瞬間、リリィの視界は闇に呑まれた。 辺りの全てが真っ黒。一筋の光明さえもなく、足元の感覚すらも失われ、ただ闇に揺蕩う自分だけが 認識出来る、そんな世界の中で。リリィは確かに、闇竜の声を聞いたのだ。 ふと気づけば、リリィは元居た場所に戻ってきていた。目の前には跪き、こちらの手を握ったままの 『闇の巫女』が頭を垂れているのが見える。不思議なほどに落ち着いた心持ちで、リリィは静かに手を振りほどき、自らの身体を確認した。軽い布の服に、 動きを阻害しないように膝上丈のスカート。そして足を守るロングブーツ。 ぼんやりと両の掌を見つめていると、『闇の巫女』 が立ち上がった。
「… … 無事、ご自覚なされたようですね」
「はい。… … まだ、実感は湧きませんけど」
「それはそうでしょうとも。しかし貴女は、確かに今、『いしずえ人』として覚醒したのです」
「最後の確認をしましょう。貴女の使命はなんです か?」
「… … この帳の下りた地、ゼーゲタディの各地を巡り 、五つの『竜の試練』を乗り越え、竜光を身に宿すこと。そして、この地に下ろされた闇の帳を祓う こと」
「素晴らしい。二百と一六の命持つ貴女達『いしず え人』は、その恩寵を以てこの地の希望となるのです」
「でも、わたしはなんにも持っていませんし、なんにも知りません。本当に、わたしなんかがそんなこと出来るんでしょうか?」
 不安そうに言うリリィに、『闇の巫女』は口元を緩めた。
「謙虚であるのは素晴らしいことです。しかし、怯える必要はありません。ご存じの通り、貴女には闇竜様の加護がある。戦いを経験する度に、自ずとその力は身につくはずです。それに── 」
 そこで一旦言葉を切ると、『闇の巫女』はローブから何かを取り出した。リリィの手に収まってしまう程の大きさの闇色の球体。なんとなくだが、大きさこそ小ぶりだが、背後の祭壇に鎮座する珠に似ているようにも感じられた。
「それは……?」
「これから旅立つ貴女への、闇竜様からの贈り物です。資格ある者が持てば、その者に相応しき姿へと形を変える宝珠。これはその一つです」 「相応しき、姿…… 」
 息を飲んだリリィに、『闇の巫女』はその珠を差し出した。
「さぁ、手に取って。貴女より先に旅立った『いし ずえ人』も皆、この『始まりの宝珠』を受け取って歩き出したのです」
「わ、わかりました。ありがとうござい── って、 え?」
 それはリリィの手に渡った瞬間に姿を変じた。真っ黒の鞘に包まれた、刃渡り三鱗(30 ㎝) 程の短剣。 抜き放ってみれば、その刃までもが明るさを一切感じさせない黒色だった。
「『闇鉄の短剣』…… 。これが、わたしに相応しいものなんですか?」 「はい。貴女が今、それの名を口にされたことこそ がその証。名前だけでなく、その謂れをもひとりでに理解なさっているのでしょう?」
「…… なるほど」
しばらく刀身に映った自分の顔をじっと見つめ ていたリリィだったが、自分の中で整理がついたの か、短剣を鞘に戻し腰に吊るした。
「…… わかりました。まだちょっと飲み込めていないこともありますが、なんとか頑張ってみようと思います」
「大変素晴らしいことです。…… それでは、私の役目はこれで終わりとなります。貴女が無事に使命を果たされんことを願っています」
「あ…… 色々とありがとうございました。あの…… また会えますか?」
「さぁ、貴女が使命を全うせんとするならば、もしかしたら会えることがあるかもしれませんね。貴女 が『最後の英雄』足りえる器であることを願っています」
 最後に一礼し、『闇の巫女』はその姿を霧散させた。 リリィは先ほど聞いた闇竜の声、そして『闇鉄の短剣』を思い出しながら、部屋の中央にある棒に向けて一歩踏み出すのだった。

