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ウロマガが好きです。

品田遊という作家をご存知だろうか。

INTERNETの民ならば”ダ・ヴィンチ・恐山”の名前の方が聞き覚えはあるだろう。有名な、いわゆる”アルファツイッタラー”である彼の、小説家としての名義である。

ダ・ヴィンチ・恐山は現在オモコロでライターやラジオをやっていたり、今は動画に出ていたりもしていて、更に活動の場を広げているクリエイターであり、大ファンの私としては書きたいことがたくさんあるのだが、ここでは”品田遊”としての彼について綴っていきたいと思う。

突然のオタク語り失礼するが、まず品田遊(しなだゆう)という名前が秀逸すぎる。字も響きも非常にバランスがよく美しいけれど、その美しさに負けず劣らず文章が美しい。それだけでなく、適度に気が抜けていて親しみやすく、それでいて俗世から離れた印象も受ける絶妙さなのだ。さながら東京の雑踏に紛れながら人知れず才気を奮う彼自身を表しているようで、この名前を聞くだけでときめく自分がいる。

そんな品田遊の代表的な文章といえば、著作2冊とウロマガだろう。これがもうどれも素晴らしい。小説が2冊とも素晴らしいのはレビューでもなんでも見てもらえば明白なので、私はここであえてウロマガを推していきたい。

ウロマガとは、「居酒屋のウーロン茶マガジン」というタイトルの略称で、彼が毎日書く日記の読めるnoteの有料マガジンだ。月4回くらいを銘打っているが、今のところ毎日書かれているためまず量がすごい。毎日少しずつ遡って読んでいるのに、未だに最後まで遡れていない。それが月300円(黒ウロマガという更に読める記事が少し多いマガジンなら月350円)。安すぎ。

内容は日記が主で、その日あった出来事とともに、簡単に思ったことなどを書いていて、これがまた一筋縄ではいかない面白さを備えている。彼自身の感性が一風変わっているというのもあるのだろうが、特筆すべきは着眼点だろうか。彼は既存のものから”面白さ”を見出し、その面白さがどこからくるのか言語化する能力に長けている。彼の提示した”面白さ”は、純然たるユーモアとして笑いを誘い、それと同時に気付きとして読者の中に知識をもたらす。その読み味こそが、読者にちょうどいい温度の心地よさを生み出すのだろう。いやみんながどう思ってるかとか知らないけど。私がそう思ってるだけです。

また、彼の深い思考部分が書かれた、コラム的要素も日々の日記に書かれていることが多い。これは上記のような”面白い”からさらに知的活動に寄った文章となるが、こちらも非常に完成度が高い。彼は哲学の話をよくする。掴みどころがなく難解になりがちな哲学を、とても上手く、わかりやすく文章にする。そのため、ストレスなく読むことができて、彼の考え方自体も興味深いものだから、取り返しがつかないほどズブズブにハマる。気がついたら何日分も読んで夜更かししているのが常だ。

私自身、別メディアを通してダ・ヴィンチ・恐山としての彼のファンであることも要因の一つではあるだろう。しかし、どうしても勧めたくなってしまった。ウロマガすごく良い。めちゃくちゃ良い。大好きです。読んでください。

参考に私が好きなところを引用させて頂きます。問題があったら教えて頂けたら修正します。


・おそらく一般人にとって最も身近なアートのひとつは「デザイン あ」や「ピタゴラスイッチ(佐藤雅彦)」のようなコンセプチュアル・メディア・アート(と言って良いのかな?)だ。ああいうのが支持を集めやすいのは、あれがとてもわかりやすい形で「発見」を形にしているからだろう。他人の夢日記を聞かされるかのような自意識の発露としてのアートではない「ものはこういう見方もできますよ」という理系なアート。バズ的なしくみとも相性がよい。Twitterでウケるのはマグリットであってモネではないみたいな言い方もできそう。

