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正義について

えらてんさんの動画を受けて、またプロおごのオンラインサロン「三ツ星スラムのゴミ捨て場」を受けて、自分なりに書いてみる。

ミルの著作『功利主義』において、正義という単語が頻繁に登場する。最後の訳者あとがきにもあるように、執筆当時の時代背景もあってのことだろう。しかしそれを抜きにしても、正義は哲学者にとって最も重要な議題の1つである。

昨今は某感染症に伴う混乱によって、さらに正義が盛り上がっている。社会の分断の影響もさることながら、多様性を包摂できるだけの社会全体の余裕が失われつつあるという面もあるだろう。

さて、生物学的な視点にたてば、正義は存在しない。正義を求め、考え続けてしまう情動は、ただの生物的な本能である。

猿が徐々に人間という社会的な生物へと変化していくにあたり、新しい認知を獲得していった。いや、正確に言えば社会をやるにあたって有利な認知は淘汰の中で生き残り、不利な認知をもつ個体は死に絶えていった。

そうして人類に自然と実装されていった機能が、「正義」である。道具を持つ前はひたすらガタイの良い猿が強かったが、投擲能力を得た以降は大勢でボスザルを囲んで石を投げるリンチ処刑が始まり、正義であることが生存に重要になったと言われている。

つまり、肉体が強いだけで正義性が弱い個体は処刑されるため遺伝子を残せなくなったということだ。すると、正義を求めてしまう個体は生存に有利になり、その特徴は子孫へと遺伝される。

これを何千年も繰り返し、何世代も繰り返すと、どんどん正義欲求は強くなっていく。

我々はついつい、「正義ってなんだろう?」と考える。そして延々と(下手すりゃ死ぬまで)答えを求め続ける。

本能的な欲求には抗うことが難しい。ただ、一度立ち止まってみるのはいかがだろう。この正義欲求は、ただの機能なのだ。食欲や性欲と同じような、凡俗な煩悩の一つに過ぎない。

と、あえて断言してみたが、一つの意見として聞いて頂ければ幸いだ。

欲求に振り回されるのをやめ、一旦落ち着こう。

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