【始まりの宝珠】 竜の力の一端が込められた宝珠、その特別なもの。 旅立つ『いしずえ人』に対する闇竜からの餞別。その者にとって相応しい形へと姿を変える。

竜の眼は全てを見通す。その者の本質も、そして背に負う運命さえも。


三.教導

 「── なるほど。君はついさっき現れたばかりの 『いしずえ人』なんだね」
「はい。まだその、最低限の知識しかなくて…… よかったら、色々教えてくれませんか?」
 大ネズミ共から救われた後。リリィと恩人の女性 は、つい先ほどリリィが現れた場所を拠点とし、腰を下ろして休んでいた。
「勿論だよ。じゃあ、そうだね…… まずは、いま私たちが拠点にしているこの棒については理解して いるかい?」
「えっと、これは『竜の楔』っていって、わたし達 『いしずえ人』のために闇竜…… 様?が設置してくれたもので、これがある場所には獣や亡者が近づけ ない…… で、合ってますよね?」
「その通り。この『竜の楔』はここみたいな神殿や道のはずれ、森や洞窟の中など、この地の至る所に分布しているんだ。私達が旅をするときは、まずこれを探すところから始めるべきだとされているね」
 自らの理解が正しかったことを確認出来てほっと息をつくリリィ。その後も二人は知識の確認を行った。先程の大ネズミのような敵を手にかけると、 その『魂の光』を吸収して少しずつ自らの力が増していくこと。しかしその強化には上限があり、竜光 を一つ集める度にその天井が上がるということ。 『いしずえ人』は疲労や怪我こそするものの、排泄も睡眠も、食事さえも必要とせず、疲労したり傷ついたりした身体は『竜の楔』の光を浴びる他、一定量の『魂の光』を吸収することで癒すことが出来るということ。また、『いしずえ人』の身体年齢は普通では成長せず、複数の竜光を手にしたときにそれが許されるようになるが、それは少なくとも二つでは足りないということなど、闇竜から授かった知識の確認はなおも続いた。

 「うん、これだけ確認すれば大丈夫。知識の心配は要らなかったね」 「本当ですか!良かった…… 」
 ほっと息をついたリリィに微笑むと、彼女は傍らに置いていた剣を持って腰を上げた。
「じゃあ、次は『こっち』の確認をしようか」
「えっ… … でも、『竜の楔』の辺りでは『不戦の誓い』 が敷かれているから戦えないんじゃないんです か?」
「それはそうだけど、お互いの合意があれば、一時的にその縛りがなくなるんだ。勿論、殺したりはしないよ?生き返ることが出来る回数だって有限だ しね」
「…… そういうことなら、お願いします」
 そうしてリリィも立ち上がり、二人はそれぞれ得物を持って向き合った。
「そういえば自己紹介がまだだったね。私はマグノリア。しがない『いしずえ人』さ」
「リリィです。…… あの、お手柔らかにお願いしま す」
「それは約束出来ないけど、私には相手を無駄に痛 めつけたりする趣味はないと言っておこうかな。
── 先手は譲ろう。どこからでもかかってくるとい い  」
 そう告げた瞬間、マグノリアの纏う空気が変わっ た。リリィに攻めて来て貰うために隙だらけではあるが、苛烈な戦意は本物だった。そして本物過ぎた がゆえに、
「……………………………… 」
「………………えっと、君の実力を見たいから、君の方から攻めて来て欲しいんだけど……」
 大ネズミ共に追い掛け回されたこと以外の戦闘経験を持たないリリィには刺激が強すぎ、震えながら固まってしまった。

「じゃあ適当に構えているから、思うままに打ち込 んで来てくれ」
「は、はぃっ」
 大ネズミに貪られかけた時の恐怖までぶり返し てしまったリリィを抱き締めたり頭を撫でたりと何とか慰め、改めて二人は向かい合う。ほぼ棒立ちで大剣を構えただけのマグノリアに、リリィが斬りかかる形で推し量る運びとなった。しかし、ここで もマグノリアは苦笑を禁じ得なかった。
「てやぁぁぁぁっ!」 
 僅かに逡巡した後、喊声を上げて突貫してきたのだ。それも、短剣を両手で握りしめ、身体の前に構えたままで。当然マグノリアが軽く刃を払い除ける だけでバランスを崩し、「あうっ」と横に倒れこんでしまった。
 「ああ、大丈夫?ごめん、力加減を誤ってしまったみたいだね。しかし… … うーん」
 「だ、大丈夫です。…… あの、どうかしましたか?」
 「いや、大したことじゃないよ。実は私はずっとこ の大剣を使ってきたから、短剣みたいな軽い武器の扱いをうまく教えられそうか不安だったんだけど、 かなり基本的なことから教える必要がありそうだから当面は心配しなくていいかなって、それだけのことさ」
 かなり言葉を選んではいたものの、結局『お前はド素人だ』と遠回しに言われていることにしっかり気づいてダメージを受けたリリィに苦笑し、改めてこう告げた。
「というわけで、特訓といこう。あぁ、遠慮はしなくていいよ。私達には時間の制約なんてないんだか ら」
「はいっ、よろしくお願いします!」


【ドラゴンウェポン】 大いなる竜の御業、その一端が込められた武器の 総称。『竜業武器』とも呼ばれる。 ドラゴンウェポンは担い手を選ぶ。その身を預けるに足ると武器に認められないうちは、手に入れても通常の武器と変わらない性能しか発揮出来ない。