――2018年10月28日の日記「武蔵野美術大学芸術祭2018」より

こういう作品評がいっぱい乗ってる日の日記。”芸術”を明文化していくのが気持ちいい。

・「シャワーを浴びていると暗いことばかり考えてしまう」と誰かが言っていた。いまや本当に外部情報から遮断されるタイミングはシャワーを浴びているときくらいだから、自ずとそうなる。自分の脳との対話は、それ自体が暗い、後ろ向きなものなのだろう。目の前には世界が広がっているが、目の後ろには脳がある。

――「メラヒン」2019年12月30日の日記より

この記事のポジティブとネガティブに関する一連の記述が好き。

敵とか味方を区別してスッキリするのやめてもっとクヨクヨしながら生きたいんです私は。でもそういう生き方を選ぶのはエネルギーが要るし、元気がなかったらインターネッツボクシングくらいしか道はないのかもしれない。みんな元気ないし、そう考えたら周囲にあんまり強い言葉でアレするのもはばかられ、クヨクヨして生きている。でもクヨクヨするのは元気がある人の義務だと思ってこれからもしようと思う。元気なうちに。

――「元気なのでクヨクヨしています」2019年6月12日の日記より

こういったスタンスが大好き。

・思ったものの「言っても仕方がないだろう」と思われて(あるいは思われることもなく)淀みに消えていく言葉が無数にある。街を歩いていて、人々が言葉を交わしているのを見るとき、その深層に10000の言われなかった言葉の気配があり、にもかかわらず、実際に発される言葉が「こんにちは」とか「そうなんですか」といった当たり障りのない言葉に留めているとき、私は人々が自然に持ち合わせている限りない上品さを感じて敬服する。

――「あじさいの正しい距離」2019年7月1日の日記より

すき(巨大感情)。

・目に見えないイモ、不可視芋。

――「ボルタンスキー展」2019年9月1日の日記より

こういう系の脱力したギャグがたまに出てきて笑ってしまう。

・これをもっともわかりやすくビジュアル化したのが彫刻ではないだろうか。素材の塊でしかないものを「減らしていく」ことにより、形を「生み出す」というアクロバット技。木片だったときは仁王にも鮭をくわえた熊にもなりえた。ノミを一発打ち込むごとに、その木片がなりうる可能性の分岐が徐々に減っていく。「考えうる可能性はなにか」という悩みと「考えうるすべての可能性のうち、どれを残すべきか」という迷いが一体となっているのが創作であって、「無から有」は一面に過ぎない。描かれ、自立したひとつの物語の足元には、無数の可能性の木くずが散らばっている。

――「比喩としての彫刻」2019年10月24日の日記より

初めて読んで涙出ちゃった。美しくて。

・こっちに共感してくる人にこっちが共感できることってあんまりないですよね。こんばんは、ウロマガです。

――2018年9月2日の日記「メメントモリ群馬」より

”良”


こんな心配はしなくても良いのかもしれませんがこれはご本人と一切関係がないただのいちファンが書いたnoteです。書きたいことがまだ全然あるけど長くなるのでまた記事書けたら書きたい。品田先生の健康とますますのご活躍をお祈りしております。


↑特に私にお金とか入ったりはしないやつです。読んでください。



【”死”について】

ここからは少し不謹慎に感じる人がいるかもしれないので、別段落として書かせて頂く。

品田先生の紡ぐ”死”が私はたまらなく好きだ。エモいとしか表せないような気持ちになる。彼は死に対して自然体で、日常と地続きに臨みながら、決して重くはない静けさを伴って”死”を綴る。それはこの人生の先に死があるという事実を、”悲しまないように”思い出させるような、一種の柔らかさを感じてしまうのだ。忌避されやすい概念だからこそ際立つ、東京の雑踏で満点の星を見るような、隣りあった美しさの彼の文章が、遺憾無く発揮されている秀逸な文章である。無理してかっこいい感じに書いたが、実感としては「胸が締め付けられる」とか「じわりと沁みるような」みたいな陳腐な表現しか思いつかない。この”良さ”を誰かと(あるいは一人で)語りたくて叫び出したくなってしまい、行き場を失って泣いたりする。良質な文章は人間を奇行に走らせたりもするんですね。とにかく品田先生の文章はすごい。大好きです。


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