見出し画像

⑥-10 竹田神社

神社名:竹田神社

  • 神社名カナ:タケダジンジャ

  • 鎮座地:〒897-0002南さつま市加世田武田17932

  • 例祭日:十月二十三日

  • 通称:

  • 旧社格:県社

  • 神紋:島津紋(丸十)

南さつま市の観光案内図

わかりやすい竹田神社
アクセスマップ
やはり、神社には、必ず でっかい大楠の大樹
大楠
鮫島慶彦胴像
神事・芸能
七月二十三日(夏祭)~加世田士踊(県無形文化財) 日新公が、御出陣御勢揃の節、仰付けられたものである。戦国争乱の世のこと、合図の手拍子をもって忍びのもの(敵の間者)を発見するための踊りといわれている。大守貴久公が、ほぼ領内の兵乱を平定して、加世田へ初めて入部された時、加世田諸士は万瀬川までお出迎え申し上げた。一同お供申し上げ御屋形へお着きの時、日新公の思召しにより凱旋のお祝として士踊を催されたことが史書に残っている。貴久公御逝去後は、忌日六月二十三日(今は七月二十三日)に祭祀として士踊をすることに定められらる
御祭神
日新偉霊彦命(ヒワカクシタマヒコノミコト)
2016/05/19 — 島津中興の祖、従三位島津忠良公(日新公)を日新偉霊彦命(ひわかくしたまひこのみこと
として祀る。
アクセスマップ
いにしえの道
島津尚久の墓