竜とは即ち現象である。栄光、絶望、惨劇、奇跡。 全ては竜と共にあるのだ。


四.覚醒

 「やああぁぁぁぁっ!」
 裂帛の気合を上げて『闇鉄の短剣』を突き込む。 頭部に渾身の一撃を受けた大ネズミは、断末魔と共に倒れ伏した。
「やったぁ!倒せました!」
「おめでとう。ようやく『らしく』なってきたんじ ゃない?」
「これもマグノリアさんのおかげです!」
「そう言われると照れ臭いね。その腕甲も、上手く扱えているみたいだし」
 飛び跳ねて喜ぶリリィの左腕には、マグノリアが 贈った腕甲『流水のヴァンブレイス』が装着されていた。短剣を両手で振り回すのは、柔軟な動きが出来るという長所を台無しにしている。そこで、彼女が使っていなかった左手に装着できる装備を試し に使わせてみたのだ。
「はい!攻撃をこれで受けたら、するってネズミが流れて行って、もうすごかったです!」
「見ていたよ。私はそんなに上手く扱えなかったか らダメで元々だったんだけど、想像以上だった。才能があるのかな?」
 感心したように頷くマグノリア。それもそのはず、リリィは少し説明しただけのぶっつけ本番で『流水のヴァンブレイス』を使いこなして見せたのだ。
 この腕甲は表面が滑らかな曲線を描いており、相手の攻撃を受け流すことに特化している。上手い角度で受ければ、ある程度の衝撃までなら殆ど腕に負 担をかけずに逸らすことが出来るのだ。しかしその難易度は非常に高く、マグノリアには使いこなすことが出来なかった。
 ( 最初は想像も出来なかったけれど、もしかしたらこの子は、途轍もない才能を秘めているのかも知れな い)
 無邪気に喜ぶリリィに目を細めつつ、マグノリアは大きな予感に知らず身を震わせるのだった。

 その後、拠点としていた『風の竜殿』を離れて至近の廃村に向かった二人は、そこで亡者、そして死肉を漁る野犬・野鳥を相手に戦闘訓練を行った。リリィは素人殺しと名高い野犬には苦戦したものの 一度も死ぬことはなく、マグノリアが最後の課題とした複数戦に挑戦した。
 そして、右手の短剣で二匹の犬を牽制しつつ的確な石礫で鳥を撃墜。しばし睨みあっていたが、焦れて突っ込んで来た片方の犬の突進を腕甲で受けて 後ろに受け流す。更にその勢いを利用して大きく踏み出し、思わず怯んだもう一匹の犬の眼球を強かに斬り裂いた。後は最後に残った犬を丁寧に処理し、 鮮やかに一対三を切り抜けたのだ。
「凄いな、リリィ!犬と鳥をこんなに簡単に捌き切るなんて、とても駆け出しとは思えないよ」
「えへへ、ありがとうございます。これもマグノリ アさんのおかげです」 
「もうすっかり一人前だね。本当に見違えたよ。とてもさっきまで短剣を両手で振り回していたとは 思えないくらいだ」
「もう、意地悪しないでください」
 マグノリアからの手放しの賛辞に満面の笑みを浮かべるリリィだったが、続く言葉で表情が凍り付 いた。
「これなら、一人でもやっていけそうかな」
「えっ…… 」
「私が野犬一頭を綺麗に倒せるようになるまで、どれだけかかったことか。完全な独学では無いことを加味しても、君の才能は私のそれを大きく超えて── っとと、急にどうしたの?」
 マグノリアが喋っているのも耳に入らず、頭が真っ白になったリリィは、気づけばマグノリアに抱き着いていた。 「~~~~~~っ!!」
「ちょ、ちょっと… … 本当にどうしたの?ほら、あんまりやると、可愛い顔が傷付いてしまうよ?」
 鼻を潰さんばかりに胸甲に顔を押し付け続けるリリィに困惑したマグノリアだったが、やがて困っ たように笑うとそっと抱き締め返し、あやすように 語りかけた。
