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専任宣教師の時の日記より~MTC/病人への癒しの祝福~

多くの人は、「宗教的儀式によって病気が治る」と聞いても信じないでしょう。
しかし、世の中には病気になった時、そのような儀式に頼ろうとする人が一定数いるのも事実です。
そのような人はどのようなことを考えているのか。もし不思議に思うのであれば、この記事が参考になるかもしれません。

キリストのような特質


このシリーズは、宗教/信条が

  • 人をどのような行動に駆り立て

  • 性質をどのように変化させるのか

  • 自分の場合はどうだったか


末日聖徒イエス・キリスト教会の会員である著者が
自分の宗教に肯定的な立場からつづるnoteです。
キーワードは #キリストのような特質

この記事はじゅーびんの2018.5.25の日記をもとに作成
ヘッダー画像はMTC入所当時、じゅーびんが撮影

同僚の姉妹宣教師から

MTC(宣教師訓練センター)にいたころ、スケジュールの合間に「病人への癒しの祝福」を求められた。姉妹たちのグループの一人が発熱していたのだ。
MTCでは連絡の手段がないのでわたしたち日本人長老グループを探して回っていたらしい。

※パンデミックを経験した今となっては熱がある状態で出歩くなど非常識なことではある。当時は多少熱があっても、みなさん学校に行ったり仕事をしていたりしていたものだ。しかし、パンデミック前であるということを差し引いても発熱した姉妹は明らかに弱っていた。わたしは姉妹たちに「こんな状態の人を連れまわすものじゃない」と言った。

この記事では、 #キリストのような特質 として、「信仰」と「謙遜」を挙げる。

MTC, 病人への癒しの祝福について

MTC(宣教師訓練センター)、病人への癒しの祝福とは何なのか。
#キリストのような特質 についてさらに考える前に、背景情報を説明しておく。

MTC(宣教師訓練センター)

ひとことで説明すると、宣教師になる準備する場所である。
私が訓練を受けたのはユタ州プロボにあるMTCだ。

https://maps.app.goo.gl/k9Y5fRjdRBSf6xWD8

末日聖徒イエス・キリスト教会の教会堂や、街で二人組の宣教師をみかけたことがあるならば、彼らはみな世界中のどこかのMTCで訓練を受けている。日本で活動している宣教師はほとんどがユタ州のMTCだろう。
コロナ中はオンラインのみ、ビザが降りずにMTCに入らずフィールドで働い宣教師も少数ながら存在する。最近はコロナによる制限が解け、プロボに集まっての訓練が再開しているらしい。

宣教師になれるのは,18歳から25歳までの独身男性と19歳以上の独身女性,退職した夫婦だ。彼らは専任宣教師として伝道に出るかどうか、また出る時期について選択の自由を行使するよう求められている。しかし、任地は選べない。
男性の宣教師は「長老」と呼ばれ, 女性は「姉妹」と呼ばれる。
(宣教師プログラムに関する教会公式の記事はこちら)

ここで特筆したいのは、MTCに集まる男女は若く、幼い頃からイエス・キリストの福音を前提とした家庭で育っていることが多いこと。また、その生まれ育った家庭から離れて暮らすことで他の多様な価値観と出会うことになる、ということだ。
(もちろん、福音を知らない環境で育ち改宗して宣教師として働く人もいる。)

病人への癒しの祝福

末日聖徒イエス・キリスト教会には神権という概念がある。簡単に言えば「神の力」のことだ。その神権を授与された人は神権者と呼ばれる。神権には,救い関わる重要な儀式を執行する権能があり、一番若くて13歳の時からふさわしい男性会員に段階的に授与される。

病人への癒しの祝福の執行にはメルキゼデク神権者長老の職を授与されている必要がある。そしてメルキゼデク神権を授与されるのは一番若くて18歳の時である。会員はふさわしいメルキゼデク神権者に、病人への癒しの祝福の儀式の執行を要請することができる。
(さらに詳しい概要や手順はコチラ)

思い出していただきたいのは、MTCに入るのは18歳から25歳までの独身男性と19歳以上の独身女性であることだ。MTCにいる”長老”はメルキゼデク神権を受けてから比較的、経験の浅い若者ということになる。(だからこそ、訓練を受けている。)

