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怒りと正義

 怒りと正義について、ずーっと考えている。
 ふと、ヒントのような、一筋の光のようなものを見つけたので、自分の思考の整理のために、書き記してみる。

 前に「他者に自分勝手な期待をしない。他者をコントロールしようとしない。そう心掛けて過ごしていたら、他者に対する怒りが無くなった。ちょっと焦ってる」ということを書いた。でも、実際は怒ることもある。それは、自分のとても大切な人やモノ・コトを傷つけられたときだ。物理的、精神的な傷はもちろん、たとえば自分が嘘をついていないのに嘘だと断定されたり、心から楽しみにしている予定を他者に邪魔されたときなんかも怒りが湧く。程度の差こそあれ、大切なもののための怒りって肯定されてもいいような気がしている。逆に相手の怒りで、自分が不可侵の相手のテリトリーに気が付くこともできる。
 なんというか、適切な怒りというものが、ある気もするし、無い気もする。その辺りがなんとも曖昧で、ずっともやもやしている。

 正義も同じだ。正義があれば他者を傷つけてもいいのか。大義名分があれば許されるのか。いやダメだと思うし、映画やドラマや小説でもそれは散々言われてきてる気がする。正義の名のもとにそういう行動をしてもロクなことにならないって、皆なんだかんだ頭ではわかってる。でも、一度その渦中に入ってしまうと、案外気が付かないものだから厄介だ。
 自分は、後から冷静になって思い返すと、自分に都合のいい正義を振りかざして、相手を凶弾して、そんな権利は本来ないはずなのに、相手を傷つけてしまうことがあった。痛い思いをしないと気が付かないだろう、みたいな理屈を盾にして。でも実際は、相手は「痛い思いをしたこと」しか記憶に残らないし、感情が先立って益々こちらの言葉なんて届かなくなる。結局お互い憎しみだけが残って終わり。相手は自分の鏡だ。相手が感情的に抵抗するのは、こちらが感情を逆なでてるからに他ならない。でも当時は気が付けなかった。
 だからといって、正義は不要なのだろうか?たとえフィクションだとしても、人は正義は手放してもいいものなのだろうか。正しい正義って(なんだかバカみたいな言葉だけど)、本当はあるんじゃないか。

 もうひとつ、相手に対して怒りや正義を振りかざすのをやめようと思う理由は、自分は相手のことを何もわからないからだ。相手の言動の理由、思考の背景なんて、大抵の場合は自分は想像しかできない。しかも無意識に、自分にとって都合のいい想像になりがちだ。相手の表面に出てくるものを勝手に自己解釈して、怒りを覚えたりするなんてとんでも無いと思う。これは、詰まるところ、自分がこうされるのが心底嫌だからだ。

 そんななか、内田樹氏の『困難な成熟』を改めて読み返すと、こんなことが書いてあった。

(水戸黄門を例に)ワルモノはいかなる場合でも罰せられるべきですが、実際に被害者がいて、黄門さまと顔と顔を見合わせて、その人の苦しみや悲しみは「不当である」という気分が醸成されないことには、正義の執行は起動しない。レポートとか、風評とかでは黄門さまは動かないのです。
  ー中略ー
 そういうものなのです。それで正しいのだと思います。
 正義の起源は生身を備えた他者の具体的な受苦に対する「共感」だからです。
 観念的な「悪」を憎んで正義を発動させたりすると、だいたいろくなことになりません。「見たこともない人の苦しみへの想像的共感に基づいて、会ったことのない知らない人に罰を与えようとする」ということは、あまりしないほうがいい。正義の執行は「生身の他者の受苦を目の当たりにしたとき」に限定したほうがいい。それはひとつの人類学的叡智だろうと私は思います。
                      『困難な成熟』より

 この部分の「正義」が、私には「怒り」という言葉に置き換わって入ってきた。なるほど、自分の手の届かない範囲に対して「怒り」を感じない方がいいということか。

 この文章の後で、「裁き」と「赦し」についてこんなことも書いている。

 もうひとつ「裁き」と「赦し」を差異づける点があります。
 それは、「裁き」は個人的になされてはならないということです。「私讐」をしてはならない。個人が受けた損害について、個人が復讐することは禁じられています。自分の妻子が殺された。復讐のために、犯人を殺した。でもその犯人にも妻子があった。子どもは復讐を誓って、父親殺しの男を探し続けた……というふうに復讐はエンドレスになります。
 個人が個人に罰を与えた場合には「正義」は成就しません。先ほども言いましたが、正義というのは「表象の非対称性」を要求するからです。それは被害者が「個人」で加害者が「記号」であるという非対称性であると同時に、刑の執行者が「公人」であり、受刑者が「私人」であるという非対称性でもあります。刑の執行者には「顔」がないのです。
  ー中略ー
 裁きというのは本質的に公的・非個人的なものです。そうでなければならない。そして、赦しというのは本質的に私的・個人的なものです。そうでなければならない。
 正義の執行は峻厳になされます。でも、正義が正義でありすぎることをたわめるように、正義の執行がともなう傷を手当てするために、私的な介入が果たされる。
                       『困難な成熟』より

 この部分が、悩んでいた「個が行う正義の限度」や「正しい正義」についてわかりやすく線を引いてくれた気がする。腑に落ちた。自分が誰かを断罪するような言葉遣いをしていたら、「裁く権利なんてないぞ」と自分を落ち着かせよう。(そこまで冷静になれれば良いけれど)

怒りは、あくまで自分の手の届く範囲、生身の部分まで。
自分個人として、個人的な他者に対して、正義や裁きを執行しない。(社会・政治・人権問題なんかはまた別)
この二つのボーダーを超えそうになったら、要注意だ。自分を律するため、自戒として記す。

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