「そこまで慕ってくれるのは嬉しいけど、ここで別れるのは君の為でもあるんだ。ここより先、竜殿の加護の及ばない地では、既に竜光を二つ宿している 私を狙ってより凶暴かつ強大な敵が襲ってくる。さっき戦ったのと同じような野犬でも、手強さが桁違いなんだ。まだ一つも竜光を持たない君にとっては、 あまりに荷が重い旅路になってしまう」
 だからここで別れたほうが良い、と諭すマグノリアに、リリィが返したのは拒絶の意志だった。
「…… それでも。それでも、私は貴女と一緒にいき たい。貴女の隣を歩きたい!」 声を震わせ、目の端には涙を浮かべながら、それでもリリィは顔を上げ、マグノリアと目を合わせた。 あの時惹かれたのと同じ、純紫に煌めくその瞳から勇気を貰うために。
「強くなる。わたし、強くなります。貴女に並び立つために。貴女と共に、使命を全うするために!だからお願い、わたしを一緒に連れて行って!」  その時、確かにマグノリアは見た。惑いを抱えていた少女の黒瞳に、覚悟の炎が宿るのを。艱難辛苦を撥ね除けんとする、確固たる意志の煌めきを。 そしてそれと同時に、少女の覚醒を寿ぐように、 リリィが腰に吊るしていた『闇鉄の短剣』が一瞬だけ熱を持った。
 「きゃっ…… って、え?竜、業……?」
「なにが…… なぜそれを?まさか、その短剣はドラ ゴンウェポンだったのか?」 初めに『闇鉄の短剣』を持った時と同様にひとりでに頭に浮かんできた言葉を口に出したリリィに、 マグノリアは目の色を変えた。
「ドラゴンウェポンは『竜の試練』を超えた時にしか手に入らないと思っていたけど、『始まりの竜珠』 が変化することもあるんだね。しかし… … 」 「マグノリアさん。わたし、また強くなりました。 この武器と、この『竜業』があれば、もっともっと強くなれます。 それでも…… 一緒にいちゃダメですか?」
 ぎゅっと拳を握って問いかけるリリィ。懇願にも似たその問いに、マグノリアはしばらく黙り込んだ 後、根負けしたように眉尻を下げた。
「…… わかった。そこまで言うなら、一緒に行こう 」か ぱ っと顔を輝かせたリリィに釘を刺すように、ピッと指を立てた。
「ただし!ちゃんと私の指示には従うこと。私が 『逃げろ』って言ったら、私を置いてでも一旦逃げるんだよ。約束出来る?」
「う…… でも…… 」
「約束出来るね?」
「…… はい」
 『圧』に押されて渋々承諾したリリィに満足げに頷くと、マグノリアは西を指さした。
「それでこれからだけど、取り敢えずあっちに進もうと思っているよ。君も感じているだろう?『竜の 試練』を受けるために必要な三つの鍵、その一つがあっちにあると」
「はい。何か惹かれるような感じがします」
「よし。その感覚は覚えておいた方がいい。鍵の在処に近づくと、今みたいに大まかな方角を教えてくれるからね。 それじゃあこの集落をもう一回探索したら出発しようか。君の『竜業』の確認もしたいし」
「はいっ!」
そして歩き出したマグノリアだったが、ふと何か を思いついたように立ち止まってこう言った。
「あぁ、それと。私のことは『リア』でいいよ。こ れからは一緒に旅をする仲間だ、堅苦しいのは無し にしよう」
「えっ…… いいんですか!?」
「勿論。戦闘中に声を掛け合うことを考えても短い方が都合が良いし、気兼ねなく呼んでくれ」
その時のリリィの表情を評して、後にマグノリアは「まさに花が咲いたような、という言葉がぴった りの、こちらまで嬉しくなってしまうような笑みだ ったよ」と述べたという。

