宗教でなぜ争いがあるのか、と、三大宗教が広まる背景。

日本では政治、宗教の話ってのは、タブーというか、全体的に興味がない人が多いですね。

私がいるタイでは、宗教の話はほとんどしません、というか言葉が通じないから無理ですが、タイ人同士でもあんまりしてなさそうです。

マスコミ曰く、宗教間での争いが多い、って言っていますし、なんかそんな感じもしますけど、実際は違いますね。

本質的に、宗教を利用して金や権力を持ちたい人間が、宗教の上に立って、人間を利用して、争っているのが実態です。

考えてみてください。キリスト、ムハンマド、ブッタの3人が集まったら殺し合いすると思いますか?おそらく3人で、どうやったら人類が平和に暮らせるのか、という会話に終始するはずです。

そんな人達じゃないと、誰もついていきませんよね。

イスラム教は、もともと、素晴らしい宗教です。女性を強く守り、部族間の争いを減らしてきた功績は、残念ながらあまり知られていません。

三大宗教は、その地域の自然環境に分かれて、広まっています。

キリスト教の考え方の一つである、全知全能の神。その神が一度限りの人生を与えた、という考え方が、欧州で広まったのも、もともと石の文化だからと言われています。

エジプト文明も石がメインですよね。

石の場合は、一回壊れるとそれでおしまい。自力で復活する事はありません。なので、一回こっきりの人生という考え方が広まりやすいですし、石は人間が動かして、建築しないといけない。

でも人間は全知全能ではない、このような人間を作ったのが全知全能の神なんだ、という考え方が広まりやすい土壌です。

一方、仏教はというと、インドで発祥して、アジアに流れていきました。地理的にはヨーロッパに行ってもおかしくないんですけど、アジアです。

アジアの特徴としては、木の文化です。木造建築物が多い。

木というのは、勝手に伸びていきます。たとえ枯れても、新しい木がすぐに生えてきます。雑草もそうです。なんか一回じゃなくて、何回も生きているように見えます。

熱帯から亜熱帯は、仏教でいう、輪廻転生(りんねてんせい)の思想が広まりやすい土壌があったんですね。

私、藤田稔という名前の人生は一回だけかもしれませんが、生命そのものは久遠の過去から続いている、否、はじまりもなければ、おわりもない、という空の概念が根付きやすい土壌があります。

だって、目の前で草がニョキニョキ生えてくるんですから。

次にイスラム教ですが、イスラム教は中東の地で生まれます。偶像崇拝をゆるさない宗教であることは、最近のパリの事件で、ご存知の方も多いはずです。

なぜ、偶像崇拝を認めないか、というと、これもまた環境によります。

マホメットがいた当時、砂漠で流浪の民をしている不足が数百あったといわれています。その中では、争いはしてはならない、という事になっていましたが、実際は、水場や食料で争い事が起きていたはずです。

ムハンマドは優秀な商人でした。また、優秀な頭脳を持っていました。中東の各部族ごとの争いごとを、知恵と工夫で治めていったのです。

ムハンマドは、もっと本質的に、争いをやめさせることはできないか、特に宗教(各部族ごとの原始宗教です)での争いは止めよう、と思ったのでしょう。

部族の心のよりどころを破壊する行為をさせない、その為に、偶像崇拝を禁止しているのでは?と言われています。

また、女性にヴェールをまとわせて、多重婚を認めていますが、1500年前にこれが非常に役に立っています。

当時は、食料もすくなく、日差しの強い地域。当然、女性の肌を守る事になります。また、顔やスタイルで男性が女性を娶る機会もありません。

多重婚を認めるのも、結婚できなかった女性は、誰が守るのか、食料を誰が渡すのか、今と違い、1500年も前。人権という概念がありません。

と、非常に簡単に3大宗教が広まった背景を、私なりに述べてみました。

宗教を知らずに、グローバル社会など言ってる人は、外国人の気持ちや文化がまったくわかっていない、と思っていいでしょう。グローバルとかなれないですもの。

宗教については、いろいろな説があります。どれが正しいのか、何がいいのか、すぐにわかる事はありませんが、一つ言える事は、宗教は人間の為にあるのであり、宗教の為に人間がいるわけではない事です。


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