あおいはあおいか?

「認知の歪み」なる言葉があるのだけど、私は時々、それに引っかかるのだ。「歪んでるのは、どっちだ?」ってなって、「そっちが歪んでんだろ!」ってケンカになりやすいから。

新しいタピオカ屋さんが出来て、ブルーハーブティーという青いお茶があるんだってよ?と娘に誘われて、それは写真を撮らねば!と思ってさ。行ったですよ。撮ったですよ。これがね、

「青くうつらない!」

のでございます。

これから並べる写真は、すべて、同じものを撮ったんだよ??

一番目。

コーヒー牛乳っっぽい??


2番目。

イチゴ牛乳っぽい??


3番目。

ありゃぁ、もっとイチゴ牛乳っぽい??

4番目。

お、近くなった!!

アプリを使って「フィルターがかかってる」とこうなるのだな。

5番目。

アプリを使わないと、こう写る。

だけど、どの写真も、私が見た感じとは違うんだよなーってなる。

人間の認知は、脳で行われるわけで。脳ってのは「情報を編集する」ので。つまり「個別アプリ採用されてて、それぞれのフィルターで編集済みのものを、見えた!と思っている」だとするのなら。

「ある人は青いと言い、別の人はピンクだ、茶色だと言うが、誰も嘘はついてない」は起こり得ることだ、となる。

「認知の歪み」って言葉に引っかかるのは、「その人にはそう見えているんだねを信じない」感じが濃厚な時なんだ!と自分のフィルターを発見した。

「あの空を見て、私は青いねと言い、あなたも青いねと答える。けれど、その青さが同じであるとの証明は不可能だ。」

私には私のフィルターがあって、それは時に何かを鮮やかに写し出して伝える言葉になるのだろう。

けれど、そのフィルターは別の何かの色を殺してしまうのだな。

それは私だけの話じゃない。人はそれぞれ脳内に個別アプリの編集作業があるんだな。

コミュニケーションや表現を考える時に、「脳内アプリの、個別編集」は重要だろうなぁって思う。簡単に「あいつのそれは認知の歪み」って言いたくないんだよなぁって思う。

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