【闇鉄の短剣( やみがねのたんけん) 】
 闇に蝕まれ、尚も強靭さを失わなかった類稀な鉄で造られた短剣。漆黒に艶めく刃は闇の片鱗を宿し、 その真の力を解放した時、与えた傷口からは血だけでなく生命までもが滴り落ちるという。
 竜業は『必滅の誓い』。刃の切っ先を相手に向け、 確殺の覚悟を身体に刻む。身体能力が大きく向上し、 疲労を感じにくくなる。連続では使用できず、相手 を仕留めるか逃げ切られるまで効果は持続する。
 
 闇鉄は運命の激流に惹かれ、それで造られた武器を振るう者もまた、熾烈な運命を背負うとされる。
 或いは、運命が闇鉄に引き寄せられるのだろうか。


五.襲撃

 「さて、さっそく出発…… といきたいところだけど、 それはもう少しやるべきことを済ませてからにし ようか」
「やるべきこと…… ですか?マグ、じゃなくて、え えと…… 『リア』」
 照れくさそうにそう呼ぶリリィに微笑みを返し、 マグノリアは『やるべきこと』の内容を告げた。
「あぁ。君の『竜業』の確認をしないとね。発動するにはコツがいるしどんな効果なのかは実際に使 ってみないとわからないことも多いから」
 そうして二人は向かい合う。戦いの中で推し量るのが最もわかりやすいからだ。
 「発動したいと強く念じるんだ。その武器は既に君を認めた、ならばもう『竜業』も君自身の力なのだ から。私がお手本を見せるから、よく見ているといい。 ── 『不退の壁』」
 地を強く踏みしめつつそう呟いた刹那、マグノリ アの身体から放たれている橙色の輝きがその勢いを増し、同時に彼女の背後の大地がせり上がった。 「えぇっ!?」
「驚いたかい?これが私の『竜業』の一つ、『不退の壁』。自分の背後に壁を作って背後から襲われることを防ぎ、また身体の頑強さを上げることができる んだ。反面下がるには壁を迂回しないといけないから、自分の逃げ道を自分で潰してしまうことになる。 まさに『不退』というわけだね。 さて、こんな感じでやってみようか。慣れないうち は、私がやったように『竜業』の名を口に出したり、 それっぽい口上を述べたりしてイメージを固めるといいよ」
「は、はいっ。行きます!」
『闇鉄の短剣』を構え、強く意識する。ややあって、リリィは高らかにその名を唱えた。
「── 『必滅の誓い』!」
「はぁ~~~~~~~~」
 廃村で見つけた『ある文献』を複写し、次の目的地に定めた『狼の森庭』へと出発して間も無く。リリィは肩を落とし、特大の溜息を吐いた。気合を入 れて叫んだにも拘らず、『闇鉄の短剣』も、そしてその『竜業』も、うんともすんとも言わなかったのだ った。
「そう気を落とさなくても… … 。君の決意は十分に感じられたし、今更『竜業』が使えないからといって放り出したりはしないよ?」
「でもぉ…… 」
 いまだに諦めきれない様子のリリィ。大変な張り切りようだっただけに、『竜業』を引き出せなかった落胆もまたひとしおだった。
「いいさ。これは予測でしかないが、その武器の『竜業』は相当特殊なものなんだと思う。私が持つもの のようにただ念じるだけでは発動してくれないと いうことは、他にも何かその武器が求めているものがあるはずなんだ」
「武器が…… 求めているもの?」
「あぁ。その短剣が君を認めた時、君は『何か』を武器に示したはずなんだ。それが手掛かりになるかもしれない」 難しい顔で考え込むリリィを微笑ましく見守るマグノリアだったが、不意に立ち止まると大剣「激流のクレイモア」を構えた。 
 「リリィ、構えて。どうやら狙いをつけられたよう だ」
「えっ、はい!」
現在地は見通しの良い平野の道で、周囲に生き物 の姿は見当たらない。言われるがまま短剣を抜きは したものの困惑を隠せないリリィだったが、マグノ リアの面持ちは険しい。
「参ったな…… 出発早々、厄介な相手に目をつけら れたものだ。 リリィ来るぞ、上だ!」
 その言葉を聞き終わるより先に、リリィは地を蹴り飛び退いていた。上空など見てもおらず、直感が囁いたとしか言えない行動だったが、それはこの場 における『大正解』だった。 轟音と共に、ほんの一瞬前までリリィ達がいた場 所に大穴が穿たれる。散らばる岩片が、今の攻撃が 高高度からの投石であることを示していた。
「っっ、なん、っですかこれ!」
「飛蜥蜴…… 『ウイングリザード』の奇襲だ。ここ からが本番だから、気を張っていこう」
 同じく飛び退いて躱したマグノリアの視線を追って上空に目を向けると、夜空に溶け込むようにして宙を舞う影が微かに見えた。そしてそれは、徐々 に大きさを増している。奇襲で仕留められなかったことを悟り、自らの手で止めを刺そうとリリィたち の方に近づいているのだ。

 月光を背に受け、『ウイングリザード』が舞い降り る。夜空に対して保護色となる黒い鱗に包まれた強靭な四肢と、皮膜の張った一対の翼。尾まで含めれ ばマグノリア三人分はあろうかというその体躯に比して小さい顔。小さく開閉される口からは、鋭利な牙と飛蜥蜴の名に相応しい割れた舌が覗いてい た。
「これが…… 『ウイングリザード』…… 」
「怖気づいたかい、リリィ?」
ネズミや野犬とは桁違いの迫力に思わずそう漏らしたリリィに、マグノリアが笑いかける。からかうように、或いは試すように放たれたその問いかけ に、リリィは当然の答えを返した。
「… … まさか!勝ちましょう、『リア』!」
 不敵に笑うその顔に最早照れは無く。
「良い顔になったね。さぁ、行こう!」
「はいっ!」
 臨戦態勢を整えた二人に向かい、
 『ウイングリザ ード』が咆哮を上げる。二人になって初めての本格的な戦闘が今、幕を開けた。

【ウイングリザード】
 ゼーゲタディ西部及び南部、『風』と『地』の領域と呼称される二地域にて稀に見られる大型生物。飛行能力を持ち、上空から石を落として獲物を奇襲することもある。
 かつてはほぼ全土に渡る生息域を持っており、鱗や翼の大きさが長さの単位になるほど市井にも名が知れていたが、鱗や翼膜など得られる素材の有用 性から乱獲され、一時は殆ど姿を見せなくなってい た。今は再び数を増やしているものの、最盛期と比べて一回り小柄である。

