立春リトリート
あまりに満たされると、言葉が出て来なくなるということを知った。
余分なものが無いということは、
より鮮明に色濃く映る。
何もないということは、
全てがあるのだということ。
ちょうど立春明けの、はじまりのタイミング。
玄米菜食、シンプルなごはんと暮らしをつくるリトリートの練習会を友人たちに声をかけて開催した。
好きな人たちと何も余分なもののない、暮らすための空間に身を置き、それぞれを見つめる。
すなわち自分も見つめ返す。
ほんとは
”ただ生きてる”
でいいはず。
たくさんの余分が積み重なっているけれど。生きていること。ただそれだけでその存在は認められ、祝福されているはずなのに。
そんな想いが溢れてきた。
自分たちの暮らしをただつくること。
薪を割る、火を焚く、羽釜でお米を炊く、みんなでいただきます。
散歩して、お掃除して、今回は去年仕込んだ醤油を絞ってみた。
お米は昨年私たちでつくったもの。
お野菜も一緒に活動している仲間のもの。
料理人である相方の、その野菜ひとつに対する接し方はそのまま、作ってくれた人たちへの感謝の意。
ほうれん草の赤い根の部分がいちばん濃くて甘いこと、それはどのお野菜でもしかり。
生で食べて確認しながらつくるご飯にみんなの歓喜があがる。
きっかけはいろんな本や、若杉ばあちゃんのお話の中で、ひたすらに言われ続ける”玄米菜食”
良いということはわかっている。
分かっていても実践するには難しいほど、現代社会は過剰になっている。
ならば、せっかくするなら興味ある人たちで、身体も整わせれるような場になったらいいんじゃない。玄米ならばつくっているし、自分たちの手でつくる暮らしができるさびはうすもある。
そんなことを田んぼ作業しながら思い立った去年の夏の暮れ。
理想は、季節ごとの土用に。
暮らしをつくる場であり、生きるに向き合う場であり、ひいては身体を整えれる場になったならば。
そして、それがこの風景もをつくることに繋がるんだ。
料理人である相方と、この季節ごとのリトリートをひとつ糧にしていければ。と思っている。
ありがたいことに、コラボしたいなという人たちも周りにたくさんいる。
余白はたくさんある。
でも芯は清らかに強く。
そんなイメージを抱いていたけど、ほんとにとてもとても、よい時間になって。あたたかくて、清らかで浄化のような時間が流れていた。
次は立夏の頃の予定。
また季節が巡るとやれることも変わってくる。
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