それぞれの信仰のカタチ

神権者による祝福を受けてから休みたいという姉妹宣教師たちの気持ちから来る姉妹宣教師たちの行動に、私は驚いた。私とは違う信仰の在り方や姿勢があることを知ったのだ。彼女たちは、神の力は物語上の奇跡ではなく実際に身の回りで起きることであるという実感を持っているように思えた。

また、この経験を通してわたしは、神がご自分の力を世にもたらす、その助けになりたいという気持ちを確かに強くした。この気持ちは謙遜さにも繋がる部分があると考えている。謙遜な人間は、へりくだって主の力を認め、その誉をキリストに帰すという。ならば、この世でなさっている業に対する一助となりたい気持ちは謙遜さなしには成り立たない。

謙遜さの一例

モルモン書において重要な役割を果たす預言者の一人にニーファイがいる。そのニーファイがある啓示の解釈について悩む自分の兄たちにたいして、「あなたがたは主に尋ねたのですか」と言うシーンがある。これに対しニーファイの兄たちは「主に尋ねてはいない。主はこんなことを我々に明らかにしてくださらないからだ」と答えた。

「困ったときの神頼み」という言葉がある。
病をはじめ、聖文の解釈、人生における困難なときに自分の力だけでなんとかしようと考えることは、ある意味で謙遜ではない。反対に、謙遜な人は自分が主に頼る必要があると知っている。さらには、そのように神に頼ることで助けを受けることができると考えるようになるには、先に信仰が必要だろう。

儀式への意識ギャップ

「奇跡」

私(じゅーびん)自身は専任宣教師になるまえに数度、病人への癒しの祝福を執行した経験があった。私が、専任宣教師として奉仕することを希望したのは21歳の時だった。18歳にメルキゼデク神権を授与されてから数年間活発に教会に集っていた際に、儀式の執行を要請、また指導者から経験として手伝いうように招かれた。

年配の指導者は時折、私を訓練するために病人への癒しの祝福に関して話をしてくれることがあった。その中には、イエスが病人を癒された奇跡に言及するものもあれば、ある神権者は儀式を求められた際に24時間の断食をしたという話が含まれていた。それらの話から私は神権者として儀式を執行することについて、神が人(神権者)を通して奇跡を起こすというイメージが強かった。

「おまじない」

一方で、非常に気軽に病人への癒しの祝福を求める兄弟姉妹もいる。
そのような兄弟姉妹は、(あくまで、イメージだが)家庭に準備のできた神権者がいつでもいる環境で育った人が多いように思う。普段から気軽に教会の話をしているため、神権による儀式を気兼ねなく要請することができるのだ。
私自身は、病人への癒しの祝福を求めるということは、できうることをすべて行った後に神に奇跡を求める行為に近いイメージを持っていた。
ところが、ある家庭では市販の風邪薬を飲みつつ父親に病人の癒しの祝福を求めたり、病院に行く前に癒しの祝福を受けてみて様子を見るといった話しさえ聞いたことがある。

キリストのような特質:信仰, 謙遜

生まれ育った環境から価値観が生まれ、また教会組織の中でも価値観に違いはある。今から振り返れば、MTCでの姉妹宣教師たちの行動は、私にとってまさに神権による儀式に対する価値観のギャップの発見であった。テーマである #キリストのような特質 に敢えて言及すると、信仰の在り方について柔軟に考えられるようになるきっかけのひとつであったとも言えるだろう。
そしてそのギャップを受容することにより、自分としても身近に神の力を感じようとする姿勢を持ちやすくなった。そして、いつでも神権者として働くことのできるようになりたいという望みが強くなったのだ。
「信仰」「謙遜さ」が育まれた一例である。

病気になった時、多くの人は薬や医者に救いを見出すだろう。
体調が悪いとき病に苦しんでいるときに宗教的儀式に頼ろうとすることは、身近に宗教的行為がない人々の目には奇異に映るかもしれない。
この記事を通して、その行動と性質について理解を深める一助となれば幸いである。

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