lose my book


“lose my way”という表現がある。
最も私が見失ったのは本であったが、
今朝方家を出ようとすると暇つぶしに持参しようと考えていた本が、6畳ほどしかない狭い部屋からすっかり姿を消していた。

この頃の日曜は大学1年時以来の知人、といっても実の父との間以上に歳の離れた方のもとに家庭教師の顔を片手に伺っている。ただここでこの話を出したのは教え子の成績について熱心な教育論を説きたい訳ではなく、自宅から先方宅まで片道2時間はくだらないことを訴えたかったからである。であるからこの頃は良くいえば毎週プチ旅行気分を味わっているとも、悪くいえば往復4時間を私は収監されているとも言えるが、どちらにせよこういった訳から日曜の私にとって本がないというのは些かどころではない痛手なのである。

結局はこの文章に時間をとられたから良かったものの、捜索中の私の脳内ではその本の表紙や、先日までこの机上に置かれていたその光景だけが虚しくも鮮明に思い浮かぶだけに「なぜ、ない?」「なくなるなんて理論的におかしい」「ここ以外に行き場なんてありえないだろ」と、声には出さないでも静寂の中にありながら心は狂乱の峡谷に突き落とされたのであった。
私は熱しやすく固執しやすい性格だ。この本がなくても致命傷にはならないないことも、無いものは無い、つまり今の行動は無駄であることも全て狂乱の渦中で神楽を舞っていた当時から自覚していた。しかし結局家を出てもなおしばらくはこのやり場のないイライラに私は支配された。それはこの瞬間において、私は本のみならず“本来あるべき”自分すら見失い、自分に対する全くのコントロールを失った状態にあったと言えるだろう。

“lose my book”はこの状態を指している。
理性によるコントロールを失いその場に立ち尽くす私は、なんの恣意にも染まらない無垢の私だと言える。無いものを求めて無為を繰り返す、変えることができない事実を目の当たりにして幼稚な怒りを吐露する、これが“本来”を剥き出しにしたありのままの私だとすれば、普段演じている(比較的に)落ち着いた私、理不尽を嫌い理屈を信仰する私は言わば果実における果肉にすぎず、「私」という1個人のエッセンスはその種子 -lose my bookの私- の中にあることになる。

SNSの台頭により個人の匿名性が大いに担保されやすくなり、さらには見えない脅威に怯えて口元を覆うことが当たり前となった昨今において、様々な意味でその人の素顔は霞んでいくばかり、それどころか当の本人ですらどれが本来の自分なのかわからなくなりつつありはしないか。

とはいえ本を見失って“本”“来”の自分をそこに見出すとは些か皮肉なものだ。

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