専任読手と何が違うか

競技かるたの読みというのは、とても平板な読み方をする。音階は「低い音程」と「高い音程」の2音しか無く、言葉のイントネーションの違い等を出しにくい。同じ音階がお経のように続く。
以前、自分の会には韓国人の子がいたが、韓国で練習をしていたら隣の団体から「怪しい新興宗教が活動しているのではないか、変なお経のようなものが聞こえてくる」と言われてしまったことがあるらしい。要は、そのくらい単調に聞こえるものだということだ。

読みのテンポも「下の句5秒程度・余韻3秒・間合い1秒・上の句6秒程度」と決まっていて、全体に同じリズムで読み続けるように言われているので、これに沿って読めば基本的にはみんな同じ読み方になるはずなわけだ。究極的には。

そんな風に同じ読み方をする中で、専任読手の読みが違うのは何故だろう。
専任読手の読みは、この人でなければこう読めないというものがある。聞けば「あぁ、これは○○専任読手の読みだ」と分かるし、それを真似した読み方する読手は「○○専任読手の読みを参考にしてるんでしょう」と言われる。

同じ2音の音階で構成された読みをしてるのに、何がこうも違うんだろうか。
A級公認読手の中にも上手な読みをする方はたくさんいる。自分はあまり「上手な読み」ではないので、そういう読みを聞くと「はぁー、自分の読みは技量が足りないな」と感じるし、しばしば、もっと頑張らなきゃと思わされる。
それでも、そういう読手さん達と比べても専任読手の読みはそのもう一つ上を行ってるのだ。

専任読手とは、強烈な個性そのものなんだろうと思う。この読手でなければ読めない読み。

じゃあ、個性を出してみればいいんじゃないだろうか!?と思うけれど、足りない技量でそれをやった時にどうなるかというと「ただの癖がある読み」にしかならないという残念な感じになるだけだ。
どうやら、個性なんてものは出そうとして出すものではないらしい。

よく聞いていると、専任読手たちは基本を逸脱するようなことは絶対にしていない。私達もやっている「基本の読み」はそもそもキチンと出来ていて、限りなく縛りのある読みの中で、自分なりの読み方を確立しているワケだ。

いつも、1首ごとに「決まり字までの発音をハッキリと正確に」「同じテンポで」「ここは軽い伸ばし、ここはちゃんと伸ばしを入れる」「余韻3秒をキチンと」「間は長すぎず短くなりすぎないように」ということに神経を使って1試合最大99首(序歌含めて100首)を読み続けるわけだけど、これらを「息を吸うように出来るようになること」をまずはやらないと、個性を出すの出さないのなんてとてもじゃないけどやってられない。
少なくとも今の自分には無理。他のことに神経使える程のリソースは全く無い。

発音、発声、テンポ、余韻の美しさ、言葉の理解、歌の理解、etc…
一つ一つを自分のものに出来るように練習を重ねて、その「一つ上の段階といえる読み」をしていくためには、人の10倍くらい努力が必要になりそうだ。

スタートが遅めな私の、始まったばかりの読手人生。“富士の高嶺”はまだ遥かに遠い。

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