見出し画像

3/11 「不安」の効用

おはようございます。
病的な心配性の母親を反面教師にした結果、日常で心配や不安といった感情が極めて少ないように思います。ちなみに世界的に日本人は相当心配性らしい。だから氣配り文化も発達したんでしょうね~。
さて、基本「なんとかなる」と思っていますが、何もしていないわけではなくて、一応「万が一の場合はこうしよう」という備えはあります。猫がいますからね、備えのアップデートはけっこう頻繁にやっています。

先日、あるYouTubeでこんな発言がありました。
「不安というのはサインですから、うまく活用したらいい」
なるほどなぁ、不安を感じないようにするんではなく、不安を活用する。
不安を感じるオノレの直観を信頼する。
不安という感情が生命の危機を感じたときに湧き上がるのであれば、それをサインとしてとらえ、そうならないように行動を起こすということです。

「不安を感じなくなったら、人類はヤバいですよ」
とも言ってました。
不安を否定するのではなく、不安を引き起こしたものに目を向けて早めに解消する。
そう考えたら、「不安」はワタシの場合「夢」にも似ています。

日常で不安や心配の少ない暮らしをしていると、夢が不安や心配な出来事を見せてくれる。そう理解するようになったら、夢でハラハラドキドキを感じても、心配になるとか恐怖があとをひくということがなくなりました。日常があんまりお氣楽すぎると、生存意識や能力が落ちてしまうので、夢でそれらを補償しているのでは。たぶんニンゲンがバランスよく生きるためには、不安や心配という感情も必要なものなのだと思います。

今まで否定していた心配や不安に対しての見方が変わりました。
心配性の人は心配しているほうが生きやすいかもね。

だいたいにおいて「心配だ、心配だ」と口にしている人ほど、口ほど心配はしていないのです。ほんとうに、心底心配していたら黙ってしまう、ワタシなら。

負の感情、一般的に言えば例えば「悲しい」場合、こころから悲しいとき、
「ワタシ、めっちゃ悲しい」って言わへんでしょ。「めっちゃ悲しい」のは、そんなに悲しくないでしょ。
言葉にできない悲しさ、それは本人しか分からん。
そうしたものは他人に共有してもらっても仕方ない。結局オノレで乗り越えるしかない。
しかし、そういうことが起こったこと自体がチャンスなんだと思う。そのチャンスを活かすか、殺すか、あいまいなままずっと抱えているか、その他。

言葉にできるくらいの悲しさだったら大したことない。
不安も同じで、いくら「不安だ」と言ったところで、その人の不安そのものに他人はとうてい理解できっこない。似たような感覚はあったとしてもね。

今回、不安という感情も生きていくうえで大切なものと分かっただけで、大きな深化だったと思います。
ショローに進化はもういらない、ショローに欲しいのは深化です。

そんなことを想った月曜の朝でした。
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
今週もオノレからのサインを素直に受け取りつつ、ご機嫌元氣に参りましょう。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?