 彼らはただ強靭であったが故に、絶滅の危機に晒された。大地の化身たる竜はそんな彼らを憐れみ、 安住の地を与えたという。


六.狡知  
 初手は『ウイングリザード』。二、三度助走のよう に地を蹴りつけたのち、猛烈な勢いで突進を繰り出 してきた。
「気を付けて!こいつの攻撃はさっきの犬とは比較にもならない。受け流そうとしたところで、君ではそのまま圧し潰されるのが関の山だ。なるべく距 離を取り、隙を見てチクチクを心がけて!」
「わかりました!」
 左右に分かれるように飛んで突進を回避。二人の間を走り抜けていった『ウイングリザード』に対し、 マグノリアはリリィに指示を出しながら巨体を追いかける。振り向き様に首を捻っての噛み付きを絶妙な間合い管理によって空振らせ、顔面に大剣の切っ先を突き込んだ。 頭部は弱点故にそれを守る鱗もひと際強靭だが、 それでも衝撃は通してしまう。堪らず仰け反った 『ウイングリザード』の脚を、横から回り込むように走り込んだリリィが斬り付ける。リリィの力では堅牢な鱗を一撃で貫くことは出来ないが、継ぎ目を狙って抉るように振るわれた刃は一枚の鱗を削ぎ落とした。欲張りはせず、飛蜥蜴が完全に体勢を立て直す前にさっと離れていく。『ウイングリザード』 の意識は痛打を与えたマグノリアに向けられてお り 、 リリィは難なく離脱に成功した。 その様子を横目で捉えつつ、マグノリアは後ろに跳んだ。刹那、彼女の目の前を振り抜かれた尻尾が横切る。着地するが早いかその衝撃を利用し、バネ の要領で今度は前に跳ぶ。引き戻される尻尾を踏み 台として更に跳躍し、再度飛蜥蜴の頭部に痛打を加えた。砕けた鱗の破片が宙を舞う。思わずたたらを踏む『ウイングリザード』にリリィが再び駆け寄り、 先程と同じ脚の鱗をもう一枚奪い取った。
 高い攻撃力を持つマグノリアが飛蜥蜴の眼前で 紙一重の攻防を演じて相手の注意を引き付け、隙を見つけてはリリィが確実に傷を広げていく。息の合 った連携に、『ウイングリザード』に刻まれた傷は着実に増えていった。 なおも攻防は続いたが、転機は突然に訪れた。リ リィがじわじわと削っていった脚の鱗が遂に剥げ、 柔らかい肉が剥き出しになったのだ。追撃をしたい 気持ちをぐっと堪えて離脱する。しばらくマグノリアが大振りの一撃を叩き込める程の隙はなく、リリィのみが傷を与える状況が続いていたが、幸いにも 飛蜥蜴の注意はマグノリアに向いたままだった。最初の二撃が余程堪えたらしい。

 そして次の好機もすぐに訪れた。顔の前で休みなく動き回るマグノリアに業を煮やし、『ウイングリ ザード』が飛翔した。そして上空から一気にマグノ リア目掛けて飛び掛かる。しかし彼女は完全に間合 いを見切っており、ギリギリまで攻撃を引き付けて から僅かに後退するだけで飛び掛かりを回避。大剣の腹で風圧を受け流しつつ肉薄し、着地したばかりの飛蜥蜴の顔面に上段からの一撃を加えた。三度目 の頭部への痛打。さしもの『ウイングリザード』も 悲鳴を上げて倒れ伏した。
 「―― っ!」
 待ってましたとばかりにリリィは駆け出した。鱗を剥いだ今なら脚に刃が通る。あっという間に目標まで到達したリリィは逸る気持ちのまま『闇鉄の短剣』を振りかぶり、
「リリィ離れろ!罠だっ!」
 ―― 一瞬の衝撃と、浮遊感。そして再度の衝撃と激 痛。それを最後に、リリィの意識は闇へと堕ちた。

 リリィを跳ね飛ばした『ウイングリザード』が起き上がるのを油断なく睨みながら、マグノリアは己の迂闊さを呪った。たった三回の攻撃で『ウイング リザード』が地に伏すはずがないというのに!
 飛蜥蜴はずっと狙っていたのだ。先程からずっと足元に付きまとう『虫』を始末する機会を。
 「くっ… … 」
 地面に叩きつけられたリリィが起き上がる気配は無い。『いしずえ人』が命を落とすとその身体は粒子となって消え、最後に立ち寄った『竜の楔』で復活するので、まだ死んではいないということだけは救いといえるだろうか。
 「…… いや。今はまず、奴を倒すことだけを考えよう 」 
 頬 を叩き、無理矢理にでも気持ちを切り替える。 まだ戦いは終わっていないのだから。
「さぁ勝負だ、『ウイングリザード』。不毛な削り合いと行こうじゃないか!」
 大剣を握り直し駆け出したマグノリアに、『ウイングリザード』もまた軋むような声を上げて応戦す る。戦いの第二幕が始まった。

