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舌切り雀と自他境界 その2

ここまで何の説明もなく使ってきた「自他境界」なのだけど、改めてどんな意味で使ってるか?を詳しくやってみる。書いてみたら長くなっちゃった。


自他境界。単純に「自分と、他(人)の、境目」なのだが、ここも定義が必要だったりすると思う。「自分の規定」って生物学的なのから心理学的なのまで、すっごくたくさんある。

たとえば、人間はものを食べる。「外から、内に取り入れて自分にする」のだけど、口から肛門までは一本のホースみたいにつながっている。私が覚えているかっこいい言い方は「人体はトポロジー的にはちくわである」だ。食べ物はちくわの穴を通って行くので、実はずっと「外・他」扱いになっている。食べたものがちくわの穴を通りながら、どうにか自身の「身」になるためには恐ろしく複雑な過程を経ているのだ。

そして哺乳類は(人間も)「消化吸収のちくわの穴の仕組みが未熟なままで生まれてくる」のだな。最初から大人と同じものは食べられない。段階的に消化吸収の仕組みが発達する。これがポイント1。

あるいは自分を守ろうとする様々な生物の仕組み。「自分じゃないやつ!やっつけろ!」の働きがあって、細菌や毒から身を守ろうとする。暴走しちゃうとそんなに害でもないのにムキになって「出て行け!」なるので、花粉症で鼻水が止まらん!なんかが起こる。臓器移植後の拒絶反応なんかもそうだ。生物は「自分」の規定が結構厳しい。これがポイント2。


一方で。気持ち的、感覚的、心理的に、「自分が自分である」と捉えることは、引っかからない人には「当然過ぎて、考えてみたこともない」話になるかもしれない。

「あなたが、自分が自分であると、わかったのはいつですか?」

「あなたが、自分以外の人間にも、自分のように感じる’自分’があると、理解した時期やきっかけを覚えていますか?」

「人間には、それぞれの感じ方を持つ’自分’があって、同じ感じ方の時も違う感じ方の時もあって、全ての人間が自分と同じ感じ方をするとは限らないと理解した上で行動を選択していますか?」

この三つの質問にスラスラと答えられる人は、そう多くはないと思う。

家族紹介にも書いたように、私の息子は発達障害で、この三つの質問は私が息子に教えたくて伝えたくて苦悩苦闘した設問なのだ。乳幼児期、上の娘は「一般的な常識的な子供のイメージ」で通用したのだけど、下の息子は破天荒の「桁が違った」のだよ。観察し、データを集め、仮説を立て、実験し、結果を検討し、対応策を決定するの繰り返し。一例を挙げる。

2歳時点での行動例。

家族で公園に行って、ジャングルジムに登る。

手を離して、落ちる。

私(母)の手に噛み付く。


この行動パターンで考えられる、彼の思考過程を推察せよ。

難しいでしょ?

まず、なんで、手を離すの??落ちるじゃん!いや、百歩譲って、2歳だから落ちるってわかってないのか??にしておこうか。でも、一万歩譲っても、なんで私に噛み付くの????これはおかしいだろ!私、何にもしてないじゃん!!

何度かの行動観察の結果「息子の視界に私が入ってなければ、息子はジャングルジムや鉄棒から手を離さない」が分かった。「可能な限り、遠くで見守る」が私と息子の公園ライフのスタイルとなったのだが、なんで?は残る。

私の推察はこうだ。「息子は、自分と母の手の境界がわかっていなかった」だ。

「落ちた!なんで?!ここで受け止めるはずでしょ!なんでやってくれないの!ちゃんと動けよ!この手!!」となって、しっかりしろよこの手!で噛み付く、と。後に自分の手に噛み付くもよくあった。2歳時点では自傷と他害の区別がなかったんだねぇ。「自分と、母の手」の自他境界は溶けている。母の手は自分の思う通り予想通りの動きはしないが理解できてない。


