20代のための自由帳

先日の#読者の秋2020 に向けて書いた感想文で見事な大敗を喫した私だが、その中で「書く」ことの楽しさと不自由さについてひしひしと感じる場面が何箇所もあった。

まさに今もそうなのだが、私は自分の好きなことを文章にすること自体はなかなか好きで、それは自分の思考を整理できるから、などといった優等生のような理由からだけではなく、文字世界の私は自分に対して素直になって表現することができるというのが、文章を書くことが好きな理由のひとつにあげられる。
件の「感想文」の中でも述べたが、私は人付き合いが苦手だ。相手にLINEを送る、あるいはTwitterでの呟きにリプライひとつを飛ばすだけでも見えない相手の顔色を伺わんとして、たった20文字ほどを送信するのに15分費やしたりもする。SNSでの人付き合いは顔が見えない分私には余計に厄介で、相手にこちらの意図が的確に伝わっているか?場を読めた発言か?タイミングは悪くなかったか?気にし始めれば止めどなく溢れてくるそういった“気遣い”の雲に足をとられて15分の往生なんて日常茶飯事だ。
そんな中で唯一と言ってもいいオアシスを、私は自身の思考世界に求めている節があり、このフリーダムに満たされた楽園は文章を書くという行為によって誰にでも目に見える形となるはずなのだが、それがなかなかうまくいかない。

似たような経験がある。私は吹奏楽にその身の半分を捧げていた時代があった。曲がりなりにも音楽を続けていると、自分が演奏していて楽しい音楽と、聴衆が良いと思う音楽に相違があることがわかる。これが一致していれば苦労ないのだがなかなかそうはいかない。
文章も同じく、例えばこの記事は私が私の好きなようにだらだら体裁や構成なんて考えず言葉を並べている状態で、私としてはアウトプットの場となっているが、見る人にとってはなんの得る物もなく加えて読みにくい醜物でしかない。
必ずしも自分と読者の価値観や見える世界・事物が同じとは限らない。その中で相手から共感を得るというのは至難の業で、これが私がアーティストを尊敬する所以でもある。

うまく文章を書きたい、願わくば課題図書の #金木犀のメテオラ が如く美しくかつ的確な表現を用いて読者からの共感を得たい。
私は感想文を書き始めた締切2時間前の、まさにこれから我が学生生活の最後にして中々の汚点となる黒歴史の作成に取り掛かろうとしている時に、そのような世迷言を思い浮かべていた。全くの阿呆である。
一発で書店に並ぶ文章を書き上げる作家がいるはずがない。
そんな当たり前を私は全く考えに入れてもみなかった。プロですら何度も練り直すものを、私のような文章のいろはも知らず、おまけにnote初投稿のようなずぶずぶの初心者が、結果だけを見て、それもたったの2時間で真似できるはずもなく。

全くの阿呆だ。

ではどうすればよいだろう?
どうすれば私の世界は文字世界でも、少なくとも私にとっては美しく映るその肢体を、保つことができるだろうか?

その練習として、2月17日の新たな感想文を待つ間にも続々と文章を投稿し、自分の感情に形を与える練習を積み重ねたい。よく考えてみれば日本に生まれて22年が経とうとしているが、未だに日本語の扱いが不得手でボキャブラリーも少なく、口頭でのコミュニケーションにおいてもすぐに相応しい言葉が口をついて出ないことが多々ある。このnoteを言わば私にとっての自由帳として使い倒していこう。

更新は毎日とはならないかもしれない。それだけの労力を文章を書く上では注がなくてはならないから。
それでも、例え1ヶ月に1回でもいいから、内的世界を文字化する練習を積んでいきたい。

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