【ランドグリーヴ】
 マグノリアの脚甲。『地』の試練を突破したときに得た宝珠が変化した『ドラゴンウェポン』である。
 竜業は『不退の壁』。大地を強く踏みしめ、身体に宿る『地』の竜光を活性化させて耐久力を高める。 また、同時に自らの背後に壁を展開し、後ろからの攻撃から身を守る。地から両足を離すか、或いは壁 から一定以上離れると解除される。

 決して退かぬという覚悟。それは時として、比類 なき鎧となるのだ。


七.竜業

 一対一となってからどれほどの時間が経っただ ろうか。マグノリアは精神的な消耗を抑えるために 先程の針の穴を通すような戦い方から一転、多少の 被弾を許容してこちらから攻撃する隙を増やす、攻撃的な立ち回りへと変化させていた。長らく一人で戦ってきた彼女としては、こちらの方が本来の戦い方と言える。が、
 ( 埒が明かない…… いや、寧ろこちらに分が悪いか)
 『ウイングリザード』の耐久力の前にジリ貧となりつつあった。生半可な攻撃では『ウイングリザード』 の堅牢な鱗を突破して致命的な一撃を与えることが出来ず、かといって渾身の一撃を叩き込むための 『溜め』を許してくれるほど甘い攻撃ではない。彼我の体力の差を加味しても、このままでは先に精彩 を欠いてミスを犯すのは間違いなくマグノリアの方だ。
 だからこそ、『それ』を見たマグノリアは、大剣を身体の横に構えた。 「―― 流れは我が爪、波は我が牙。蒼き恩恵に仇為す者よ、泡沫となって弾け飛べ」
 飛蜥蜴の目の前で、堂々と隙を晒して『竜業』の 準備を始めたマグノリア。鮮烈な蒼光が大剣「激流のクレイモア」から放たれる。当然『ウイングリザ ード』がそれを見過ごすわけもなく、突如として動きを止めた獲物を蹂躙しようとし、

 突如として膨れ上がった背後からの殺気に、弾かれ たように後ろを向いた。

「ぐ、っっう…… 」
 少し時を遡り。吹き飛ばされ、地面に叩き付けられて気絶していたリリィは意識を取り戻した。まる で言うことを聞かない身体に鞭打ってなんとか首 を回すと、『ウイングリザード』相手に一歩も引かず に渡り合っているマグノリアの姿が目に映った。
「あ、はは… … 」
 思わず自嘲の声が漏れ出した。あれだけ大口を叩 いておきながら自分はこのざまで、彼女は一人で何 の問題もなく戦えている。自分など、ただの足手纏 いでしかなかったのだ。
「それでも… … 」
ぎり、と奥歯を噛み締める。マグノリアと出会っ てからの決して長くはない、だがリリィにとっては かけがえのない時間が脳裏に浮かぶ。
「それ、でも… … 」
 何の関係もない自分を助けてくれた。この地で生 きる術を、戦う術を教えてくれた。そしてなにより ― ―
『良い顔になったね。さぁ、行こう!』
― ― 自分を信じてくれた!
 「それでもっ!」
 胸が燃えるように熱い。軋む身体を叱りつけ、無理矢理立ち上がろうとしては失敗するリリィの目 には、変わらず戦うマグノリアの勇姿。 たった一人のその舞踏を見るほどに、身体の熱は増していく。なぜ自分が隣にいないのか。なぜ彼女は自分を見てくれないのか。 ―― なぜ彼女は、自分以外と■し合っているのか。 気づけばリリィは立ち上がっていた。震える手で 『闇鉄の短剣』を拾い上げようとし、その熱さに驚く 。しかしそれもすぐに気にならなくなった。今や 熱は全身に伝播していた。身体が熱い。だが、痛く は無い。ならば今すぐあの場に― ―
「―――――――――― っ!!!」
 ―― 彼女と目が合った気が、した。その瞬間に眦を決し、リリィは走り出していた。全身を駆け巡る焦熱のままに、喉から声が迸る。
 「お前は必ずわたしが殺す!」 ― ― 竜業「必滅の誓い」。
 その瞬間、見える世界が変わったのをリリィは感じ取った。余りにも身体が軽い。景色の流れが速い。 ほら、もう敵は目の前に! 弾かれたようにこちらに顔を向けた『ウイングリザード』の尾を目掛け、リリィは短剣を振り抜いた。 会心の手応えに、リリィの口角は上がっていた。