       いろは坂

 始まりの道  
昔からの立派な教えをいくら聞いても またどれだけ口先で唱えても自分で実行しなければ 何の役にも立たない
二階造りの高い家・立派な家に住む人も みそぼらしい小屋に住む人も その住む所によって人の値打ちは定められるものではない その人の心にこそ 尊い
いやしいの区別があるのだ
世の中には 今日は用事がある今日は気分が悪いなどと言って 大事な学問を勉強せず あてもなく    明日の日を頼みにしている人がいる
自分と同じくらいの似たものを友達としてしやすいものであるが せっかく友として交わるなら学問や腕前が自分よりすぐれ しかも立派な人を選ぶがよい
仏や神は外におられるのではなく 各人の心の中におられるのだ(悪いことをしたら) 世間の人々よりも まず自分の心に恥ずかしく思うべきである天地の神はどんなことでもよく知っているものだ
自分は下手だからといって 稽古事一つであっても気をゆるめ 投げ出してはならない[塵も積もれば山となる]という言葉もあるではないか 
たとえ死刑にするような重罪人の場合でもけして軽々しい裁き(裁判)をしてはならない人を殺す刀もいかす刀も君主の心一つにあるのだ(念には念を入れ 誤りがないようにせよ)
知恵や芸能は身につけても 荷にならず邪魔にもならず かえって世間の人は その人を重んじ敬い 自分の及ばない事を恥ずかしく思うものである
道理も通らず 法も行われぬ乱世だからといって 易きにはしりたがる心のままに わがまま勝手放題をしてはならない
盗っ人はよそから入って来ると思うだろうが 、真の恐るべき盗っ人は 耳な目から入ってきて心を惑わし 魂を奪うものである。心の入り口である耳や目にしっかり戸締まりをしなければならない。
たとえ自分がよく知っていても 身分の高い人や君主 つまり目上の人の話は、初めて聞くような態度で聞くのがよい
自分のつまらぬ行いが だんだん悪い習慣となり ついには自分のしなければならない務めをつらい事だと思い 嫌がるようになるものである
私の心を捨て わが身を投げ出して 主君にお仕えしなければ何か事がある場合 すぐ恨みも怒り不平不満を漏らすものである 
学問は朝でも昼間でも励まなければならないが 夜のほうがなお静かで良い
善しにつけ悪しきにつけ 人の身の上を見ることによって自分を磨くのが良い 特に友達は我が身を修め正す鏡となるものである
罪悪の種となる欲心に任せなかったならば 道に外れた悪い名が 世間に伝わることもあるまい
礼儀を尽くすのは 他人にするものであろうか(いやそうではない)また人を見下げるのは 単にその人を軽べつすることだろうか いや自分を見下げることになる
下の者が主人の悪口いうのに(主人を大事に思って真心からいうのと 恨みや不平から言うのと)二通りあるだろう。しかし どちらにしてもたいていは主人のためになると思って 喜んで聞くがよい
(他人からひどうことされて)つらいからといって その人に恨みをかえしてはならない お互いに恨み返し 報いあっていては 果てしがないではないか
どんなにうそいつわりの多い世界であっても 神様は公平にみておられるから 人々が無理なお願いさえしなければ 人によってわけへだてをなさるようなことはあるまい
この世に立派な名を残している人も やはり我々と同じような人間であり その人達の心も同じ人間の心で 我々が何も劣っているのではない
楽しいことも苦しいこともその場限りのものでときが過ぎると跡かたもなくなるものである。人たる者は後世に良い名を残すよう一心に心がけるべきであり、
 昔から正しい道によらずにおごる者で 天罰にあわない者はない
つらいこの世に生きているこの身の上は、前の世になしたことの報いであると思えば、今の世でなすことは、また後の世の報いとなるであろう
昔からよく勉強する人は、亥の刻(午後十時)に寝て、寅の刻(午前四時)に起きるというが、これは、はかない我が身を無駄に過ごさせないためである。
どうしても逃れることができない場合は、命を捨てるものと覚悟を決めておくがよい。娘の覚悟さえあればまさかの時になっても、少しの未練もなく心は清らかであろう。
私欲があると思わず知らず、人道にはずれたことをするものである。自分一身の欲を捨てて正しい道を守るようにせよ。
たとえどんなに苦しくとも まっすぐな道を行き 正しいことをしなさい。もしつづらおりのように曲がりくねった道を歩き不正をすると その末は鞍馬山の暗い道から逆さまに落ちるような目にあうものだ。 
やわらぐと怒るとの2つをたとえて言うと 弓(武)と筆(文)。また、鳥に2つの翼があるようなもので 一方を欠いては役に立たない。
「万能も一心」ということわざがある。どんなに多くの芸能を持っていても 心が悪ければなんの役にも立たぬ。人に仕えるには 自分の才能を頼みにして自慢してはならない。思案し堪忍することが大事である
賢い人を用い 愚かな道を退けて よい政治をするという人が 必ずその通り実行できたらまことに関心なことである。
場合によっては酒も水の様にまずくなり また川の水であっても酒のようにありがたく思われることもある。人の上に立つものは たった一語であれ 情のこもった言葉をかけるようつとめよ。
我々がかねて聞いたり、見たりすることも、自分の心の持ちようで、皆、迷いともなり、悟りともなる。(心に曇りがあると、真相を見ることは難しい)
回向(死者の弔い)するには、味方と敵とを区別してはならない。たとえお経を読もうが読むまいが、それより真心込めて祀ることである。           
明らかな目もくらんで、この世から迷っていたならば、死んでから前の世のやみ路はどうなることだろう
心こそは戦争するものの命である。味方の軍隊の心が揃えば勝ち 揃わなかったら負けてしまう。    
どこの国や村でも、そこで行われている法令、きまり等は国民にまず、よく教え習わせておくようにする
まだ少し足りなくても満足するがよい。月も満月になれば翌日からは、十六夜の月となってかけ始める。
頼る人もない老人、孤児たちを哀れに思っていたわってやれ 国民に対しては寛大な心 情けある心がなけらばならない。                 
少数の敵だからといって、これをあなどってはならない。また多数の敵だからといってこれを恐れてはならない。                     
悪いことがあったら直ぐに善い方に直せ 間違いに気づいたらすぐに改めよ 義も不義も決して生まれつきではないのだから                
正しい道の為には、いつでも身を捨てようと覚悟をしておれよ。その真心は、必ず天に通じて、神の助けを受けるだろう。                 
軍勢の心を得るのも、又軍勢の心を失うのもただ大将たる者の心一つによるものである。        
舌でさえも、歯のこわいぐらいのことは、知っているのに、まして人間は相手を見る心がなくてよかろうか
どこの国や村でも そこで行われている
法令 きまり等は国民にまずよく教え習わせて
おくようにせよ
悪いことがあったらすぐ善い方に直せ
間違いに気づいたらすぐに改めよ
義も不義もけして生まれつきではないのだから
頼る人もない老人、孤児たちを
あわれにおもっていたわってやれ
国民に対しては寛大な心、情けある心が
なければならない
まだ少し足りなくても満足するがよい
月も満月になれば 翌日からは
十六夜の月となって欠け始める


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?