見出し画像

連載企画③日本の外国人労働者受け入れ状況とその問題点

 外国人労働者の管理や難民受け入れなどの入管行政は1980年代半ば以降、労働行政に従属して行われてきました。この背景にあるのは、1980年代以降のバブル期に起きた深刻な労働力不足です。

1.深刻な労働力不足を補った非正規滞在者

 1985年のプラザ合意(ドル安を容認する合意)後の円高不況を克服するため、日銀は低金利政策をとりました。その結果、市中に低金利のお金が溢れ、1986年から日本はバブル経済に突入しました。空前の好景気の中、いわゆる3K(キツイ、キタナイ、キケン)と呼ばれた製造業や建築業では、深刻な労働力不足に陥りました。「仕事はいくらでもある、しかし、働く人がいない」という状況です。この深刻な労働力不足を補ったのが、不法滞在者を含む外国人労働者でした。バブル経済期の急激な円高はドル換算すると高賃金となり、製造業や建築業などの労働力不足を、高賃金を求めてやってくる不法滞在者を含む外国人労働者が補い、日本の産業を支えました。そして、入管及び警察は日本政府・財界の意向を汲み取り、バブル経済下の労働力不足を補う貴重な労働力として活用するために、彼らを摘発せず、その就労を容認してきました。

 政府・財界の移行に従って入管及び警察が不法滞在者の存在を容認し続けた結果、彼らの数は1993年に約30万人に達していました。それでも深刻な絶対的労働力不足に悩まされ続けた財界は、政府に外国人労働力の導入を要請しました。これを受けて日本政府は、日本人の実子(日系二世)、実子の実子(日系三世)とその家族を日本で自由に就労できる外国人労働者として受け入れる入管法改正を1990年に、また研修・技能実習生という名の奴隷的外国人労働力の導入をするための法整備(外国人の技能実習の適正な実施及び技能実習生の保護に関する法律)を1993年に行いました。この2つの法改正によって正規の外国人労働者も受け入れることで、不法滞在者の増大に歯止めをかけようとしました。

note日本の外国人労働者の受け入れ

2.外国人労働力の導入と創出

 しかしながら、1992年にバブル経済が崩壊すると状況は一変します。日本経済はデフレに突入すると、それまでの「絶対的な労働力の不足」から「安価で景気の調整弁として使える労働力の不足」に質的に変化しました。この変化が生じた背景には、企業が不況において利益を確保するために、「安く雇えて、必要なくなれば簡単に首を切れる都合の良い労働力を求めるようになった」ことがあります。そのため、労働者の賃金は上がらず益々デフレが進行する、いわゆるデフレスパイラルに陥りました。

 安価で景気の調整弁として使える労働力とは、非正規労働者(嘱託社員・期間従業員・パートタイム労働者・アルバイト、および派遣労働者・請負労働者など)のことを指します。デフレスパイラルを受けて、財界は、日本経済団体連合会(以下、「日経連」という。2002年に日本経済団体連合会(経団連)に統合。財界の労務担当と言われ、日本の労働行政に強い影響力を持った。)という経営者の団体を通じ、1995年「新時代の『日本的経営』」というプロジェクト報告を打ち出し、非正規労働者の創出を提言しました。しかしながら、「労働者派遣法」があったため、企業は非正規労働力の大量確保ができないという法の壁にぶち当たります。この「労働者派遣法」の下で、企業からの非正規労働力への需要に応えたのが、前述の日系外国人労働者や外国人研修生・技能実習生、及び不法滞在の外国人労働者でした。彼らがこの需要にこたえた背景には、日本人から見れば低賃金で不安定な雇用であっても、外国人労働者にとっては、自国と比べればずっと高賃金で安定して働けたという事実があります。1995年当時、不法滞在の外国人労働者は32万人、非正規の外国人労働者は29万人おり、彼らの労働力は日本企業にとって無視できない存在でした。

3.摘発・送還方針への転換

 この一方で、政府は、日経連をはじめとする財界からの強い要請を受け、「労働者派遣法」が定めた規制を緩和するための法改正を次々と行いました。まず1999年、この法律を改正し、労働者派遣の派遣先の業種規制を無くしました。事実上の派遣労働全面解禁です。しかしながら、この際には物を製造する仕事は規制緩和の対象外でした。2003年6月には、製造現場においても労働者派遣できる法改正が行われ、労働者派遣に関わる規制の緩和が完了しました。これは、企業が不法滞在の外国人労働者でなくとも日本人の労働者で「安く雇えて、必要なくなれば簡単に首を切れる都合の良い労働力」を確保するための制度的な準備が整ったということを意味していました。

 労働者を製造業にまで派遣できるようにするための法改正が行われた直後、2003年11月、警視庁、東京都、法務省入管局(当時)、東京入管は、首都圏の不法滞在者を半減させるという共同宣言を発表しました。この宣言を受け、2004年から入管・警察は、不法滞在者の大摘発を始めました。つまり、入管と警察は、製造業において不法滞在の外国人労働者を日本人の派遣労働者と入れ換えることができるようになるタイミングを見計らって、2004年から本格的に不法滞在者の摘発を始めました。

4.翻弄される外国人労働者

 しかしながら一方で、長年日本在留を事実上許されてきた不法滞在の外国人労働者は、滞在中に日本人と結婚したり、結婚を前提にして交際したりするなど、日本社会に溶け込み、日本で生活基盤を築いていました。また、入管に出頭して難民申請し収容・送還のリスクを冒すくらいなら、摘発されない不法滞在のまま生活したほうが良いと考えた難民も多くいました。2004年の大摘発の中でこのような人々が次々に摘発され、国外退去処分を受けました。そのため、2005年になると、東日本入国管理センターは、難民申請者や日本人/在留資格のある外国人の配偶者などの帰国できない被収容者で溢れるようになりました。西日本入国管理センター(2015年閉鎖)においても、2004年末頃から、パキスタン、ビルマ、スリランカ、ネパール、アフリカ諸国の難民申請者や日本人/在留資格のある外国人の配偶者が多く送り込まれてくるようになりました。このようにして、日本各地の収容施設は、帰国を拒否し日本在留を求める難民・外国人で溢れるようになり、彼らは過酷な長期収容を経験した末に、仮放免となって生活しています。(仮放免について詳細は「連載企画⑤在留資格を持たない人々を取り巻く状況 - 仮放免」をご覧ください)

 このように「企業にとって都合の良い労働者(安価で景気の調整弁として使える労働力)が欲しい」というご都合主義的な財界の要請に従った入管が、たくさんの帰国できない外国人労働者・難民(入管法上でいえば、長期の「不法滞在者」)を生み出してきたのです。

 

 次回の更新もお楽しみに!