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活字のごはんvol.04-パン工場のジャムパン

 こんにちは。菜のはな書房です。
 間が空いてしまいましたが《活字のごはん》、第4弾です。

 日本語で書かれた小説でいちばん食べものにこだわりが強いと思われる作家、小川洋子先生の作品から、「パン工場のジャムパン」を紹介したいと思います!

 このジャムパンが登場するのは、短編集「まぶた」(新潮社)所収の「中国野菜の育て方」です。
 あらすじは以下の通り。

《夫と二人で暮らす女性は、ある日カレンダーに謎の印を見つける。夫に尋ねてもわからないと答えられる。印のついた日、不思議な野菜売りのおばあさんから苗を購入する。パン工場の裏手にある畑で野菜を作っていると聞き、訪ねてみるが…。》

 工場の裏は駐車場だった。人の姿はなく、ただパンを運ぶためのトラックが並んでいるだけだった。わたしはフェンスの網目から、闇に沈もうとする風景に目を凝らした。とても広い駐車場だった。どこまでも規則正しく、トラックの列が連なっていた。そのもっと向こうには、何も見えなかった。
「何か用かい?」
 振り向くと、白い帽子とエプロンと長靴姿のおじさんが立っていた。
「ごめんなさい。黙って入り込んだりして」
 あわててわたしは言った。

「中国野菜の育て方」

 パン工場を訪ねると、埋立地で畑はないと告げられます。

「いや、構わないよ。けど、何してるの? こんなところで、そんなもの持って」
 おじさんはわたしが抱えているものを指差した。白っぽくふやけた、大きな手だった。エプロンには所々、粉の固まりがついていた。
「ええ、ちょっと事情があって、人を探しているんです」
「工場の人聞かい?」
「いいえ。野菜売りのおばあさんなんです。スカーフを頭に巻いて、自転車に野菜を積んで、このあたりを個別訪問している、おばあさん。あっ、それから、爪にピンクのマニキュアをしているんです。見かけたことありませんか?」
「いやあ、知らないなあ」
「パン工場の裏で農業をしているらしいんです」
「工場の裏?」
 おじさんは眉毛を上下に動かした。
「工場の裏は見てのとおり、駐車場さ」
「駐車場の向こうは?」
「どこまでいっても駐車場。その向こうは海だよ」
「海?」
「ああ。野菜畑なんてないはずさ。ここは埋立地だからね」
「…………」
 わたしはもう一度目を凝らし、遠くを見つめた。
「中国野菜の育て方」

 おばあさんを探すことは叶わず、しかし工場のおじさんはジャムパンを分けてくれました。

「何かの間違いじゃないのかい? まあ、いずれにしても、お役に立てなくて悪かったね。よかったら、これでも持ってお帰りよ。暗くならないうちに」
 おじさんはエプロンの中から丸いジャムパンを取り出した。
「出来立てだぞ」
 両手がふさがっているわたしの代わりに、おじさんはスカートのポケットにパンを入れてくれた。
「ありがとうございます」
「いや。ここには嫌になるほどパンがあるんだ。一個くらいなくなったって、誰も気がつきゃしないさ。それじゃあ」
 おじさんは工場の中へ走って行った。
 もうすっかり日は沈んでいた。スカートの上からでも、ジャムパンの温かさは伝わってきた。わたしはうつむき、水槽の中に視線を落とした。いつのまにか、五本の植物が光りはじめていた。身体を少しでも動かすたび、それは揺れながら光を撒き散らした。トラックも海もすべてのものが暗闇に消えてゆく中で、その光だけが静かに渦を巻いていた。
 野菜を積んだまま、おばあさんの自転車はどこへ走って行ってしまったのだろう。そうつぶやきながらわたしは、どうしようもできずにただじっと、胸に光を抱いていた。
「中国野菜の育て方」

 このジャムパンの描写だけで朝ごはん代わりになりそうです。リアルの朝ごはんはちゃんと食べた方がいいですが。

 絵で描いた「おいしそうなパン」も、もしかすると本物のパンすらも敵わないような「パン工場のジャムパン」、ゆっくり読んで味わってみてください。

 次回もお楽しみに!

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