雑魚は何を夢に見るのか

私生活の中でタスクに覆われてしまった時、ふとなぜ自分はこの様な雑魚ルーティンワークに追われているのかと虚無になることがある。
今日のメニューを紹介すると、まず起床すぐの「朝食」、こいつはなかなか厄介な雑魚で本質の「食べる」にかかる時間に比べ、その前後の「作る・片付ける」が総じて倍以上の時間を奪っていく。次なる「洗濯」は特にこの冬場にはこたえる雑魚で、末端冷え性の私はこの雑魚を終える頃には手先の感覚を失ってしまう。最後は学校や内定先からの「課題」で、ひとつひとつは大したことはないのだが如何せん数が多い。またこれらをこなすことで得られるものが多いのも事実だが、学生生活が残り少なくなってきた今やらねばならないことかと言えば疑問符が拭えない。
以上のラインナップの中、この文章は洗濯物の山を背にしながら書いている訳だが、貴重な学生生活を費やしてまでこなすこれら雑魚に果たして如何程の意味があるのか。一方でやらねば困るのは結局自分な訳で、どれ程の雑魚でも食物連鎖の一端を担っているのと同様にこれら雑魚も私を“保つ”ために必要であることは変わりない。意味がないともあるとも言える。

しかし突き詰めてしまえば、人間の為すこと全てに何の意味があるのか、とすら感じてしまう。仕事で何か大事業を成したとして何になるのか、趣味に多大な時間と金をかけたところでそれが何になるのか、いずれも快を得るためだと結論付けることもできるが、快は新たな快への渇きを生み、それはつまり新たな不快の始まりでもあるわけだから、結局は快を求めることは不快を求めていることと同義ではなかろうか。ならこの欲に覆われ追われ続ける一生に意味があるとはおよそ思えない。

雑魚もそれ以外も同じだと言うなら、人の一生というのは徒労の累積でしかないのだろうか。
私はこの「生きる意味」をずっと探している。

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