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あわい境界巡り 第1回 棚田と汽水域

「あわい境界めぐり」とは?

いつのころからか、氣づくと異なる2つの世界の境界線にこころ惹かれるジブンがいた。
さまざまな境界があるが、ワタシはどうやら「場」の境界に身を置くのが好きらしい。
海と陸、たとえば波打ち際。
海と川、これは汽水域。
山と里、里山もそうだと言えよう。
都市と田舎、ここ糸島もしかり。
ちなみに時間で考えれば、今生きているワタシも生と死のはざまだ。
ニンゲンと猫にもあわいが存在すると思う。

ここでは、「あわい」や「境界」に関することを綴っていきたい。
あいまいな国ニッポンに生を受け、21世紀にいたるも今もって白黒はっきりさせずに生きるのが得意な国民性。
今の時代に失望しながらも、まぁいいか~とのほほんと生きる。
生と死の境が極めて希薄、というのも日本人の特徴とされる。
死者との会話を続ける日本人、お盆に大移動する民族。
いいとこも、そうでもないとこもすべて「あわい」にあるのではないか。
ともあれ、まずはワタシが見つけた「あわい」の場を見ていこう。

松浦市・土谷棚田

「棚田は山の中」という、ワタシの中の棚田イメージが崩れた土谷棚田。
ご覧の通り、棚田が海に迫っている。
開放的で明るい。
機械が入りにくい場所だが、その角度がなだらかなせいか、艱難辛苦を感じさせない。
ヒトもそうだが、苦労がにじみ出ちゃうと周囲は引く。
土谷棚田は「どや?」とアゴをしゃくり上げるとまではいかないで、「どうよ?」と二カッとするくらいの感じがいい。
ここも一種の「あわい」の場ではないか?
田んぼにできるかできないかギリギリのところで、やってのけてる。
ここの段々模様、覚えておいてほしい。

二丈 姉子の浜汽水域

川が海に注ぎ込む場所

和歌山でも汽水域を体験していたが、ここ糸島の汽水域はダイナミックだ。
川水が海水と交わる場所では渦が生じる。
川水と海水がせめぎあい、やがて溶け合い、一体化する。
この境界にのみ生息する生き物たちがいる。
海も干潮満潮によって、川の流れも変わっていく。
片時も同じはない。

波の形と砂浜の段々、棚田とそっくりだ。
自然がすべてのお手本なのだ。

海辺のイノシシ

つい数日前に、浜辺で猫の亡骸を発見し埋葬したばかりだというのに、なんと昨日はかなり大きめのイノシシの死体が浜辺に横たわっていた。さすがにイノシシの埋葬は無理。糸島市役所保健衛生課に連絡した。
しかし、こうも立て続けに、海辺で死体に遭遇するのはなんらかの意味があるのだろうか。
もっとも浜辺にはイカやタコ、その他の魚なぞの死体も流れ着いているのだ。
おそらく陸上動物の死体が波打ち際にあったことに違和感が生じたのだ。

母の胎内にいたころは水中動物だった。
産道を通り抜けて、こちら側に到達し陸上動物になるワレラ。
なんと不思議な……。
たとえば死を母の胎内に回帰すると考えれば、波打ち際もありうるのではないか。
そんなことをぼんやり考えながら、今日も浜辺を散歩する。

続く

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