 蒼光を放ったまま、マグノリアは瞠目した。底知れぬ漆黒の『何か』を纏ったリリィが自分とあまり変わらないほどの速度で『ウイングリザード』に肉薄したかと思うと、一撃で飛蜥蜴に流血を強いたの だ。そう簡単に尾を切断することは出来ないだろう が、距離があっても飛び散った血が目視できるほどの深手。比較的薄いとはいえ尻尾にだって当然鱗は あるのに、一撃で全てを斬り裂いて肉にまで斬撃を 届かせるその威力は、マグノリアの渾身の一撃と遜色ない。明らかに異常な威力と言えた。
 悲鳴を上げて距離を取る『ウイングリザード』をすかさず追撃し、踏み潰そうと連続で振り下ろされる脚の全てを難なく回避したリリィは再びの痛打 を『ウイングリザード』に見舞った。
 先程鱗を剥ぎ、生身を剥き出しにした箇所。そこに渾身の一突きが放たれる。リリィの全身よりもなお濃密な『黒』を纏った刃は、深々とその肉を抉った。絶叫と共に体勢を崩して倒れ込み、のたうち回る『ウイングリザード』。激しく地を叩く予測不可能なその動きに、やむを得ずリリィは距離を取った。
 ― ― 好機! 「そのまま離れていろ、リリィ!全力でいくよ!」 大声で呼びかけると同時、駆け出す。瞬く間に『射程』に入れると、眩い蒼光を放つ剣を振りかぶった。
激流の構え―― 烈の型、『蛟』!はあぁぁぁぁぁぁ っ!!」
 裂帛の気合と共に、袈裟懸けに振り下ろす。より 一層激しく輝いた剣身の軌跡がそのまま『光波』となり、『飛ぶ斬撃』』とでも形容すべき蒼き半月が宙を駆け抜ける。二十歩以上はあろうかという距離を一瞬で疾走したそれは『ウイングリザード』の頭部に喰らい付き、一撃で撃砕した。
断末魔さえも許されず、『ウイングリザード』は完全に沈黙する。二人を苦しめた強敵との決着は、案外にあっけないものとなった。
「…… っあ」
 張りつめていた精神が緩んだのか、再び意識を失ったリリィを駆けよったマグノリアが抱き留める。 穏やかに上下する胸を見て微笑むと腰を下ろし、リリィの頭を太腿に置いた。
 「…… お疲れ様、リリィ。」
 月光を反射して艶めく白髪を梳く。先程見せた竜業と思しき豹変の詳細、特に『代償』がとても気が かりではあるが、一旦全てを脇に置いて。今はただ、 健闘を労うことに専念するのだった。

 
【激流のクレイモア】 マグノリアの愛剣『クレイモア』が、『水』の試練 を突破したときに得た宝珠によって『ドラゴンウェ ポン』となったもの。
 竜業は『激流の構え』。剣を身体の横に構え、蒼き光を纏わせることで威力を激増させる。またそこから二種類の大技に派生することもできるが、これら 二つの技はどちらも大きく体力を消耗するため、まさにマグノリアの切り札と言える竜業である。
 運命の激流に流されるのでも立ち向かうのでも なく、自ら流れることを選ぶ勇気。それこそがマネ ウェルテの導きであり、激流を携えるに値する資格 であるのだ。

【次回予告】 『ウイングリザード』を見事撃破した二人。その 後も続く襲撃をなんとか死ぬことなく切り抜け、遂に『狼の森庭』に足を踏み入れる。しかしそこはマ グノリアでさえも苦戦を強いられる、艱難の地であ った。そしてこの地で二人を待ち受けるはかつてな い強敵、『賢き者』。彼の者の前で誰もが悟る。二百十六という命の数は、風前の灯に過ぎないのだとい うことを。

次回、【八.狼の森庭】
「その剣は、『ツヴァイヘンダ― 』?まさか、貴公は …… 」


あとがき

横澤フルーツポンチ
この作品は、決していかなる宗教、特定の宗教を批判するものではありません。世界中で、信仰・不信仰の自由が守られますように。それと、最近家に帰ったら、ポストにド◯ホルンリ◯クルが入っていました。

李音
拙い作品ですが、楽しんで読んでいただければ幸いです

登校は登山
登校は登山です。小学校時代の淡い思い出、春休みの事件、大学での生活など、様々な事柄が虚実五分五分でクーポンになりました。現実50 %オフです。 言及される現実の50%に、もしかしたらあなたも心当たりがあるかも知れません。そうであれば、そっと心に秘めておいて下さいね。きっとそれもいつかクーポンになりますので。

尾井あおい
今回は川柳(四二句)を投稿しました。拙いものですが、言葉それ自体の面白さとか言葉の並びのわけわからなさを楽しんでもらえたら嬉しいです。

海鳥にーそ
海鳥奏改めまして、海鳥にーそです。ということで今回は冬をテーマにした作品です。あいかわらず季節感皆無です(笑)。さて主人公の志貴君です が、自分でも書いてて、こいつかなりサイコパスだな、と思いました。きっと書いた人の頭がサイコパスだったんでしょう。 では、また次の作品で会いましょう。
 
宿身代の悪魔
本当は前後編で〆るはずだったんですが、後編の本題に入るまでに7500字ほどかかってしまったので前中後編ということにしました。 最後の次回予告はやってみたかっただけです。考えるのは楽しかったので、 今後も続きものを書くときはやろうかなと思ってます。


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