その1を読んでいれば、ここで息子の話が「自他境界が溶けている」の話の参考になるのがわかるかと思う。成人過ぎた今の息子は「ママのばかー!ママのせいだー!もっとしっかり動けよ!ガブリ!」はやらない。3つの質問におおむね答えられる。一つ目の質問にはこうだ。「ママがママとわかったのは5歳」と。ママの手は僕の手のように自分が思った通りには動かない、ママはママ、僕は僕??と。

ちなみになのだが、こんな風に私にしょっちゅう噛み付いていた息子だが、7歳時点では「ママに噛み付いたことなんかないよ!」と言ってたんだな。息子はジャマスルモノには噛み付いたが、ママには噛み付いてない、と。顔と手と体全部で「ママという1個体の人間」も、わかってなかったんだ!には、ビックラコイタね。そりゃー「ジャマスルモノ」に噛み付いて「ママの顔」に変化が起こって怖いことになっても、意味がわからないよねぇ、ってなったよ。視覚的にはっきりしてる肉体的な「1個体」も把握してないのに、まして「気持ち」「痛い」なんて見えもしないものが「ある」なんて、想像不能だろうよねぇ。

息子に診断名がついたのは4歳なのだけど、育てていく上では、診断名は「ヒント」だったねー。「ヒントを検索するためのタグ」って感じ。(社会福祉的な意味とか、他にも意味がたくさんあるのは承知の上でね)診断名が服着て歩いてるんじゃないからね!!息子は息子なんで、彼なりにどうにかなるように、私なりに研究サイクルやってくしかないわけで。参考書は、発達障害ジャンルに限らない。ガラスの仮面から、セールスマンのテクニック本から、脳神経学から、音楽から、アニメから、哲学から、はばひろ〜く「ヒント」を漁るしかなかいまま、今に至る。

なので、もしも、誰かの「自他境界がアレなのかも」の悩みのヒントにはなる時もあるんじゃないかなぁ?と考えて、こんな文章を書くようにしてる。大人になってからであったとしても、改めて自分で自分の自他境界を掴もうとするのは、とてもとても大変なことだ。私が見てた息子の苦闘と苦悩は痛ましいほどだったからね。だけど、やる意味はあると思ってる。こないだ娘から「ママは私を守るのではなくて、自分で自分を守る方法を教えてくれた」って手紙をもらったんだ。障害の話ではなくて、こっちの「自他境界を作って、自分を守る」なら私もヒントになれるかも!思ったんだ。

というわけで、実践編に入ろう。

ここで「ちくわ」の話に戻る。自分の理解力を上げて、自分を作っていく作業をする時は、肉体を作っていくのととても似ている反応があるからね。ポイント1を思い出して欲しい。理解して「自分の身にする」には、消化吸収が必要で、それには未熟段階からスタートしなければならない。最初から大人の食べ物食べさせたら、最悪の結果も予想できる。胃は大丈夫だけど腸がまだ未熟等の、個体差が激しくて、様子を見つつある意味実験重ねる感じになるのは致し方ない。(私がやりたいのは、ここの離乳食を作りたい!発想だ)

「身にしたいと思ったら、消化吸収能力を把握したほうがいい」(試し、試しぐらいでちょうどいいかも)

消化吸収できない情報、教えがあって、飲み込めない!!があっても、今じゃないなってだけなので、気にしなくていい。吐いちゃう時があってもいい。それは消化吸収器官の訓練になってるかもしれない。自分に合う合わないは、試してみないとわからない。時期がある!は特に重要。それでも、食べて、身につけようって意思があるなら、十分以上に意味があるはずだ。その動きそのものが「自分を作る」だからね。

消化吸収の過程はとても複雑で、これ食べたから(読んだから、言われたから、聞いたから)こうなるでしょ?は通用しないことも多々あるのも、覚えておいた方がいいかもしれない。自分の消化吸収過程と、他人のは違うからね。


ポイントその2が、いよいよ、自他境界の掴み方の実践編のメーンになる。

その3は「自分はどこまで?フレーム問題編」となります。ではでは、ひとまず、この辺で。


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