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バラバラ組合とΩ団の話・6


久しぶりにバラバラ組合員の話をツイートしたので、読みやすいようまとめときます。

たとえば「愛」って言う時、恋愛的告白を受けるってイメージと、穏やかな日常生活ってイメージでは、全然違うわけで。恋愛告白を受ける的な「一つのシーン」だけのものの勇気と、日常生活的な「積み重ねるもの」の継続的努力の尊さと、両方あるけど、後者の比重が軽過ぎる。

意見が違う、趣味が合わない、ひどいことを言われた、ひどいことされた、ケンカした、仲直りがあった、その一つ一つの「シーン」が「積み重なって」日常生活は成立してる。積み重ねを見ないと、あるいは、積み重ねの解釈の齟齬があると、「同じシーンが持つ意味を、全然違う意味で受け取る」が起こる。

「失敗しない」をメーンに考えると、言動的な選択としては「やらない」を選びがちになる。
「やってみる」はチャレンジなので、チャレンジは常に失敗と共にある。トライ&エラーと言うではないか。
重要なのは「エラーの解釈とその後」なのだ。
ここがないと「積み重ねられない」も起こる。

「何もしてないのに、離婚を言われた」の話を読むたびに思う。「そやって、何もしてないから、何も積み重ねができない虚しさに相手がウンザリしたんでしょ?」
何かをやらかしたから別れを告げられるのではない。
何かをやらかした、その後に「何を積んだか」が虚無だから、だと私は思う。

日常生活ってのは、基本的に「賽の河原の石積み」で「シジフォス的苦悩」で、積んでも積んでも鬼が来て壊されるし、元の木阿弥じゃん!の絶望の学習性無気力に陥りやすいものなのだ。
何かを、たとえば「愛」を積み重ねようとしてる人には、賽の河原の鬼と暮らすのは地獄なんだよね。

毎日毎日、ご飯を作っては消える。
毎日毎日、掃除をしても洗濯をしても明日には汚れる。
毎日毎日、子供に何かを言う。
そういう「賽の河原の石積み」に対して、毎日毎日の「トライ」だって見てるかしら。
毎日トライしてるから、エラーがあるし、チャレンジし続けてる勇敢さと認められるかしら。

毎日毎日、学校に行ってはいろいろしてくる。
毎日毎日、仕事に行っては凹みがある。
毎日毎日、息吸って吐いて食って出してしてる。
生きてるって、だいたい「賽の河原の石積み」みたいなもんだ。
エラーの時だけ指摘する、鬼みたいな人と暮らしたい人なんかいない。

それぞれが、それぞれの、賽の河原の石積みをしてる時に。
お互いの賽の河原の石積みに「意味ないね」って嘲笑しあってるのが今の地獄なんじゃなかろうかなーとか、私は思う。
トライを、チャレンジを、継続を、嘲笑しかできないメンタリティは「積み重ね」を見ない。

エラーしか指摘できない鬼みたいな人を私は「バラバラ組合員」と呼ぶ。
失敗しないように、怒られないように、だけを見てるから、その場しのぎのことしか言えず、できず、他者との間に何も「積み重ねることができない」人。
バラバラ組合員は「積み重ねのなさゆえの批判」を受け取れない。

賽の河原の石積みの毎日の中で。
トライ&エラーで凹んで。
チャレンジの勇気が出ない日もあって。
だけど「チャレンジしてみた!思ったより良かった!」の話を聞いて、私も!の勇気をもらえたりするのだよ。
「共に暮らしたい」と思うのは、そういう人だ。

「積み重ね」は、別の言い方をすれば「育てる」になるんだと思う。
「育てる意識」のある人は、一つのシーンを「過去と未来へ」と「途中だよ」で見る。
バラバラ組合員は「その瞬間の(主に自分の立ち位置保守と感情で)価値観で断罪に走る」をやりがちなのだよなぁ、そりゃ地獄よねと思う。

賽の河原の石積みしてる人は「それでも、自分で石を積んでる」んだが。
賽の河原の石積みをやってる他人の石積みを崩すだけの鬼は「自分のことを、一つも積んでない」んだよ。
バラバラ組合員が「自分を主語にして話せないことが多い」のは、これが理由だよ。

人は育つよ。
年齢関係ない。
大人になってからだって、育つから。
トライ&エラーと、その後を「積み重ねる」があれば、育つよ。
それあると、割と、石積みも耐えられたり、するのよね。

レベル上げってのは、雑魚キャラとの地味な戦いでの経験値稼ぎなんだよねぇってなイメージがあるだけで違うから。
無駄とかくだらないとかで、経験値稼ぎチャンスを逃してると、レベル上がんないってなるの(^◇^)
賽の河原の石積みが、経験値稼ぎとなる価値転換!

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